第8話「一瞬の遅れ」
起きたとき、また天井が見えた。
見慣れた屋敷の天井だった。
どうやら自分の寝室のベッドに寝かされていたらしい。
「……あれ、さっきより」
体を少し動かしてみる。
痛みは残っている。
けれど、意識を失う直前よりはずっとましだった。
そこで、遅れて思い出す。
レオルの雷を受けた。
身体が吹き飛んで、床に叩きつけられて。
そのあと――。
「また、派手にやられたわね」
隣から、やさしい声がした。
顔を向けると、母がいた。
フユ。
芯の強い人だ。
普段は穏やかで、声を荒げることもほとんどない。
けれど、その静かな言葉の奥には、この家の人間らしい厳しさもちゃんとある。
母はベッドの脇に腰掛け、ハルの肩口にそっと手をかざしていた。
淡く揺れる水の光が、傷んだ部分をやわらかく包んでいる。
治療をしてくれていたのだと、そこで気づく。
「あの子、すごく慌てていたわよ」
母は少しだけ口元をゆるめた。
「あとで会いに行ってあげなさいね」
そう言って、ハルの頭を撫でる。
その手つきはやさしい。
「うん……わかった」
そう返すと、母はもう一度、髪を軽く撫でた。
「あなたも、お兄さんみたいに頑張りなさいね」
悪気はない。
それは分かっている。
母なりの励ましなのだということも、ちゃんと分かっていた。
それでも、その一言は胸の奥に小さな痛みを残した。
兄みたいに。
その言葉は、この家では正しい。
正しいからこそ、余計に苦しい。
自分はそこに届いていないと、改めて言われた気がした。
母はふと思い出したように、ハルを見る。
「屋敷の前で倒れていたって聞いたけれど……どうしたの?」
「えっと……」
言葉が詰まる。
本当のことは言えない。
言ったところで、うまく説明できる気がしなかった。
黒い何か。
見えないのに、そこにあったもの。
あれを言葉にしようとすると、たちまち形が崩れてしまう気がする。
「寝ちゃってたんだ……」
それが、精一杯だった。
母は否定しない。
責めもしない。
「そう」
静かに頷く。
「それならいいのだけれど」
その言い方はやさしい。
けれど、どこか少しだけ遠い。
「何かあったら、教えてちょうだいね」
「うん」
そう返すと、母は立ち上がった。
治療の光がふっと消える。
「無理して動かないようにね」
最後にそれだけ言って、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる音がして、部屋に静けさが戻る。
一人になると、さっきまで押し込めていた考えが、また浮かんできた。
どうしたら、この力をもっと使いこなせるようになるんだろう。
「うーん……全然わからない」
天井を見上げたまま、小さく呟く。
レオルの魔法を見ていたとき、たしかに一瞬だけ雷が遅れた気がした。
いや。
遅れたというより、そこだけ引っかかった。
そう考えると、食堂でパンに触れたときのことも思い出す。
あのときも、ほんの一瞬だけ、何かが止まった。
視線なのか。
意識なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
部屋で一人考えていても、答えは出そうになかった。
「……よし」
ベッドからゆっくり起き上がる。
まだ少し身体は重い。
けれど、動けないほどじゃない。
「とりあえず、リアのところに行ってみよう」
寝室の扉を開けて、廊下へ出る。
窓の外を見ると、空はもう白み始めていた。
気を失っているうちに、夜を越えてしまったらしい。
「リア、起きてるかな……」
そう呟いた、そのときだった。
「ハル様、お探しでしょうか?」
すぐ隣から声がして、ハルは肩を跳ねさせた。
「わっ、びっくりした!」
思わず声が出る。
気配がなかった。
いや、最初からそこにいたのかもしれない。
そう思うくらい、リアは自然に隣に立っていた。
「昨日はありがとう」
まず、それを言った。
リアは少しだけ目を丸くした。
小さな口が、ほんの少しだけ開く。
それから、ハルにだけ分かるくらいの小さな笑みを浮かべた。
けれど同時に、少し申し訳なさそうでもあった。
「何もできず、申し訳ありません」
昨日のことを言っているのだと、すぐに分かった。
「あれは、リアのせいじゃないよ。大丈夫。気にしないで」
ハルは咄嗟にそう返す。
本当は、自分でも整理しきれていない。
けれど、少なくとも謝らせたいわけではなかった。
それ以上その話を続けるのがつらくて、ハルはすぐに本題へ移った。
「変な力のこと、何かわかる?」
リアは少し考えるように目を伏せた。
「……わかりません」
返ってきたのは、短い答えだった。
やっぱりそうか、と思う。
そこでハルは、ふと気づいた。
「でも、力は見えていないんじゃないの?」
リアはまた少し困ったような顔をした。
「何となく、感覚で……としか」
言いながら、どこか申し訳なさそうに視線を落とす。
リアも、はっきり理解しているわけではないのだろう。
それなら、やっぱり自分で確かめるしかない。
あの力は何なのか。
そもそも、再現できるのか。
そんなふうに考えていると、リアが小さく口を開いた。
「私で試してみるのは、どうでしょうか」
「リアで?」
少し驚いて聞き返す。
けれど、たしかにそれが一番早い気もした。
「……わかった。お願い」
リアは静かに頷く。
「レオル様の魔法に対して、何か効果があったような気がしたのですが……」
「うん。雷は、一瞬だけ止まったような気がしたんだ」
そう言うと、リアはすぐに次の提案を出した。
「それでは、身体強化をしてみますので、試してみてください」
そう言った直後、リアの体が淡い光に包まれた。
やわらかな光だ。
けれど、よく見ると少しおかしい。
輪郭が、ほんのわずかに揺れているように見える。
最初からそこにあるのに、完全には定まっていないような感じ。
前にも思ったことだ。
「……何だか、揺らいでる?」
リアは目を瞬かせた。
「ハル様には、私が見えないものが見えているみたいですね」
それから、少しだけ目を丸くしたまま言う。
「すごいです」
尻尾が、控えめに揺れた。
その反応に、ハルは少しだけ照れる。
「じゃあ……動いてみて」
「はい」
リアはその場で軽く左右にステップを踏み始める。
さすが獣人族というべきか、動きが軽い。
無駄がなくて、音もほとんどしない。
ハルは目を凝らす。
腕。
肩。
足先。
重心の移動。
昨日のことを思い出す。
たしか、あのときは一か所を強く見た。
全部を見ようとしていたわけじゃなかった。
ハルはリアの右腕に意識を集中させる。
正確には、肘関節のあたり。
そこだけを見る。
そこがどう動いているかだけを追い続ける。
「……そこ」
小さく、呟く。
その瞬間だった。
「あ」
リアの腕の振りが、ほんのわずかに遅れた。
本当に一瞬だけ。
けれど、たしかに。
リアもすぐに気づいたようだった。
「少しだけ、腕の振りのタイミングが遅れました」
尻尾を小さく揺らしながら、そう答える。
ハルの心臓が強く打つ。
今のは偶然じゃない。
昨日の雷と同じだ。
全部じゃない。
一か所だけ。
遅くできる。
「……これだ」
声にはならないくらい小さく、胸の中で呟く。
ほんの一瞬。
それでも、確かに触れた。
偶然じゃない。
見たからだ。
ハルはようやく何かを掴みかけていた。
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