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18/51

18:管理人じゃないんですけど

 朝、目が覚める前に、廊下がうるさかった。

 子供の足音が二人ぶん、こちらへ来て、行って、また戻ってくる。そのあいだを縫うように、爪が石を蹴る音がする。大人が何か言う。笑い声がして、扉が閉まる音が三つ続く。

 この部屋で保存食をかじり始めたころは、割れた窓から入る風の音しかしなかった。リタさんが板を打ってからは、それも無くなった。

 起き上がって、干し肉とパンを出して、一人で食べた。食べているあいだも、廊下はずっとうるさい。

 うるさいと思っているのに、腹は立たない。そういう音があるものなのだと、少しずつ慣れてきている。


 日が昇るころ、みんな街へ出ていく。

 日雇いの仕事は朝に決まるので、遅れると取れないのだそうだ。行商の人は荷を担いで、もっと早く出る。

 南門で番号を確かめる者は誰もいない。結界が確かめている。人が通るたびに門のあたりの膜がわずかに薄くなって、また戻る。それだけだ。

 夕方になると、同じ人たちが同じ門から戻ってくる。

 朝と夕方で顔が同じで、荷の中身だけが違う。


 三階の踊り場に、鉢が二つ置かれるようになった。

 誰が置いたのかは知らない。土の入った欠けた鉢で、細い草のようなものが伸びている。花になるのかどうかも分からない。

 水をやっている人がいるので、置きっぱなしではないらしい。

 最初に見たとき、通行の許可の条件に触れるかどうかを考えた。設備の操作ではない。管理区画でもない。範囲の中だ。ニコも何も言ってない。

 問題ない、と結論して、そのまま通り過ぎた。

 問題ないと分かってから、少し嬉しかったような気がするが、その理由は自分でもよく分からなかった。


 その日の昼、通りの向こうの棟の廊下で、女の人に呼び止められた。


「管理人さん」


 四十くらいの人だった。何番かは分からない。番号は扉に貼ってあるが、人の顔と番号は結びついていない。


「えっと……はい」

「うちの戸、蝶番が外れて閉まらなくなってね」


 蝶番は物理だ。俺には直せない。


「蝶番は、私では直りません。リタさんに伝えます」

「そうかい。じゃあ頼むわ」


 その人は行ってしまった。

 三歩ほど歩いてから、気づいた。


(管理人じゃないんですけど)


 声には出さなかった。出したところで、じゃあ何なのかと訊かれる。答えられない。

 九番の人に「設備を見ている者です」と言ったときも、たぶん伝わっていなかった。伝わらないので、向こうが勝手に名前をつけた。

 こちらは番号で呼んでいて、向こうは管理人と呼んでいる。

 どちらも名前ではない。


 * * *


 水が出ないと聞いたのは、その三日後だった。


「おい、起きろ。水だ」


 朝のまだ早いうちに、扉を叩かれた。リタさんだった。珍しく朝から起きている。


「三階が出ないってさ。さっき下りてきた奴が言ってた」

「行きます」


 三階まで上がった。廊下の奥の部屋に水の口がある。

 摘まみを回した。

 出た。


「……出ますね」

「出るな」

「出ています」


 勢いも悪くない。手のひらに受けると、朝の水らしく冷たかった。

 言った本人を探して、二階まで下りた。十四番の部屋の人で、まだ出かける前だった。


「出なかったんですか」

「出なかったよ。全然」

「いつです」

「いつって、ついさっきだよ」

「さっき、というのはどのくらい」

「暗いうちだよ。俺は早いから」


 それだけだった。

 もう一度三階へ上がって、水の口に手を当てた。


   給水系統:正常


 弁も見た。経路も辿った。切れているところは無い。二階も、一階も見た。


   給水系統:正常


 どこにも異常が無い。

 異常が無いのに、朝は出なかったらしい。


 操作盤に手を当てて、ニコを呼んだ。


「三階の水について、記録はありますか」

「給水系統に異常の記録はありません」

「異常ではなく、出なかったという記録は」

「……」

「無いですか」

「該当する項目がありません」


 金色の目が、こちらを見ていた。

 記録が無いのではない。記録する欄が無い。

 壊れたことは残る。足りなかったことは残らない。この施設は、そういう作りで動いてきた。

 書き留めておきたかった。何階の誰が、何時に、出なかったか。

 書くには情報が足りなかった。名前を知らない、正確な時間も分からない。


 * * *


 昼にもう一度試した。出た。

 夕方にも試した。街から戻ってきた人が続けて使ったあとに試して、それでも出た。

 夜になっても出た。

 出ないところを、俺はまだ見ていない。


 その日の夕方、フィーネさんが来た。

 いつもの木札ではなく、覚え書きらしい紙を持っていた。


「シュウさん、水のことなんだけど」

「聞いています」

「三人から言われた。ううん、四人かな」

「何階の方ですか」

「こっちの棟が、三階に二人と、二階に一人。四人目は通りの向こうの棟。……何階だったかな。二階か、三階」

「何時ごろか、分かりますか」

「みんな、暗いうちって」

「四人とも、ですか」

「うん。あと、あのね」


 彼女は紙を折った。


「三日前から出てなかったみたい」

「……三日」

「今日まで誰も言わなかったの」

「なぜです」


 言ってから、訊くようなことではなかったと思った。

 フィーネさんは、少し言いにくそうにした。


「置いてもらってる、って思ってるから。あんまり文句を言うと、出ていけって言われるかもって」

「言いません」

「うん。シュウさんは言わない。でも、そう思う人はいる」


 そういうものらしい。

 三十日ごとに延ばす、と決めたことも影響しているのだろう。

 フィーネさんに最初に許可を出したとき、彼女に「信用ない?」と聞かれた。そのときは、ちゃんと説明できた。

 今回はただ決まり事として伝えただけだった。


 三日前、戸が閉まらないと言ってきた女の人がいた。

 あの日はもう、水が出ていなかったことになる。

 戸のことは言えて、水のことは言えない。戸は俺に直せないと分かっている物で、水は俺が直したと知っている物だ。文句をつけるなら、前者の方が安全らしい。

 そんな区別があるとは、言われるまで思っていなかった。


「明日から、朝に誰か立ってようか。出なかったら、その場で言ってもらう」

「そうですね」

「わたし、夜番の日は無理だけど」

「私がやります」


 言うと、フィーネさんが目を細めた。

 この前と同じ顔だ。俺は先に言い訳を用意することにした。


「暗いうちに起きるだけです。倒れる話ではありません」

「まだ何も言ってないよ」

「言われる前に言いました」


 彼女が街へ帰ったあと、リタさんの作業場へ行って、この話をした。彼女は炭を持ったまま聞いていた。


「出ないって言った奴は、嘘ついてんのか」

「ついていないと思います。四人が同じことを言っています」

「じゃあ壊れてるだろ」

「壊れていません」

「見えてるお前が言うならそうなんだろうが」


 彼女は炭を置いた。


「壊れてないのに出ないってのは、なんだ」

「分かりません」


 本当に分からなかった。

 俺のやり方は、壊れているものを見つけて直すやり方だ。壊れていないものについて、<デバッグ>は何も言わない。前にも同じ壁に当たったことがある。あのときは、二つの場所を比べて答えが出た。

 今回は比べる相手がいない。給水系統は、ここに一つしかない。


「明日の朝、観察します」

「観察?」

「出ない時間に、その場にいます。出ないところを見ないと、何が起きているのか分かりません」

「見えなかったら」

「明後日の朝も、続けます。分かるまで」


 リタさんは少し黙って、それから鼻を鳴らした。


「壊れるところを見たいって言って、箱を一個焼いた奴だったな、お前は」

「あれは、見えました」

「そうだったな」


 寝る前に、もう一度三階へ上がった。水は出た。

 下りる途中、踊り場の鉢の草が、昼に見たときより少し倒れている気がした。

 朝に水をやっている人がいるのだとしたら、その人も、水が出なかったのだろう。

 三日、誰も言わなかった。

 明日は暗いうちに起きる。何時に起きればいいのかは分からないので、いつもより早く、としか決めようがなかった。


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