18:管理人じゃないんですけど
朝、目が覚める前に、廊下がうるさかった。
子供の足音が二人ぶん、こちらへ来て、行って、また戻ってくる。そのあいだを縫うように、爪が石を蹴る音がする。大人が何か言う。笑い声がして、扉が閉まる音が三つ続く。
この部屋で保存食をかじり始めたころは、割れた窓から入る風の音しかしなかった。リタさんが板を打ってからは、それも無くなった。
起き上がって、干し肉とパンを出して、一人で食べた。食べているあいだも、廊下はずっとうるさい。
うるさいと思っているのに、腹は立たない。そういう音があるものなのだと、少しずつ慣れてきている。
日が昇るころ、みんな街へ出ていく。
日雇いの仕事は朝に決まるので、遅れると取れないのだそうだ。行商の人は荷を担いで、もっと早く出る。
南門で番号を確かめる者は誰もいない。結界が確かめている。人が通るたびに門のあたりの膜がわずかに薄くなって、また戻る。それだけだ。
夕方になると、同じ人たちが同じ門から戻ってくる。
朝と夕方で顔が同じで、荷の中身だけが違う。
三階の踊り場に、鉢が二つ置かれるようになった。
誰が置いたのかは知らない。土の入った欠けた鉢で、細い草のようなものが伸びている。花になるのかどうかも分からない。
水をやっている人がいるので、置きっぱなしではないらしい。
最初に見たとき、通行の許可の条件に触れるかどうかを考えた。設備の操作ではない。管理区画でもない。範囲の中だ。ニコも何も言ってない。
問題ない、と結論して、そのまま通り過ぎた。
問題ないと分かってから、少し嬉しかったような気がするが、その理由は自分でもよく分からなかった。
その日の昼、通りの向こうの棟の廊下で、女の人に呼び止められた。
「管理人さん」
四十くらいの人だった。何番かは分からない。番号は扉に貼ってあるが、人の顔と番号は結びついていない。
「えっと……はい」
「うちの戸、蝶番が外れて閉まらなくなってね」
蝶番は物理だ。俺には直せない。
「蝶番は、私では直りません。リタさんに伝えます」
「そうかい。じゃあ頼むわ」
その人は行ってしまった。
三歩ほど歩いてから、気づいた。
(管理人じゃないんですけど)
声には出さなかった。出したところで、じゃあ何なのかと訊かれる。答えられない。
九番の人に「設備を見ている者です」と言ったときも、たぶん伝わっていなかった。伝わらないので、向こうが勝手に名前をつけた。
こちらは番号で呼んでいて、向こうは管理人と呼んでいる。
どちらも名前ではない。
* * *
水が出ないと聞いたのは、その三日後だった。
「おい、起きろ。水だ」
朝のまだ早いうちに、扉を叩かれた。リタさんだった。珍しく朝から起きている。
「三階が出ないってさ。さっき下りてきた奴が言ってた」
「行きます」
三階まで上がった。廊下の奥の部屋に水の口がある。
摘まみを回した。
出た。
「……出ますね」
「出るな」
「出ています」
勢いも悪くない。手のひらに受けると、朝の水らしく冷たかった。
言った本人を探して、二階まで下りた。十四番の部屋の人で、まだ出かける前だった。
「出なかったんですか」
「出なかったよ。全然」
「いつです」
「いつって、ついさっきだよ」
「さっき、というのはどのくらい」
「暗いうちだよ。俺は早いから」
それだけだった。
もう一度三階へ上がって、水の口に手を当てた。
給水系統:正常
弁も見た。経路も辿った。切れているところは無い。二階も、一階も見た。
給水系統:正常
どこにも異常が無い。
異常が無いのに、朝は出なかったらしい。
操作盤に手を当てて、ニコを呼んだ。
「三階の水について、記録はありますか」
「給水系統に異常の記録はありません」
「異常ではなく、出なかったという記録は」
「……」
「無いですか」
「該当する項目がありません」
金色の目が、こちらを見ていた。
記録が無いのではない。記録する欄が無い。
壊れたことは残る。足りなかったことは残らない。この施設は、そういう作りで動いてきた。
書き留めておきたかった。何階の誰が、何時に、出なかったか。
書くには情報が足りなかった。名前を知らない、正確な時間も分からない。
* * *
昼にもう一度試した。出た。
夕方にも試した。街から戻ってきた人が続けて使ったあとに試して、それでも出た。
夜になっても出た。
出ないところを、俺はまだ見ていない。
その日の夕方、フィーネさんが来た。
いつもの木札ではなく、覚え書きらしい紙を持っていた。
「シュウさん、水のことなんだけど」
「聞いています」
「三人から言われた。ううん、四人かな」
「何階の方ですか」
「こっちの棟が、三階に二人と、二階に一人。四人目は通りの向こうの棟。……何階だったかな。二階か、三階」
「何時ごろか、分かりますか」
「みんな、暗いうちって」
「四人とも、ですか」
「うん。あと、あのね」
彼女は紙を折った。
「三日前から出てなかったみたい」
「……三日」
「今日まで誰も言わなかったの」
「なぜです」
言ってから、訊くようなことではなかったと思った。
フィーネさんは、少し言いにくそうにした。
「置いてもらってる、って思ってるから。あんまり文句を言うと、出ていけって言われるかもって」
「言いません」
「うん。シュウさんは言わない。でも、そう思う人はいる」
そういうものらしい。
三十日ごとに延ばす、と決めたことも影響しているのだろう。
フィーネさんに最初に許可を出したとき、彼女に「信用ない?」と聞かれた。そのときは、ちゃんと説明できた。
今回はただ決まり事として伝えただけだった。
三日前、戸が閉まらないと言ってきた女の人がいた。
あの日はもう、水が出ていなかったことになる。
戸のことは言えて、水のことは言えない。戸は俺に直せないと分かっている物で、水は俺が直したと知っている物だ。文句をつけるなら、前者の方が安全らしい。
そんな区別があるとは、言われるまで思っていなかった。
「明日から、朝に誰か立ってようか。出なかったら、その場で言ってもらう」
「そうですね」
「わたし、夜番の日は無理だけど」
「私がやります」
言うと、フィーネさんが目を細めた。
この前と同じ顔だ。俺は先に言い訳を用意することにした。
「暗いうちに起きるだけです。倒れる話ではありません」
「まだ何も言ってないよ」
「言われる前に言いました」
彼女が街へ帰ったあと、リタさんの作業場へ行って、この話をした。彼女は炭を持ったまま聞いていた。
「出ないって言った奴は、嘘ついてんのか」
「ついていないと思います。四人が同じことを言っています」
「じゃあ壊れてるだろ」
「壊れていません」
「見えてるお前が言うならそうなんだろうが」
彼女は炭を置いた。
「壊れてないのに出ないってのは、なんだ」
「分かりません」
本当に分からなかった。
俺のやり方は、壊れているものを見つけて直すやり方だ。壊れていないものについて、<デバッグ>は何も言わない。前にも同じ壁に当たったことがある。あのときは、二つの場所を比べて答えが出た。
今回は比べる相手がいない。給水系統は、ここに一つしかない。
「明日の朝、観察します」
「観察?」
「出ない時間に、その場にいます。出ないところを見ないと、何が起きているのか分かりません」
「見えなかったら」
「明後日の朝も、続けます。分かるまで」
リタさんは少し黙って、それから鼻を鳴らした。
「壊れるところを見たいって言って、箱を一個焼いた奴だったな、お前は」
「あれは、見えました」
「そうだったな」
寝る前に、もう一度三階へ上がった。水は出た。
下りる途中、踊り場の鉢の草が、昼に見たときより少し倒れている気がした。
朝に水をやっている人がいるのだとしたら、その人も、水が出なかったのだろう。
三日、誰も言わなかった。
明日は暗いうちに起きる。何時に起きればいいのかは分からないので、いつもより早く、としか決めようがなかった。




