9. 段差
六月十四日。
夜通し数えて、朝の光でもう一度確かめた。数は、明るいところで見ても同じである。
四十五が、百五十になる。
百五十が、三百になる。
瓶に詰めるのは十五日ぶんだけと決まっている。だから詰めた滴数は、そのときの量をそのまま映す。朝のみ三滴なら四十五。朝夕各五滴なら百五十。朝夕各十滴なら三百である。
「先輩。それ、何を数えてるんですか?」
「段差です」
「だんさ?」
「増えたのが一度ではなかったのです。二度でした」
シビラが指を折って、途中で分からなくなって、また最初から折り直す。
「増えてたってことは、その、悪くなってたってことじゃないんですか?」
「いいえ。増えたから、悪くなったのです」
あの往診の日にわたしに分かっていたのは、三滴が十滴になったということだけである。貼り紙には、いつ変わったかも、何度変わったかも残らない。残るのは出庫の控えのほうで、見習いはそれを見せてもらえない。
十年前のわたしに見せてもらえなかった紙を、いま、わたしが開いている。
四十五から百五十へ跳ねたのは、四九四年五月。
百五十から三百へ跳ねたのは、四九七年五月。
全部を足すと、四万九千滴あまりになる。
「四万九千滴」
「……それ、飲んだんですか。あの方が」
「十年で」
シビラは何も言わずに、乳鉢を差し出してくる。挽くものは入っていない。わたしはそれでも乳棒を握って、空の鉢の底を二度こすった。
◇
ラーゲ先生が五月に置いていった理由書を、わたしはようやく開く。
二枚ある。どちらにも、量を増やした理由が書いてあった。
――四九四年五月、朝のみ三滴を朝夕各五滴へ改む。肺は癒えたるも、夜の動悸残るがゆえ。
肺は癒えた、と書いてある。
癒えたと知りながら、この方は量を増やしている。残っていたのは病ではない。薬の切れ際である。この方は、自分の薬が作った症状を、自分の薬で追いかけた。
――四九七年五月、朝夕各五滴を朝夕各十滴へ改む。前月、ハーデン家より「刺激の強い治療は控えられたい」との申し入れあり、これに従う。
申し入れたのは、ダニエルさまである。
◇
自分の薬帖を開く。
四九二年の冊子には、ネーヴェさまの欄がある。四九三年にもある。四九四年の欄は、四月で途切れていた。
届け役を外れた月である。
理由書の一枚目は四九四年五月。癒えたのは、その前の月ということになる。
わたしの空白が始まった月と、あの方の病が終わった月が、同じである。
わたしの十一冊は、十年分の観察ではなかった。見習いの二年と、八年の空白と、この五月からのひと月あまりでできている。空白は、書かなかった分だけ正直である。
四九七年四月。ハーデン家が申し入れた月であり、わたしとダニエルさまの婚約が、両家で調った月でもある。
わたしの幸福が、この娘の薬を倍にした。
その月に自分が何をしていたかは、よく覚えている。家で銀の匙を磨いていた。姉が持たせてくれた匙である。婚約が調ったと聞いてうれしかったかどうかは、正直なところ思い出せない。覚えているのは、これで家が助かる、と思ったことだけである。
同じ月に、この家では一回の量が倍になっている。二つの月は、同じ紙の上には並んでいない。並べたのは、たったいま、わたしである。
◇
庭へ出る。
十年手の入っていない下草を、女中が二日がかりで刈っている。刈り残した奥のほうは腰の高さまであって、そこだけ庭が十年前のままである。ネーヴェさまはその手前を、二百歩、歩いた。
付き添いは、ネーヴェさまの兄上である。腕は貸していない。半歩うしろを、同じ速さで歩いていく。妹が石につまずきかけて、手が出て、出しかけたところで引っ込む。
支えないことのほうが、たぶんこの人には難しい。
「先生」
そう呼びかけて、わたしは理由書を渡す。
あの人は二枚を上から下まで読んで、しばらく紙から目を上げない。組んだ指が、ほどけたままになっている。
「二枚とも、日付が入っております」
「入っていますね。……あの方は、嘘はお書きにならない。書かないから、始末が悪い」
庭のほうで、女中が刈った草を集めている。その音のあいだに、この人はもう一度、二枚を読み返した。
「わたしは十年、妹の処方を読みませんでした」
「はい」
「読んでも動かせないからです。〈回避〉があるので受理も照会もできない。動かせるのは〈代診〉か、主治医の交代だけで」
「どちらも、妹御が求めなければ始まらない」
「妹は求めませんでした。……だから読まなかった」
庭の向こうで、ネーヴェさまが立ち止まって、また歩きだす。
「読めば、何もできない自分を見ることになります。それを、わたしは診たものしか信じないと言い換えて生きてきた」
この人は感情の語を使わない。使わないまま、十年ぶんを一度に言ってしまった。
わたしは責める言葉を探して、見つからないことに気づく。この人の十年と、わたしの十年は、形が違うだけで同じものでできている。動けば失うものがある人は、動かないでいるための言葉をひとつ持つ。診たものしか信じない、薬師ですので、と。
「ハース薬師」
「はい」
「……助けてください、ハース薬師」
診たものしか信じない人が、そう言う。
風が下草を鳴らして、刈ったばかりの草の匂いが濃くなった。目の奥が熱くなったのは、たぶんその匂いのせいではない。
「ヴィンセントさま」
呼び名を変える。変えたのは、たぶん今日のためではない。
「八年前の所見は、どこにあるのでしょう?」
「所見の紙は、クーレ家にはありません。療養費を払っていた家にあります」




