14:順番、つけちゃった
街の市へ来たのは、自分の金で食べ物を買うためだった。
似たことは前にも一度している。宿を引き払った日に、残っていた金のほとんどを干し肉と黒パンに変えた。ただ、あれは使い切って終わりだった。次に何を食べるかは、考えても仕方がなかった。
今日は違う。冬を越すための準備だった。これでもう、フィーネさんに心配をかけずに済む。
ただ、何をどれだけ買えばいいのか、まるで見当がつかない。
干し肉を並べた店の前で足を止めて、店番の人に正直に訊いた。
「冬を越すのに、どのくらい要りますか」
「あんた、何人だい」
「一人です」
「男が一人で冬なら、これとこれと、あとは豆だ。塩は別で買いな」
言われたとおりに買った。すぐに両手が塞がった。
背負い袋を買って、荷物を詰めた。
器と食器もいくつか買った。水を飲むもの、少し深いもの、平たい皿、スプーン、フォーク。鍋も買った。
途中で少し迷って、干した果物を買い足した。リタさんは干した果物をよく食べる。あった方がいい気がした。
本人は遺跡にこもっている。作業場に台が入った日から、飯のときしか出てこない。型を起こすのに俺は要らない。街へ行ってくると言ったら、行けとだけ言われた。
背中はずっしりと重くなった。まだ足りないものはあるかもしれない。それはフィーネさんに訊いて、また買いにくればいいだろう。今日はこれ以上持てない。
(帰るか)
そのときだった。
音が、後ろから来た。
石が擦れる音でも、割れる音でもない。低くて、長い。足の裏から先に届いた。
振り返ると、通りの向こうで土煙が立ち上がっていた。
悲鳴が上がった。一つではなかった。
* * *
人が走る方へ、俺も走った。背負い袋の紐が肩に食い込む。
市の裏手の一角だ。細い道が入り組んで、三階建ての細長い建物が肩を寄せ合うように並んでいる。職人街とは反対側で、日雇いや行商の人たちが多いのだと、いつだったかフィーネさんが言っていた。
そのうちの一棟が、半分潰れていた。
石の壁は立っている。落ちたのは中身だった。通りへ向いた面だけが、上から斜めに崩れ落ちていた。
そこから中が見えた。二階と三階の床が、そのまま下まで落ちて重なっている。壁からは、床を支えていた木の梁が、折れた端を突き出していた。塵がまだ降りている。
叫び声がいくつも上がっていた。名前を呼ぶ声だった。
視界の端に、文字が湧いた。
誰かの家の灯り、物理破損。水の口、物理破損。扉の開閉機構、物理破損。奥の方から、まだ出てくる。灯り、物理破損。物理破損。物理破損。
全部同じ言葉だった。
俺が一つも手を出せない、言葉。
瓦礫の端に手を触れてみた。石は石だった。何も出てこない。
当たり前だ。壊れているのは仕組みではなく、建物そのものだ。
(……これは、俺の領分じゃない)
思った瞬間に、自分の考えが薄っぺらく聞こえた。
領分ではない。そのとおりだ。そのとおりだが、目の前で人が埋まっている。
「下がって! 下がってください!」
守備隊が来た。
三人、四人と駆け込んできて、集まった人を押し戻していく。俺も押し戻された。腕を引かれて、道の反対側まで下げられた。
その中に、金茶色の三つ編みがあった。
フィーネさんは、俺には気づかなかった。
崩れた面の前で一度止まって、それから左手の路地へ走り込んだ。何かを叫んで、二人ばかり呼び寄せている。
しばらくして、彼女だけが出てきた。
次は反対側へ足が向いた。三歩で止まった。
止まったまま、顔だけが路地の方へ戻る。
数秒そこに立って、それから彼女は路地へ引き返した。
反対側へは、行かなかった。
あの人が途中で足を止めるのを、俺は初めて見た。
俺の隣で、初老の人が首を振っていた。腰に道具を提げている。大工だろう。
「雨だな」
「雨、ですか」
「梁の折れ口を見な。奥まで黒い。あそこまで色が変わるのは、何年も水が回った証拠だ」
「……」
「樋か、屋根か。どっちにしろ、外からじゃ分からん。見えてりゃ直してるさ。誰も見えねえんだ」
俺は自分の手のひらを見た。
この人が言ったことは、俺には一つも見えない。石を触っても、木を触っても、何も出てこない。腐った梁は、動いていないからだ。
俺にできることは、結局ほとんど無かった。
背負い袋を壁際に下ろして、水を運ぶ列に混ざった。桶を受け取って、隣へ渡す。それだけのことを、日が動くのが分かるくらい長く続けた。
途中で、知らない人に子供を預けられた。
「ちょっと見ててくれる?」
「え」
「亭主がまだ中なの」
言うだけ言って、その人は俺の手に子供の手を握らせて、列の前の方へ行ってしまった。
俺の腰くらいまでしかない。何歳なのかは分からなかった。歳の見当がつくほど、子供に関わって生きてこなかった。
しゃがんだ方がいいのか、立っていた方がいいのかも分からず、とりあえず立っていた。
その子は泣かなかった。ずっと建物の方を見ていた。
泣かれる方が、まだ良かったかもしれない。
日が傾くころ、最後の一人が担ぎ出された。
誰かが数を読み上げて、それから、もう一度読み上げた。
二度目のあとで、人の輪から息が漏れた。
全員だった。死んだ者はいなかった。
さっきの人が戻ってきて、礼も言わずに子供の手を引いていった。それで良かった。
壁際に置いたままだった背負い袋は、白く埃をかぶっていた。
背負い直すと、朝より重い気がした。
* * *
その夜、フィーネさんは来ないだろうと思っていた。
来た。
鎧が上から下まで白く汚れていた。髪から粉が落ちて、片方の籠手が無かった。
手首のブレスレットも、飾りの石が白くなっていた。
何も言わずに立っている。いつもの明るい声の挨拶はない。
「座ってください」
彼女は素直に座った。それも、おかしかった。
いつもなら、まず俺の部屋の隅を見て、置きっぱなしの上着を確認するのに。
なんと声をかけたらいいか分からなかった。
いろんな言葉が頭の中に浮かんで、どれも違う気がして、ようやく口を開いた。
「食べますか」
「え」
「今日、食材を買ってきました」
二階に煮炊きのための一角がある。火は使わない。あの温度調節の箱と似た理屈のものが、据え付けで並んでいる。食べ物を買うことを決めて、昨日、直したばかりだった。
豆を煮た。煮た豆に塩を振った。
買ったばかりの器に盛って、スプーンを添えて、それを彼女の前に置いた。
フィーネさんは、しばらく器を見ていた。
「シュウさんが?」
「買いました」
「……買ったの」
「自分の金で」
彼女は、少し笑った。それから食べ始めて、途中で一度、目のあたりを腕でこすった。
俺は、何も訊けなかった。
部屋は静かだった。
最後の一口を飲み込んで、フィーネさんは小さく息を吐いた。
「今日、事故があってね」
「見てました」
フィーネさんの瞳が、こちらを向いた。
「え」
「水を運ぶ列にいました。端の方に」
「……気づかなかった」
「邪魔にならないところにいたので」
「そっか」
小さく「見てたんだ」と呟いてから、目を伏せた。
「一人も死ななかった」
「はい」
そこで切れた。
いつもならもっと喋る人だ。喋らない分の重さが、部屋に残った。
「あのね」
「はい」
「三人、いっぺんに分かったの」
器を持ったまま、彼女は言った。
「右と、左と、少し先。三人とも、わたしの近くにいたの」
「……はい」
「どれがいちばん危ないかは、分からないんだよ。危ない、しか分からないから」
「……」
「わたし、一人しかいないから」
言葉が続くのを待った。続かなかったので、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと聞こえた。
「順番、つけちゃった」
どう答えるのが正しいのか、分からなかった。
全員助かったんだから良かったじゃないですか、と言いかけて、やめた。それは、たぶん彼女がいちばん言われたくないことだ。全員助かったのは結果であって、彼女が順番をつけた事実は消えない。
フィーネさんは、器の縁を指でなぞっていた。
「うちの家、昔から言うことがあってね」
「はい」
「一人も見捨てるな、って」
「……はい」
「小さいころから聞いてるの。ご飯のときとか、寝る前とか。だから、そういうものだと思ってた」
彼女の指が止まった。
「順番をつけるな、って話じゃないんだと思う。それは別の話だっていうのも、分かるし」
「はい」
「でも、つけたなあって」
「それは」
言いかけて、また止まった。
視線を落とした。何度か口を開きかけて、ようやく顔を上げた。
「怪我は」
「してない」
即答だった。
器を置いた彼女の手の甲に、乾いた血がついていた。切れているのは指の付け根で、埃と混ざって黒くなっている。
言葉と、見ているものが合っていない。
「してますよ」
「え」
「右手です」
彼女は自分の手を持ち上げて、しばらく見ていた。
「……あ、ほんとだ」
「いつからですか」
「分かんない」
分からないことがあるらしい。
三人分の危機は分かるのに。
布を水で濡らして持ってきて、渡した。彼女は素直に受け取って、自分で拭いた。拭きながら、また少し笑った。
「なんか、逆だね」
「逆ですか」
「いつも、わたしが持ってくる方なのに」
その言い方が、あんまり普通だったので、俺は返事をしそこねた。
彼女は置いてあった上着を一つ持って、あとはいつもどおり手を振って、帰っていった。籠手が片方無いままだった。
部屋には、空になった器と、汚れた布と、残った上着があった。
三人いっぺんに分かる、というのがどういうことなのか、俺には想像がつかない。
ただ、順番をつけた、と言ったときの声だけは、はっきり覚えている。
あれは、誰かに聞かせるための声ではなかった。




