17:大丈夫じゃないですよ
三日目の夕方に、通りの向こうの棟の最後の灯りが点いた。
倒れなかったのは、リタさんが食事と日暮れのたびに手を止めさせたからだ。
戸と窓は、彼女がやった。俺には手の出ないものばかりだ。
その夜は言われたとおりに寝た。
翌朝、南門に人が来た。
教会が選んだのは二十五人だったが、来たのは十九人だった。
残りは自分から断ったのだと、フィーネさんが言った。五百年誰も入れなかった場所に住むのは気味が悪い、という理由らしい。
そういう見方があるのか、と思った。
俺がここへ来たとき頭にあったのは、五百年誰も手を入れていない設備が丸ごと残っている、ということだけだ。この世界は最初から全部が知らない場所で、遺跡を特別不気味に思ってはいなかった。
でも、元の世界の話に置き換えて、ようやく少し分かった。長年放置されてた建物に今日から住めと言われたら、確かに戸惑うだろう。
十九人が、荷を抱えて門の外に並んでいた。荷は少ない。全部持ってきてこれだけなのだと、しばらくしてから気づいた。
番号を配るのは早かった。一人ずつ前に立ってもらって、条件を四つ読み上げて、それで終わる。フィーネさんが紙に書き取っていく。二部作るので、同じことを二度書いている。
九番の人が、途中で訊いてきた。年配の男の人で、持ち物のほとんどが道具だった。
「あんたが、ここの人かい」
「そうです」
「いや、そうじゃなくて」
その人は言い直そうとして、うまくいかなかったらしい。
どこの誰なのかを訊きたかったのだと思う。俺には答えようがなかった。この街の人間ではないし、この遺跡の持ち主でもない。
「設備を見ている者です」
「……ああ」
納得したのかどうかは分からない。ただ、それ以上は訊かれなかった。
その夜、通りの向こうの棟に灯りが点いていた。
窓が六つ、七つ。俺の部屋からは、その並びがよく見える。
しばらく見ていたら、後ろにニコが立っていた。
「現在、施設内に二十一名です」
「……はい」
「二十一名です」
「聞きました」
彼女は動かなかった。
もう一度言いたいのだろうと思って、待った。
「以上です」
「はい」
それだけ言って、彼女は下がっていった。
数えられる状態になったことを、報告しに来たのだと思う。誰に頼まれたわけでもない。
* * *
その日から、不具合が増えた。
増えた、というのは正確ではない。前からあったものが、使われて初めて表に出ただけだ。五百年ぶりに人が触っているのだから、当然といえば当然だった。
廊下を歩くと、視界の端で文字が湧いた。
三階の扉の開閉機構、異常。二階の排水、異常。三階の踊り場の灯り、停止。北側の弁、異常。角を曲がるとまた出る。初日で十七件あった。数えたのは、数えないと順番がつけられないからだ。
どれも小さい。小さいが、放っておくと生活が止まる。
そして、視界に出ないものが別にあった。曲がった蝶番。外れた戸板。割れた窓。動いていないものは<デバッグ>に映らないし、映ったところで物理破損としか出ない。
書き留められないので、思い出した順にリタさんへ口で伝えた。またか、と言われた。言われたが、受け取ってはくれた。
二日目から、ニコが先に持ってくるようになった。
「第一居住区、第二棟、三階、東側の扉。開閉機構に異常があります」
「見に行きます」
「第一棟、二階の排水は、昨日より悪化しています」
「そっちが先ですね」
「はい」
彼女は施設の中で起きていることを、全部見ている。俺が歩いて拾うより早い。
この数日でいちばん話した相手が誰かというと、たぶんニコだった。
人の采配は、フィーネさんがやっていた。
どの部屋に誰を入れるか。こちらの棟の空き六部屋と、通りの向こうの棟。子供のいる家を近くにまとめたのは、親どうしで見ていられるようにだそうだ。
彼女は名前で呼んでいた。全員の名前を覚えていた。当たり前だ。紙に書いたのは彼女なのだから。
俺は番号しか知らない。
名前は街が持つ、と言ったのは俺だ。理屈は今も間違っていないと思う。そう決めたぶん、俺は誰の名前も覚えないままでいられる。
ただ、自分が人を番号で呼んでいることは、引っかかった。
煮炊きの一角は一棟に一つしかない。十九人が同じ時間に使えるものではないので、それぞれの棟で順番を三つに分けた。それを決めたのも、紙に書いたのもフィーネさんだった。
二日目の夜に、二階の排水を直しに行った。
その階の奥の部屋が、この棟のみんなが飯を食う場所になっていた。煮炊きの一角がその階にしかないので、自然とそうなったらしい。椅子はないので、床に座り込んで食べている。
俺が使っていたころは、水の口がいくつか並んで、鍋が一つ載っている棚があるだけだった。
入っていくと、話し声が止まった。
止まった、というほどはっきりしたものではない。声の数が減って、こちらを見る顔が三つほど増えて、それから誰かが「あ、どうも」と言った。
俺も「どうも」と言った。
排水の口は部屋の隅にある。しゃがんで手を当てた。
弁が閉じたまま止まっていた。開けという合図を待っていて、その合図がどこかで切れている。よくある形だ。切れているところを繋いで、待つのをやめさせた。
三十も数えないうちに終わった。
立ち上がって、出ていくまでのあいだ、誰も俺に何も言わなかった。
何を言えばいいのか分からないのだと思う。
俺にも分からなかった。
物資はリタさんが手配していた。ギルドに顔が利くので、鍋と桶と寝具の余りが二日で届いた。
届いた日、彼女は荷車の脇で腕を組んで、量に文句を言っていた。
「毛布が足りん」
「足りませんか」
「十九人に十二枚だぞ。あの爺、数を数えられんのか」
「私が数えます」
「お前は寝ろ」
それで話が終わった。
人と、物と、設備。三人がそれぞれ別のものを持っていて、誰も他人の領分に手を出さない。うまく回っている、と思った。
思ったが、俺の担当だけは、人と口をきかなくても回る。
朝は、水を使う時間が重なった。
どの階も同じだ。みんな同じころに起きるから、そうなる。
井戸が一つなので朝は列になります、と、コンラート司祭が言っていた。あれは教会の話だったはずだ。
人のいない時間に、水の口に手を当てた。
給水系統:正常
その日の十七件のうちに、水の順番は入れなかった。壊れていないからだ。
* * *
四日目の夜、三階の扉を直した帰りに、廊下で子供に会った。
三つか四つか、相変わらず見当がつかない。前に俺の手を握った子だった。向こうは覚えていないらしく、俺の脇をすり抜けて走っていった。
その少し後ろを、トモが同じ速さで走っていった。
止めるべきだったのかもしれない。廊下は走ると危ない。
声をかけようとして、名前を知らないことに気づいた。呼びようがない。
しばらくその場に立っていたら、後ろから足音がした。
「シュウさん」
「フィーネさん」
鎧のままだった。勤務のあとに、そのまま来たのだと思う。
手には木札の束を持っている。番号を書いたものだ。彼女はそれを扉に貼って回っている。
「あの子、走ってた?」
「走っていました。トモも走っていました」
「あの猫、最近ずっとあの子といるんだよね」
言われてみればそうだった。
この施設で、いちばん先に人の輪へ入ったのは猫型のゴーレムだった。
「ごめん、あとで言っとく」
「……」
言おうか、と思った。
言うべきかどうかは分からなかった。ただ、言わない理由も見つからなかった。
「フィーネさん、昨日も寝てないでしょう」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないですよ」
「でも、わたしが――」
そこで切れた。
彼女は言いかけたまま、口を閉じた。
それから、俺の顔を見た。
何も言わなかった。責める顔でもなかった。ただ、まっすぐこちらを見ていた。
その視線に、心当たりがありすぎた。
俺は四日前まで、一棟直すのに倒れかけていた人間だ。その前は実際に倒れている。そして、怒られてもいる。
「……それとこれとは別です」
「そう?」
「別です」
フィーネさんは、ちょっと笑った。
それから、木札の束を持ち直して、廊下の奥へ歩いていった。三つ目の扉の前で止まって、札を貼って、次へ行く。
貼り終わるまで待っていようかと思ったが、やめた。待っていたところで、続きを話せる気がしない。
部屋へ戻って、明日直すものを数えた。
十七件のうち、今日片付いたのが九件。新しく出たのが六件。差し引きで、明日は十四件ある。
数え終わったところで、扉の外に気配があった。
「現在、施設内に二十二名です」
「……分かりました」
「以上です」
灯りを落とした。
木札の束は、まだ厚かった。貼り終わるまで帰らないだろう。




