欠落した記憶
彼女が記憶を失ったのは中学2年の時。原因は分からないが、解離性健忘に陥った。
彼女が覚えていなかったのは家族の情報のみだ。系統的健忘とも言うらしい。
正直、原因はDVだろうとは思っている。学校で虐められていたわけでもなかったのに、あらゆる時期の打撲痕が残っていたからね。証明する人物が記憶喪失だから断定はできないけど。
入院中面会制限がかけられていたが、彼女が「どうしても話したい」と懇願していたようで、(事情も事情だったため)会うことが許された。
僕は見舞い自体が初めてだったのでとても緊張していた。
それに、年頃の女の子だ。下手なことを言ったら捕まりかねない。
彼女と話す前に医師から指示があった。
彼女の意見を傾聴し決して否定しないこと。記憶を失った彼女はまだ精神的に不安定だから丁重に扱ってくれ、とのことだ。
*
……とりあえず、菓子詰めを持って彼女の病室へと向かった。
軽くノックしてドアを開けると、いたって普通の彼女が出迎えてくれた。むしろ、こっちの方が元気だったかもしれない。
「待ってましたよ佐倉先生。ここ、個室だから何かと便利です」
「あ、あぁそうか。元気そうで何より」
ぎこちない返事をしたせいか、彼女は口に含むような笑い方をした。
「そんなに緊張しなくてもいいのに。ナニするわけじゃないんですから」
「あのねぇ……八宮さん、そんなことどこで覚えたの」
「私、中学2年生ですよ? それくらいは知ってますって」
「そういうものなのかい……? 一応言っておくけど、僕は全くする気はないからね」
「ははっ、分かってますよ」
面談者用の席があったのでそこに腰掛けると、彼女もベットの上で女の子座りをした。
……気がないとはいえ、ちょっとはドキッとする。パジャマは第二ボタンまで開けてるし、狙っている感じがあったからだ。
「……さてと、先生にたくさん言いたいことがあるんだ」
「例えば、どんなことだい?」
「本当は先生が親なんでしょう?」
――耳を疑った。
しばらく僕は脳内で言葉の意味を処理していた。
だがこの数秒間、何度記憶を検証しても「本当は先生が親なんでしょう?」としか捉えることができなかった。
「え、え~っと……」
「だって、皆が親だって言っている人の記憶がないんだもの。今の私にとって、一番身近な大人は先生。だから、先生は私の親だよ?」
「それは……ちg」
「血縁がなくたって、名字が違くたって親にはなれる。そうでしょう? 先生」
「……そうだけどね。でも、それだけで結論付けるのは早計なんじゃないかな?」
「……?」
「僕は君を育ててはいない。先生として、基本的な学術を教えていることに過ぎないんだよ」
彼女はとても不服そうな表情を浮かべた。間接的に否定してしまっているからね。
はぁ~、と大きなため息をつくと、棚に置いてあった紅茶を一飲みして話をつづけた。
「――所詮は教育者、か。教師も大したことねぇな」
態度は一変し、胡坐をかいて高圧的な言葉を投げかけてきた。
さっきまで話していた彼女とは似ても似つかない。別人にしか見えなかった。
だが、医師から多重人格であるという報告は受けていない。だから、本人ではあるはず……。
「折角信用できる大人ができたと思ったのに、これじゃあ呼んだ意味もない」
「あ……いや、言い方が悪かったのは謝る。僕自身そんなに生徒に人気ないし、信用されてなんかないと思っていたから……」
「そうでしょうね。背は小さいし、ひょろひょろしてて不安定だし、下ネタが好きじゃ特定の男子以外には好かれないでしょうよ」
「八宮さん、そう思ってたのか……」
「客観的な事実に基づいて言っただけですよ。あぁ、あと私みたいな変人には好かれるでしょうけど」
……フォローがフォローになっていない。
侮辱を言われるのは慣れたものだが、それでも傷つく。
「で、先生は親になってくれないの?」
「なれないだろうね」
「じゃあ、私が貴方になるしかありませんね」
「……僕なんかに? 止めておきな。ろくな人生にならないよ」
「いいや、それこそ私の価値だ。空の私に存在意義を与えたのは恩師よ、貴方だ。だから――」
彼女は咄嗟に立ち上がり、僕の右手を手に取った。
「――私は、貴方になろう。そのためベースを頂戴……?」
時が突然止まり、すぅっと彼女の瞳の中に意識が引き込まれる。
これは……まやかしなのか? そう思ってしまうほど心地いいのだ。
……あらゆる美しい景色が見える。花畑やオーロラ、澄んだ海。
その中に、幼少の彼女と思われる者が無邪気にはしゃいでいた。
少女は青い石のついたペンダントを身に着けている。彼女も中学校で常に持っていた記憶がある。
――そう思った瞬間、辺りは暗転し横たわった少女だけが取り残されていたのだ。
恐る恐る近寄ってみると、肉体が引き裂かれすでに原型を失った少女の亡骸がそこにあった。
「あ……あぁっ……」
一目散に逃げようとしたが、どこに逃げればよいのか分からない。
そもそも、ここはどこだ?
焦りからか何も状況が把握できない。
夢なら早く覚めてくれ、と願いながら闇雲に走り続けた。
――しかし、それも徒労に終わった。
何かに首を噛みつかれた、というのは覚えているがその場所での後の記憶が一切ない。
そして、起きた時には自宅のベットで寝ていた。
時計は深夜1時を指していた。
僕は寝ぼけているのか……?
まだ首の痛みは残っているが、夢だと思ってそのまま寝ることにした。
*
――あれは夢なんかじゃなかったんだ。
今思えばそんな感じがする。ここは昔彼女と話した場所と似ている部分が多くあるからだ。
それを彼女は「虚構」と呼んだ。自分の理想の世界――
「……だいぶ整理がついた? 私はこんな面白い能力を持っているのよ」
「人を自分の虚構に陥れることか? それは能力でも何でもない。単なる逃避だ」
その発言に驚いたのか、彼女は腕を組んで5秒程言葉を探していた。
「……あながち間違ってないかもね。恩師になるために人を喰らいキマイラとなった今、私は貴方以外の何者にでもなれるようになった。貴方というベースはあったはずなのにいつの間にか崩れ去り、核はこの自我に存在していないのかもしれない。じゃあ、このアイデンティティが拡散された私は誰だ? 私は存在しているのか?」
ぐにゃりと、少しだけこの世界が歪んだ気がした。虚構が虚構として保てなくなっているのだろう。
核心を突けば彼女の意識は変わるんじゃないか?
これは、8年前のリベンジだ――




