3-2 農民の鍋
「下がれ、若君ッ!」
フィデリオのそばに控えていた老兵ボルツが、喝とともに愛剣を引き抜き、凄まじい踏み込みで割って入った。
フィデリオは我に返った。
ボルツが時間を稼いでくれたのがわかったからだ。
背中の矢筒から矢を引き抜いて弓につがえ、引き絞る。しかし違和感があった。なかなか矢先が定まらない。なぜだ? 原因は。そこまで考えて初めて彼は、自分が震えていることに気がついた。
狂乱の最中にあっても、ギュイの目は新しい敵を捕らえた。彼は腰を落とし、盾の代わりに「空になった鉄鍋」を構える。その円い底が、雨粒を受けるたび、ジュワ、シュワと音を立てた。
ガ、ンッ!
助走の乗った重い一撃は受けながら反らされた。
飛び退いた老兵の眉が跳ねる。
(……打てぬ)
熟練の剣士である彼は、判断した。あの鍋はただの調理器具だ。たとえ幾千回と火に焼かれ、煤と油で焼き固められていたとしても、ただそれだけの鉄の塊だ。騎士の剣の鋼鉄に強度で勝てる代物ではない。だが。その表面は、受け流すためにあつらえたかのような曲線を描いている。
鋭い刺突を繰り出せば、鍋の円い底に先端を滑らされ、無防備な懐を晒すことになる。
かといって、渾身の力で叩き斬れば、隙が生まれる。
一太刀で破壊できないわけではない。力と技と武運があれば。だがこればかりはやってみないとわからない。ゆえにそれを初手で試みるのは博打だった。そのようなとっておきの一撃は、好機のために取っておくべきだ。
そこそこの力で打ち払い、相手の鍋を持つ手を痺れさせ、あるいは疲れさせて機を待つのが現実的だ。しかしそれは持久戦だ。老兵である自分が、この暴れる牡牛相手にその策を取るならば、それは時間稼ぎでしかない。しかし考える間も、もはやない。何より自分の命などどうなってもよい。
ならば。
ボルツは打ち合うふりをして地面を転がり、ギュイの後ろに回った。そしてすかさず起き上がり、剣の刃を水平にして、低い体勢のまま足の腱を狙って斬りかかる。思った通り敵はその動きを獣の勘で察知し、払うようにして鉄鍋でボルツの剣をはじいた。
動きを読んでたボルツは、素早く剣を反転させて敵の怪力から剣を逃がし、今度は刃を垂直に立てて、刺突の構えを築いて後ろ足を踏みしめ、振り向いた怪物の首を狙った。
しかしその刺突は、平手打ちで防がれる。無頼の法に老兵は驚きながらも払われた剣で弧を描き、真っ正面に大振りにうち下ろす。これはおとりだ。鍋で受ける怪物を地面にめり込ませるように、とにかくここで渾身の一撃を使った。鍋は壊れない。だが、これでいい。
(今です! 若!)
ボルツの心が聞こえたかのように、フィデリオの矢が敵の背に刺さる。その澄んだ振動がボルツの剣まで伝わった。しかし……。
怪物は全く反応しない。
ボルツは鍋と剣を合わせたまま、第二の矢を待った。矢は来た。しかし、刺さらない。第三の矢を待った。矢は来た。だが外れた。その間もじりじりと、敵は力を増し、覆い被さるようにボルツを押し込み、ボルツの両足はまるで沼地に立ったかのごとく地面にめり込んでいく。これ以上はだめだ。
「お逃げくださいッ! 若様ッ!」
老兵が焦燥に駆られた瞬間、ギュイが踏み込んだ。剣は弾かれた。
「守り」のための道具であったはずの鍋が、円い軌道を描いてボルツの視界を覆う。
ゴ、ンッ。
鈍い、しかし重い音が森に響いた。
再び剣を合わせる隙すら与えず、ギュイは鍋の底でボルツの面殻を真っ向から叩き潰した。
名匠が鍛えた兜が、熟れた果実のようにひしゃげる。
老騎士が倒れるのを許さぬように、ギュイはその喉を掴み戻し、握り潰し高く掲げた。だらりと力の抜けた人間の体。その喉から赤黒い血が降り注ぐのを浴びながら、ギュイの怒りの目は、再びフィデリオを捕らえた。その背には矢が一本突き刺さっていた。しかし、痛みを感じる神経など、とうに焼き切れているようだった。




