第6話「それは、無いとされた」
戦いのあとだった。
気づけば、空は橙に染まっていた。
「……もう、こんな時間か」
ぽつりと、こぼれる。
体が重い。
どこかが痛いわけじゃない。
けれど、うまく力が入らない。
「……なんか、疲れた」
それが何の疲れなのか、自分でも分からなかった。
体じゃない。
頭でもない。
胸の奥に、なにかが残っている。
さっきの“黒”。
見えなかったのに、確かにあったもの。
そして。
自分が、それを「そこにある」と決めた感覚。
理解はできていない。
けれど、あれは確かに自分が関わった。
その事実だけが、重く沈んでいる。
視線を上げる。
屋敷が見える。
そろそろ、家族が鍛錬から戻ってくる時間だった。
「……帰るか」
口に出した瞬間、わずかに足が止まる。
気分が、乗らない。
理由ははっきりしている。
「……はぁ」
小さく、ため息が漏れた。
そのとき。
「……大丈夫ですか」
リアの声が、すぐ横で落ちる。
顔を向けると、まっすぐこちらを見ていた。
その瞳は、はっきりと心配している。
「……大丈夫だと思う」
そう答えるのがやっとだった。
本当は、大丈夫じゃない。
でも、何がどう違うのか言葉にできない。
リアは、それ以上何も言わなかった。
ただ、隣にいる。
それだけで、少しだけ息がしやすくなった。
屋敷の前に立つ。
扉に手をかける。
朝よりも、重く感じた。
押す。
ゆっくりと開く。
中は、いつも通りだった。
広い廊下。
整えられた空間。
無駄のない静けさ。
何も変わっていない。
それなのに。
空気だけが、重い。
森の中とは違う。
けれど、同じくらい息が詰まる。
廊下は、静かだった。
使用人たちが行き交っている。
誰も止まらない。
誰も迷わない。
足音は一定の間隔で響き、
動きは無駄なく揃っている。
視線すら、ぶれない。
必要なものだけを見る。
それ以外には、一切触れない。
すべてが、決められた通りに動いていた。
整っている。
乱れがない。
間違いもない。
それが、この家の正しさだった。
ハルは、その中を歩く。
自分の足音だけが、わずかに浮いている気がした。
ほんの少しだけ、
この場所に噛み合っていない。
(……ちがう)
うまく言えない。
ただ一つだけ、はっきりしている。
ここでは、
曖昧なものは、存在できない。
ハルは、何も言わずに歩き続けた。
やがて、一つの扉の前に立つ。
雷家の紋章が刻まれた部屋。
ここだ。
帰ってきた。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ沈む。
理由は分かっている。
この家では、間違えたものは切り捨てられる。
強さだけが意味を持つ。
結果だけが価値になる。
自分は、その基準の外にいる。
ずっと。
「……家族、か」
小さく呟く。
その言葉に、わずかな違和感が混じる。
本当に、そう呼んでいいのか。
手が止まる。
リアの心配そうな視線を感じた。
僕は頷いた。
ノックするだけなのに、少し時間がかかった。
それでも。
指を上げる。
コン、コン。
静かな音が廊下に響く。
逃げ場は、もうない。
ハルは、まっすぐ前を見たまま立っていた。
「入れ」
扉の向こうから、低い声が返ってきた。
重い。
それだけで、部屋の空気の質が分かる。
リアが扉に手をかける。
迷いなく開ける。
「戻りました」
短く、いつも通りの声。
余計な感情は乗っていない。
だが、その一言で空気がわずかに動いた。
部屋に入る。
父と、兄たちがいた。
視線が向く。
ほんの一瞬。
それだけで、十分だった。
見られた、というより。
測られた、に近い。
値踏みされる感覚。
言葉はまだ何もない。
なのに、もう結果が出ているような気がした。
この場所では、すべてが判断される。
立ち方。
呼吸。
目線。
言葉。
存在そのものが、評価対象になる。
ハルは、何も言わずに立つ。
それしかできない。
「……庭の件だ」
父が短く言う。
それだけで、呼ばれた理由は分かる。
「報告は?」
父が口を開く。
感情はない。
叱責でも、興味でもない。
ただの確認。
だが、その“何もなさ”が一番重い。
リアが、一歩前に出る。
わずかな動き。
それだけで、場の中心が移る。
「……変でした」
短い報告。
その瞬間。
空気が止まる。
ほんの一瞬。
だが、確かに止まった。
そして、重くなる。
分かる。
この言葉は、この場では“正しくない”。
言葉一つで、場の空気が拒絶に傾く。
「何がだ」
父の声は変わらない。
だが、圧が増している。
リアは、わずかに間を置く。
言葉を選んでいる。
いや。
“言っていいのか”を測っている。
耳が、ほんの少し下がる。
尻尾の力が抜ける。
それでも。
逃げない。
「……分かりません」
沈黙。
空気が、さらに冷える。
ハルは、分かってしまう。
この答えは、この家では許されない。
分からないものは、価値がない。
証明できないものは、存在しないのと同じ。
「分からないものを報告するな」
父の声は、変わらない。
だが、はっきりと拒絶が乗る。
切り捨てる側の声だった。
リアは、少しだけ目を伏せる。
ほんの一瞬。
それだけ。
次の瞬間には、顔を上げている。
その奥に、わずかな迷いが残っている。
それでも。
言う。
「……でも、ありました」
静かな声。
強くはない。
だが、引かない。
その一言に、
ほんのわずかな意地が混ざる。
空気が、変わる。
ほんの少しだけ。
兄の一人が、わずかに眉を動かした。
父は、沈黙したままリアを見る。
試すように。
測るように。
ハルは、そのやり取りを見ていた。
何も言えない。
ただ、分かる。
ここでは。
「ある」だけでは足りない。
それを証明できなければ、
最初から存在していないのと同じになる。
胸の奥が、わずかに冷える。
さっきまで、確かにあったもの。
見たもの。
決めたもの。
それが、この場所では
“なかったこと”になるかもしれない。
ハルは、無意識に拳を握った。
「何が」
父の声は低く、揺れない。
リアはわずかに息を整え、言葉を探す。
「……そこに」
「“そこ”とはどこだ」
「……分かりません」
ほんの一瞬、リアの眉が寄る。
悔しさを押し殺した、短い沈黙。
部屋の空気が冷える。
父は小さく息を吐いた。
それで終わりだった。
最初から、終わっていたようなものだった。
この場では、「分からない」は報告ではない。
存在しないのと同じ扱いになる。
リアの言葉は、そこまでだった。
届いていない。
最初から、届くはずもない。
「お前は」
父の視線が、ハルへ向く。
逃げ場はない。
分かっている。
ここでは、曖昧は許されない。
「どうだ」
ハルは一瞬だけ考える。
頭の中に、あの黒が浮かぶ。
揺れている。
形がない。
どこにもないのに、確かにそこにあった。
触れた瞬間の、引っかかる感覚。
あれを言葉にしようとする。
だが、言葉が浮かばない。
どの言葉も違う。
どれも足りない。
「……ありました」
それしか出なかった。
言った瞬間、自分で分かる。
足りていない。
「何が」
「……黒い、なにかが」
「形は」
「……ありません」
「位置は」
「……分かりません」
「距離は」
一瞬、迷う。
あの感覚を思い出す。
近い。
でも、遠い。
「……近くて、遠いです」
自分で言っていて、意味がわからない。
伝わるはずがない。
沈黙が落ちる。
兄の一人が、小さく息を吐く。
もう結論は出ている、という顔だった。
「つまり」
父が淡々と続ける。
「何も分かっていない、ということだな」
違う。
ハルは心の中で否定する。
分かっていないわけじゃない。
確かに見た。
ただ、言えないだけだ。
だが、この場ではそれは同じ意味になる。
言えないなら、無いのと同じ。
それが、この家の基準だった。
「位置も分からない」
「場所も分からない」
「説明もできない」
言葉が、逃げ道を塞いでいく。
一つずつ、外堀を埋められるように。
「それは」
父の声が、わずかに強くなる。
「存在しない」
はっきりとした断定。
胸の奥が、軋む。
ハルは何も言えない。
(……違う)
心の中で、繰り返す。
(……あった)
確かにあった。
見えていた。
黒い何かの動きを止めた。
だが、それを言葉にした瞬間、
壊れてしまう気がする。
「お前は」
父が言う。
「何を見ている」
答えられない。
分かっているのに、説明できない。
それは、この場では“知らない”と同じだった。
「魔法とは変化だ」
父の言葉が続く。
「結果があり、過程があり、再現できる」
「それが成立して初めて、現象と呼べる」
正しい。
一つも間違っていない。
だからこそ、否定できない。
「それがないものは現象ではない」
そして。
「無いのと同じだ」
静かに、切り捨てられる。
反論の余地はない。
この世界では、それが正しい。
ハルは俯く。
何も言えない。
言っても、届かない。
でも。
胸の奥に残るものだけは、消えない。
(……あった)
それだけは、消えない。
「……あります」
「ハルはそれを止めました」
「止めた?」
兄が誰にも聞こえないほど小さく呟く。
リアの小さな声が落ちる。
震えている。
誰かに向けた言葉ではない。
ただ、そこに置かれた言葉。
「……少しだけでいいので」
「……理解してほしかったです」
淡い金色の瞳が、ゆっくり伏せられる。
それ以上は言わない。
言っても届かないと、分かっているから。
誰も応えない。
誰も拾わない。
その言葉は、床に落ちたまま消える。
会話は終わった。
最初から、終わっていたように。
何も決まらなかった。
何も残らなかった。
理解は、されなかった。
だが。
ハルの中では、終わっていなかった。
あの感覚だけが、残っている。
揺れていたもの。
止まった一点。
(……そこにある)
それだけが、確かだった。
読んでいただきありがとうございます。
今回は戦闘のあと、屋敷でのやり取りを描きました。
この回で書きたかったのは、
「分からないものは、無いことにされる」という世界の価値観です。
ハルが見たものは確かに存在しています。
ですが、それを説明できない限り、この家では認められません。
正しいことしか通らない場所だからこそ、
逆に拾われないものがある、という構造になっています。
リアの言葉も、間違ってはいません。
ただ、この場では届かない。
そこに少しだけ、温度差や歪みを感じてもらえたら嬉しいです。
よろしくお願いします。




