12:該当区画は居住用途です
朝から、リタさんは廊下を歩き回っていた。
昨日運び込んだ箱は半分も開いていない。荷ほどきより先に炉の場所を決めるらしい。
俺の部屋の前を通り、彼女の部屋の前を通り、奥まで行って、そこで足を止めた。爪先で床を二度叩く。
「ここだ」
「……ここですか」
「広さがいる。天井も高い方がいい」
奥の部屋は、俺が寝ている場所の隣の隣。
つまり、十数歩のところに炉が来る。
「工房のための区画が、別にあると聞きましたが」
「見てきた」
「もう、ですか」
「昨日の夕方だ。フィーネが帰ったあとに」
この人はいつ寝ているんだろう。
「どうでした」
「立派だったよ」
リタさんの目が、斜め上で止まった。
「炉の跡が六つ並んでる。煙を抜く穴も、水も、石を捨てる場所もあった。あそこで焼くのが正しい」
「では」
「旧市街の反対の端だ」
リタさんは壁に寄りかかって、腕を組んだ。
「あの箱を作ったとき、お前とあたしで何回往復した」
「……数えていません」
「あたしは数えてた。二十七回だ」
「二十七」
「作業台からこの階まで、階段だけでな。それが向こうの区画になったら、一日に何回できると思う」
歩く時間があって、間に作業が挟まって。……そこまで考えて、止めた。その区画を、俺はまだ見ていない。歩いてどのくらいかも知らない。
「分かりません。私は工房区画へ行っていないので」
「そうだったな」
リタさんは、鼻を鳴らした。
「実際、遠くはないんだよ。歩いて行って、歩いて帰ってくる。それだけならな」
「はい」
「けど、手が動いてる最中は近くない」
リタさんは腕を組み直した。
「ちょっと来い、が言えなくなる。それだけだ」
もっともな話だった。
彼女が直して、俺が見て、駄目ならまた直す。あの三日間、俺たちはそれしかやっていない。
それが、遠くなる。試せる回数が減るというのは、そういうことだ。
「該当区画は居住用途です」
ニコが廊下の端に立っていた。いつからいたのかは、もう訊かないことにしている。
彼女の口だけが動いた。
「それ以外の用途は認められません」
「炉ひとつだ」
「用途の変更にあたります」
「じゃあ変更しろ」
「認められません」
リタさんが舌打ちをした。
俺は間に入って、できるだけ静かに訊いた。
「理由を教えてもらえますか」
「該当区画は居住用途です」
「それは分かりました。なぜ居住用途の区画に炉を置いてはいけないのか、という話です」
ニコが黙った。
それから、一度だけ瞬きをした。
「仕様にそのように記載されています」
「記載されている理由は」
「……」
「ニコ」
「識別コードは弐号です」
「理由は」
「記載されていません」
嘘をついている顔ではなかった。もっとも、ニコが嘘をつけるのかどうかも知らない。
彼女は規則を持っている。理由は持っていない。
「なあ」
リタさんが壁から背を離した。
「その仕様とやらを書いたのは、いつの人間だ」
「初期設定時のものです」
「五百年前だな」
「正確には、五百年以上――」
「何年でもいいよ。とにかく、その大昔の人間は、いま何人ここにいる」
ニコは答えなかった。
答えようがない。
「ここには五人といない。その何人かで使う場所に、街ひとつぶんの決まりが要るか」
もっともな話だった。
もっともな話が続けて二つ来ると、俺はだいたい警戒する。
* * *
廊下の突き当たりの操作盤に、手を当てた。
供給系統:正常
供給中区画:2
休止中区画:14
昨日と同じ数だった。
あれだけやって、倒れて、それでもこの数字は動かない。俺が直したのは区画の中の一棟でしかない。
建物の方へ意識を向けた。
魔力系統:正常
給水系統:正常
どちらも正常だった。
当たり前だ。まだ何も起きていない。炉はまだ無い。
<デバッグ>は、壊れているものを教えてくれる。壊れていないものについては、何も言わない。炉を据えて、焚いて、それから見れば全部分かる。分かったときには、たぶん部屋が焼けている。
「どうだ」
「異常はありません」
「じゃあいいだろ」
「よくないです」
リタさんの眉が寄った。
「お前、仮管理者だろ。ここの決まりを変えられるんじゃないのか」
「変えられます」
「じゃあ変えろ」
「変えません」
「なんでだ」
「理由が分からないからです」
言葉を探した。うまく言える気がしなかったが、黙っているよりましだった。
「決まりがあるということは、昔、何かがあったということだと思います。何も起きていない場所に、わざわざ決まりは作りません」
「五百年前の話だろ」
「はい。ただ、この建物は五百年前のままです」
人は入れ替わった。石と管はそのままだ。
元の世界で、何度も見たことがあった。誰も理由を知らない設定が一つ残っていて、邪魔なので外してみて、その日の夜に全部止まる。外した人間に悪気はない。ただ、その設定が何を防いでいたのかを、誰も知らなかっただけだ。
決まりが古いことと、要らないことは、別だ。
「あたしは十三のときから炉の前にいる」
「はい」
「どのくらい熱が出て、どのくらい煙が出るかは分かる。壁が焼けるような据え方はしない」
「信じます」
「じゃあ」
「でも、リタさんが分かっているのは、炉のことです」
言ってから、良くない言い方だったと思った。
言い直す言葉が見つからないまま、続けた。
「この建物のことは、私も分かっていません。分かっているのはニコですが、ニコは理由を知りません」
誰も全部は持っていない。
三人いて、三人とも別のところが欠けている。
トモが俺の足元へ来て、座った。何をするでもない。こういうとき、この猫はいつも誰かの足元にいる。どちらの味方でもない場所に。
リタさんは壁に手をついて、奥の部屋をしばらく睨んでいた。
「いつまで待てばいい」
「明日まで」
「明日で分かるのか」
「分かりません。明日までは調べます」
「調べるって、何をだ」
それを訊かれると困った。
規則には理由が書かれていない。書かれていないものは、いくら睨んでも出てこない。
「まだ思いついていません」
「正直だな」
「はい」
「腹が立つほどな」
リタさんは工具箱を大股に跨いで、自分の部屋へ入っていった。
大きな音を立てて、扉が閉まった。
* * *
その夜、リタさんが箱を開ける音は、いつもより大きかった。
分かりやすい人だ。分かりやすいので、こちらも気が楽だった。腹を立てているのを隠されるより、ずっといい。
廊下へ出ると、ニコがまだ廊下の奥に立っていた。
昼間と同じ場所だった。
「ニコ」
「弐号です」
「まだそこにいるんですか」
「巡回の経路です」
この廊下は行き止まりだ。
「用途を決めた仕様は、どこかに残っているんですか」
「保管されています」
「見せてもらえますか」
「閲覧可能です」
少し期待した。
連れていかれたのは、管理棟の二階の小部屋だった。壁の三面が棚になっていて、そのほとんどが空いている。
残っていたのは、下の一段だけだった。綴じた紙の束が数冊。表紙の革が乾いて反り返っている。
一冊を抜いて、手を当ててみた。何も出てこない。紙は動いていない。
仕方がないので、目で読んだ。
管理区画。用途、管理。
次の行。工房区画。用途、工房。
その次。流通区画。用途、流通。
あとは居住区が続く。第一、第二、第三……十三まであった。用途はどれも、居住。
どこに何を割り当てたか。それだけだった。
なぜそう割り当てたのかは、一文字も無い。
書いた人間には、当たり前のことだったのだろう。当たり前のことは、書かれない。書かれないから、五百年後に困る。
「これで全部ですか」
「はい」
「上の棚は」
「持ち出されています」
「誰が」
「記録がありません」
埃の積もり方が、段ごとに違っていた。上の方だけ、四角く抜けている。
持っていくか置いていくかの判断があったのだろう。
そしてこの束は、置いていかれた。
紙の束を戻した。
「一つ訊いていいですか」
「はい」
「炉を置いたら、何か良くないことが起きると思いますか」
「該当区画は居住用途――」
「そうではなく。思うか、思わないか、で」
間があった。
昼間よりも長い間だった。
「思います」
初めて、規定ではない言葉が出た。
「理由は分かりませんが、思います」
その感じなら、俺は知っていた。
ギルドの帳面の前で、俺は自分が何をしたのかを言えなかった。やったことは確かにあるのに、それを表す言葉が無かった。書けないから、無いことになった。
ニコは、この建物が五百年もったことの理由を、たぶん一つずつ抱えている。ただ、それを外へ出す言葉を渡されていない。
彼女が悪いわけではない。渡さなかった側が、もういないだけだ。
棚から離れて、ニコを見た。
「明日、一緒に見てもらえますか」
「巡回の予定があります」
「行き止まりの廊下をですか」
「……」
「お願いします」
「承知しました」
部屋へ戻る途中、リタさんの部屋の前を通った。
中で、まだ箱を開ける音がしていた。さっきより、少し静かになっていた。
明日、何をどう見ればいいのかは、まだ思いついていない。
ただ、見るべきものが規則の方ではないことだけは、はっきりしていた。




