第5話「決まったものは、壊れる」
リアが、一歩前に出る。
ハルは慌てて静止する。
「逃げて!」
リアはキョトンとして答える。
優しく一言。
「メイドなので大丈夫です」
そう答えた。
そして
黒いそれと、真正面から向き合う。
短剣を鞘から抜き、構える。
その体が、淡く揺らぐ。
だが、その揺らぎはどこかおかしい。
輪郭が、わずかに遅れて見える。
そこにいるのに、
完全には、そこにいない。
「……ハル様」
短く呼ぶ。
「あれを……見て下さい」
ハルは息を呑む。
視線を外さない。
黒いそれを見る。
揺れている。
形がない。
どこにあるのか分からない。
でも。
そこに“ある”。
そう強く思った瞬間。
黒いそれの動きが、
ほんの少しだけ、遅れる。
「……そこです」
リアが踏み込む。
遅い。
そう見えた。
でも。
次の瞬間、
すでに距離は消えていた。
剣が伸びる。
黒の中へ。
触れる。
その瞬間。
黒が、大きく揺れる。
空間ごと、引きずられるように。
「……っ」
ハルの視界が歪む。
リアの剣は、
斬っていない。
ただ、
“触れている”。
黒いそれが、
一部だけ、止まる。
完全じゃない。
だが、
そこだけ引っかかる。
「……まだです」
リアが低く言う。
黒が、暴れる。
形を保てないまま、
周囲をえぐる。
――遅れて。
地面が裂ける。
木が倒れる。
空気が、歪む。
「……ハル様」
「……うん!」
ハルは見る。
相手の攻撃が当たらないように。
走って逃げながら。
それでも、目を離さない。
(……どこだ)
違う。
(……何をしてる)
黒は、動いていない。
形もない。
どこにも、何もいない。
それなのに――
目の前の地面が、音もなくへこんだ。
一拍遅れて、
バキッ、と乾いた音が鳴る。
土がめくれ上がる。
草が、遅れてなぎ倒される。
さらに遅れて、風が頬を打つ。
順番が、おかしい。
原因がないのに、
結果だけが起きている。
「……っ」
ハルの足元が揺れる。
見えない何かが、
すぐ横を通り抜けた。
空気が押しつぶされるように沈む。
息が詰まる。
それでも――
何も見えない。
(……違う)
ハルは目を細める。
壊れているのは、ばらばらじゃない。
よく見ると。
削れている範囲の中に、
“壊れていない場所”がある。
そこだけ、
不自然に残っている。
土も、草も、空気も。
そこだけが、変わっていない。
(……なんで)
一瞬、思考が止まる。
次の瞬間――
理解が追いつく。
(……そこに、いるからだ)
土がめくれる位置。
草が倒れる向き。
空気が沈む点。
すべてが、その一点を避けている。
不規則に見えて、
中心だけが守られている。
(……あそこだ)
鼓動が、わずかに早くなる。
視線を、外さない。
揺れていてもいい。
分からなくてもいい。
ただ――そこだけを見る。
「……見つけた!」
その瞬間。
空気の歪みが、
ほんの一瞬だけ、止まった。
――逃がさない
「……そこです」
リアが踏み込む。
今度は迷いがない。
光が、ずれる。
位置が、わずかに歪む。
剣が届く。
触れる。
黒の中心へ。
その瞬間。
揺れが、止まりかける。
「……終わりです」
リアが、押す。
斬らない。
叩かない。
ただ、
そこに“ある”と確定した部分に、
触れる。
黒が、
固まる。
完全に。
逃げ場が、消える。
揺らぎが、止まる。
次の瞬間。
――崩れた。
音もなく。
黒は、ほどける。
最初からなかったみたいに。
消えた。
静寂が戻る。
風が吹く。
音が、繋がる。
途切れていた世界が、ゆっくりと戻ってくる。
耳に入る音が、ひとつずつ繋がっていく。
風が吹く。
さわり、と頬を撫でる感触が戻る。
葉が揺れる。
カサ、と乾いた音が、ようやく意味を持つ。
さっきまでそこにあった歪みが、
嘘みたいに消えていた。
何もなかったみたいに、
世界が元に戻っている。
ハルは、その場で力が抜けた。
膝から崩れ落ちる。
踏ん張ろうとした足に、もう力が入らない。
息が、うまく吸えない。
肺がうまく動かないような、妙な感覚。
指先が、わずかに震えている。
(……終わった?)
分からない。
終わったのかどうかすら、はっきりしない。
ただ。
さっきまで確かにあったものが、
もう“続いていない”ことだけは分かる。
それだけが、確かな事実だった。
「……いまの良かったです」
リアの声が、静かに落ちる。
少しだけ近くで、足音が止まる。
柔らかく、慎重な足取りだった。
「……ところでその力は何なんですか?」
責めるような声じゃない。
ただ、知りたいという気持ちがそのまま乗っている。
理解しようとしている声だった。
「え?...知ってるんじゃないの?」
ハルは思わず顔を上げる。
さっきまで、あんなに自然に動いていたのに。
リアはキョトンとして、一言。
「知りません」
あまりにもあっさりとした返答だった。
ハルは内心混乱する。
(さっきまでの感じは何だったんだろう??)
確かに見えているように動いていた。
迷いもなかった。
なのに――知らない?
理解が追いつかない。
リアは少しだけ視線を逸らす。
ほんのわずかに頬が緩む。
そして、少し恥ずかしいのか、
尻尾を左右にゆらゆらと揺らしながら答えた。
「人より感覚が鋭いので..」
言い訳のようにも聞こえる。
でも、嘘ではないと分かる。
ハルは少しだけ首を傾げる。
「そう言うもんなの?」
リアは少しはにかみながら、
ほんの少しだけ笑って――
「そう言うもんです」
そう答えた。
どこか曖昧で、でもそれ以上は言わない距離感。
リアは、黒が消えた場所を見ている。
何もない空間。
でも、そこに何かがあったことを、
まだ感じ取っているような視線だった。
淡い金色の瞳が、ハルへ向く。
耳がぴくぴくと、小さく動く。
それから、静かに笑った。
「……何とかなりました」
小さく、それだけ言った。
それは――
少しだけ、寂しそうな笑顔だった。
今回は初の戦闘でした!
ここまで読んで頂きありがとうございました!




