第14話「体術」
雷家の図書館は、今日も静かだった。
真夏に近い光が、図書館の高窓から白く差し込んでいた。
古い紙の匂いに、外から入り込んだ熱を含んだ風がかすかに混ざる。
窓の向こうでは木々の葉が濃く茂り、眩しすぎる日差しの中で、景色の輪郭が少し滲んで見えた。
書架のあいだは静かだった。
けれど、その静けさの奥にも、外の暑さがじわりと染み込んでいる
古い紙の匂いと、乾いた木の香り。
遠くで誰かが本を戻す音だけが、かすかに響いていた。
その一角で、ハルは一人、机に向かっていた。
最近、手に取る本の種類が変わってきている。
以前は解剖学。運動学。
最近は体術にまで手を伸ばすようになっていた。
開いた本には、人の骨格や筋肉の動きが細かく描かれていた。
どの筋肉が縮み、どの関節が動き、どこへ力が伝わるのか。
文字を追えば、意味はなんとなく分かる。
だが、分かることと、できることは違う。
ハルは自分の手を見下ろした。
軽く握り、開く。
簡単な動作であればイメージできる。
しかし、体術における身体の使い方を見てみると。以下のように書いてある。
回し蹴りは、足だけで放つ技ではない。
軸足が地面を踏み、返ってきた力が腰を回す。
その回転に引かれて太ももが走り、膝が弧を描き、最後に足先が鞭のように加速する。
地面から腰へ、腰から脚へ。
全身の力が一点に集まり、足先が空気を裂く。
頭の中では動いている。
けれど、身体はその通りに働いていると感じるのが難しい。
「体術は、実践で覚えるのが一番効率が良いかもしれませんよ?」
ふいに、背後から声がした。
ハルは顔を上げ、ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、メルだった。
いつものように静かな表情を浮かべている。
声も柔らかい。
けれど、その目は不思議とまっすぐだった。
ただ思いつきで声をかけたわけではない。
そんな気がした。
「実践……」
ハルは小さく繰り返した。
本の上に視線を戻す。
机上では想像できる。
筋肉の動きも、関節の使い方も、力の流れも。
けれど、戦いの中でそれを使えるかと問われれば、答えは出なかった。
魔術の撃ち合いができない自分にとって、遠くから戦う道は狭い。
ならば、近づくしかない。
近づいて、見て、動くしかない。
そう考えた瞬間、小さな自分の可能性が少し広がった気がした。
「……確かに、そうかもしれません」
ハルの声は、思ったよりも静かだった。
メルは小さく頷いた。
「それに」
そこで一度、言葉を切る。
ハルが顔を上げるのを待っていたようだった。
「魔術使いは、魔術のみを極める方が多いですから」
メルは、ふふっと静かに笑った。
そして、人差し指を頬に当てて少し考えてから
「近距離で戦おうとする人は、案外少ないものです。だからこそ、良い方向に働くかもしれませんね」
その声は優しかった。
だが、慰めではなかった。
できないハルを励ましているのではない。
別の道があると、本気で言っている。
ハルはそう感じた。
今まで、自分には足りないものばかりだと思っていた。
魔術の才能。
出力。
正面から撃ち合う力。
けれど、足りないから終わりなのではない。
足りないなら、違う方法を探せばいい。
そんな当たり前のことに、今さら気づかされた気がした。
「……考えてみます」
ハルが答えると、メルは満足したように目を細めた。
「ええ」
それだけ言い残し、彼女がゆっくり背を向けようとしたその時。
ハルはほとんど無意識に口を開いていた。
「メルさんは……どうして、僕にそんなに良くしてくれるんですか?」
言ってから、自分でも少し驚いた。
聞くつもりはなかった。
けれど、胸の奥にずっと引っかかっていた疑問が、気づけば声になっていた。
メルは足を止めた。
一瞬だけ驚いたように目を丸くしたあと、少し考えるように視線を上げた。
「そうですね」
静かな図書館に、彼女の声だけがやわらかく落ちる。
「前のハルくんは、何だか色々、諦めている印象が強かったです」
その言葉に、ハルは小さく息を止めた。
否定はできなかった。
自分でも、そうだったと思う。
できないものはできない。
分からないものは分からない。
そうやって、どこかで最初から線を引いていた。
メルは、そんなハルの反応を責めるでもなく、ただ穏やかに続けた。
「でも、今のハルくんは違います」
「何かを掴もうとしている感じがするんです。分からなくても、できなくても、それでも前に進もうとしているように見えて」
ハルは何も言えなかった。
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
褒められた、というよりも。
自分でも気づいていなかった変化を、誰かに見つけてもらったような気がした。
「だから、応援したくなったんだと思います」
メルはそう言って、ふっと表情を緩めた。
「それに」
「少し小動物っぽくて可愛いので、つい世話を焼きたくなっちゃうのかもしれませんね」
最後の一言だけ、からかうような響きが混じっていた。
ハルが意味を測りかねて瞬きをすると、メルはいたずらっぽく微笑む。
そして、くるりと向きを変え、ゆっくりと本棚の奥へ歩いていった。
その足音は静かだった。
高く積まれた書架の間に吸い込まれていくまで、ハルはしばらくその後ろ姿を見ていた。
やがて、図書館にまた静けさが戻る。
古い紙の匂い。
窓から差し込む白い光。
机の上に開かれたままの本。
ハルは、ゆっくりと視線を落とした。
(最後の方は、よく分からなかったけど)
それでも、胸の奥に残ったものは不思議と悪くなかった。
(メルさんも、応援してくれてるんだ)
そう思うと、さっきまで難しく見えていた文字の並びが、ほんの少しだけ違って見えた。
分からない
でも、分かりたい。
ハルは小さく息を吸い、もう一度、本の文字を追い始めた。
体術。
その言葉が、さっきよりも少しだけ重く響いた。
簡単に身につくとも思えない。
それでも、胸の奥に小さな熱が残っている。
怖さではない。
焦りでもない。
何かを始める前の、落ち着かない熱だった。
「体術か……」
ハルは小さく呟いた。
そして、もう一度自分の手を見た。
まだ何も掴めていない。
けれど、掴みに行くことはできる。
ハルは静かに本を閉じた。
新しい挑戦は、もう始まっていた。
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