第3話「まだ、存在していない」
ハルは、しばらくその場に立ったまま動かなかった。
白い木は、そこにある。
さっきと同じように。
変わらないまま。
(……ほんとに、ある)
でも。
近づいた分だけ、よく分からなくなる。
見えているのに、
はっきりしない。
輪郭が定まらない。
そこに立っているはずなのに、
目が合わないみたいに、形だけが少しずつずれていく。
リアが、隣で小さく息を吐いた。
「……戻りましょう」
「え?」
「……あまり、よくないです」
理由は言わない。
でも、さっきと同じだった。
分からないのに、止める。
ハルは、もう一度だけ木を見る。
動かない。
変わらない。
それだけなのに、
ずっと見ていると、
自分の方がずれていくような気がした。
足の裏が、地面をちゃんと踏んでいるはずなのに、
少し浮いているみたいだった。
「……うん」
小さくうなずく。
ハルは、ゆっくりと背を向けた。
その瞬間。
ほんのわずかに。
背中のあたりが、ひやりとした。
風とも違う。
なにかが、まだそこに残っているような気がした。
振り返る。
一変わらない。
白い木は、ただそこにあるだけだった。
森で見たときのまま、そこにある気がした。
屋敷の中に戻ると、
さっきまでの違和感が薄れた。
床のきしむ音。
遠くの足音。
人の気配。
ちゃんと、つながっている。
音が音のままで、
途中で切れない。
(……なんか変な感じだったな)
リアは、何も言わずに横にいる。
さっきよりも、近い。
視線を向けなくても、すぐ横にいるのが分かる。
食堂に入ると、
使用人が静かに頭を下げた。
「ハル様、お食事のご用意ができております」
「あ……うん」
席に座る。
いつもと同じ食事。
パン。
スープ。
温かい湯気。
(……ふつうだ)
さっきまでのことが、
遠くなる。
ハルは、パンに手を伸ばした。
指が触れる。
その瞬間。
ほんの一瞬だけ。
パンの表面が、動かなかった気がした。
ぴたりと、止まったように見えた。
パンだけじゃなくて、
すぐそばの湯気まで、
ふっと止まった気がした。
ハルは、じっと見る。
止まっている。
さっきより、少しだけ長い。
でも。
瞬きをした。
その一瞬で、
湯気が、また動いた。
パンも、やわらかく戻る。
ハルは、そっと顔を上げた。
向かいにいる使用人。
いつもと同じ。
動いている。
普通に。
(……)
少しだけ、見る。
じっと。
さっきと同じように。
ほんの一瞬だけ。
その人の動きが、
わずかに遅れた気がした。
まばたきが、
少しだけ遅い。
呼吸も、
ほんの少しだけ、あとから来る。
「……ハル様?」
声がかかる。
ちゃんと動いている。
いつも通りに戻っている。
(……いま)
分からない。
でも、
なにか、少しだけ。
(……森の時と同じ?)
胸の奥で、違和感を感じる。
(……でも)
こわい。
さっきより、ずっと。
(……ぼく、なにしたの)
ハルは、もう一度そっとパンを見る。
今は、何も起きない。
普通だった。
「……ハル様?」
使用人が不思議そうに見る。
「あ、ううん……なんでもない」
視線を落とす。
パンは、普通のままだ。
でも。
(……さっき、止まった)
ほんの一瞬。
確かに。
そのとき。
リアが、淡い金色の瞳を瞬かせながら、小さく呟いた。
「……少し、止まったような気がしました」
「え?」
「……ほんの、少しだけ」
リアは、パンへと視線を向ける。
けれど――
すぐに、首をかしげた。
見ているのは、パンそのものではない。
その周囲。
“定まっていない揺らぎ”を追うように、視線が彷徨っていた。
「どうしたの?」
「……わかりません」
それだけ。
ハルは、手を引っ込める。
触れなくても、
もう何かが起きている気がした。
(……見てただけなのに)
(……ぼくが)
(……やった?)
胸の奥が、ひやりとする。
夢のときのより、よわい。
でも、
消えたわけじゃない。
胸の奥で、
かくれてる感じがした。
ハルがふと窓から外を見る
その視線の先
庭では。
風が、木々を揺らしていた。
普通の音。
普通の動き。
その中で。
白い木だけが-
輪郭を失いかけていた。
後ろの景色と、混ざるみたいに。
白かったはずの幹が、
空の明るさににじんでいく。
目を離すと、どこにあるのか分からなくなる。
ちゃんと“あるもの”じゃない気がした。
それでも。
まだ、そこにあった。
――見ているかぎり。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
“ちゃんとあるもの”と、
“まだ決まっていないもの”。
その違いが、
この物語の一つの鍵になっています。
今回の違和感が、
どういう意味を持つのか。
ハル自身も、まだ知りません。
少しずつ見えてくると思うので、
これからもお付き合いいただけると嬉しいです。




