第13話「勉強」
ハルは、認識精度を上げる方法について考えを巡らせた末、ひとつの結論に辿り着いた。
「……ここしかないな」
そう呟き、雷家の書庫へ足を運ぶ。
王都の図書館に比べれば規模は劣る。
それでも、数万冊はあるだろう。
本棚はところ狭しと並び、天井近くまで積み上げられている。
「……すごい量だな」
思わず声が漏れる。
「運動学の本は……どこだろう」
大半は魔法学の書物だ。
だが、隅の方には解剖学や運動学の本も置かれている。
魔法を学ぶ者が多いためか、
その一角に人の姿はほとんどなかった。
「えーと……」
視線を動かしながら探す。
「あ、あった」
「これでいいかな……たしか、運動学で合ってるよな」
ハルは本を手に取り、ページを開く。
――そして、固まった。
「なになに……上腕二頭筋の起始は関節上結節?……え、どこ?」
文字は読める。
だが、意味がまったく頭に入ってこない。
「……内容が、全然わからない」
ぽつりと漏れる。
静まり返った書庫の一角。
高く積まれた書架が、視界を細く区切っている。
古い紙の匂いと、乾いた木の香り。
外の光は届かず、天井の灯りだけが淡く机を照らしていた。
ページをめくる音だけが、やけに大きく響く。
(……なんだこれ)
視線だけが、行ったり来たりを繰り返す。
そのときだった。
「ハル君がここに来るなんて、珍しいですね」
背後から、静かな声が落ちる。
振り返るよりも先に、空気が変わった気がした。
書架の影――その薄暗がりの中に、彼女は立っていた。
身長は160センチほど。年齢は十七歳前後だろうか。
長く流れる紫の髪が、灯りを受けてゆっくりと揺れる。
深く、夜に近い色。
だが完全に沈むことはなく、どこか現実に繋ぎ止められているような、不思議な質感だった。
細い指が、そっと眼鏡のフレームに触れる。
わずかに押し上げる、その何気ない仕草。
それだけで、場の空気がひとつ引き締まる。
視線が、合った。
深い紫の瞳。
覗き込むでも、見透かすでもない。
その瞳は吸い込まれそうなほど深い。
白いシャツの上に重ねられた黒のワンピース。
装飾は少ない。
それでも、布越しにわかる身体のラインが、妙に目に残る。
強調しているわけではないのに、
動くたびにわずかに揺れるその輪郭が、自然と視線を引き寄せた。
(見てない……見てないけど……)
意識した瞬間、逆に気になってしまう。
胸元には小さなペンダント。
控えめに光を受け、静かに揺れている。
腕には数冊の本。
そして口元には、小さなホクロがひとつ。
それが彼女の印象を、わずかに強くしていた。
彼女は――メル。
この書庫の司書だ。
メルは静かに歩み寄る。
「いろいろな本を見ながら勉強するのがおすすめですよ」
落ち着いた声。
柔らかいが、不思議と耳に残る。
「……えっと……メルさん、ありがとうございます」
ハルは少し戸惑いながら答える。
「私にわかるところであれば、教えますよ」
そう言って、隣に腰を下ろした。
距離が一気に近づく。
その瞬間――
ふわりと、甘い香りが流れ込んできた。
(……近い)
一瞬だけ思考が止まる。
慌てて視線を本に戻した。
「人体解剖学の本に、いろいろ名前が書いてありますので参考になりますよ」
メルはそう言いながら、指先をわずかに動かす。
「――ウィンド」
小さく紡がれた言葉。
次の瞬間、ほとんど音もなく空気が流れた。
数秒後――
一冊の本が、風に運ばれるようにして、静かに机の上へ滑り込んできた。
ぴたり、と音もなく止まる。
(……制御、上手だ)
ハルの目が、わずかに細くなる。
魔法そのものではなく、
その“精度”に意識が向いた。
無駄がない。
乱れもない。
(僕も、ああいうふうに……)
ハルは本を開いた。
分からない単語が並ぶ。
意味が繋がらない。
それでも、目を逸らさなかった。
(……やらないと)
自然と、気持ちが切り替わる。
「……ここ、どういう意味ですか?」
気づけば、質問が口をついて出ていた。
メルはすぐに答える。
簡潔で、分かりやすい。
それでも一度では理解しきれず、
ハルは何度も読み返した。
ページをめくる。
止まる。
戻る。
分からないところは、その都度聞く。
少しずつ――
“分からなかったもの”が形になっていく。
気づけば、数冊の本を抱えていた。
「……借りてもいいですか?」
そう言うと、メルは静かに頷いた。
⸻
その日を境に、ハルが書庫に通う日が増えた。
運動学。
最初はただの文字だったものが、
少しずつ体の動きとして繋がっていく。
筋肉の名前。
関節の動き。
力の流れ。
理解できない日もあった。
何度読んでも分からず、
本を閉じることもあった。
それでも――
次の日には、また開いた。
同じ場所に座り、
同じ本を開き、
同じところで止まりながら。
メルに助けてもらいながら、
それでも自分で考えることはやめなかった。
少しずつ、確実に前に進んでいる。
分からないまま、終わらせない。
できることは、全部やる。
それが、今のハルのやり方だった。
⸻
そんな様子を、メルは少し離れた場所から見ていた。
ふっと、やわらかく微笑む。
「……ハル君、頑張ってますね」
その声は小さく、誰にも届かない。
それでも確かに――
彼の背中を、静かに押していた。
ここまで読んで頂きありがとうございました。
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