表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
10/10

10. わたしの言葉で

 六月十七日。


 調剤棟の窓から、北の通りが見える。


 分銅を並べる手が止まったのは、通りの向こうに黒い髪が見えたからである。


 娘がひとり、こちらへ歩いてくる。半歩うしろにヴィンセントさま。そのまた半歩うしろで、日傘を掲げたシビラが右へ左へ落ち着かない。


 クーレ邸から王立薬院まで、大人の足で四半刻、およそ一千歩である。


 ネーヴェさまは二度休んで、半刻をかけて歩いてきた。


「辻馬車をお使いになればよろしいのに」


「使いません。……これは、わたしが決めたことですから」


 息が上がっている。額に汗が浮いて、髪が首に貼りついている。


 それでも、この方は自分の足で敷居をまたいだ。


 調剤棟の者が手を止めて見ている。十年、屋敷の外へ出なかった子爵家の娘が歩いてきたという話は、この朝のうちに薬院じゅうを回ったらしい。


「先輩! 着きました、着きましたよ。わたし、三回泣きそうになりました」


「泣かないで。椅子を、北窓の下へ」


 シビラが椅子を運ぶ。ネーヴェさまは座ってから、ずいぶん長いこと息を整えていた。


「……ここ、酢の匂いがするんですね」


「一日じゅうこれです。慣れます」


「慣れたくありません。……いいえ。慣れてみたい気もします」


       ◇


 ヴィンセントさまが所見を書く。主治医だから書ける。


 書き換わったのは、一行のうちの三文字である。


「病者、ではなく」


減薬中(げんやくちゅう)の者、と」


 マティルダさまが額の眼鏡を下ろして、その紙を読む。


「ハース薬師。この紙が変われば、ハーデン家が薬代を出す名目が消えますよ」


「……はい」


「消えたあと、薬代を出す人がいなくなります」


 それは今日の問いではない。けれど、いつか必ず来る問いである。


       ◇


 昼過ぎ、ダニエルさまが来る。


 外套を着たまま調剤棟の前に立って、病室にいるはずの娘が椅子に座っているのを見ている。北窓の光の中で、ネーヴェさまは背筋を伸ばして、包んだ葉物を膝に抱えている。


「……ノエラ。話がある」


「はい」


「披露のことだ。秋でも、来年でもいい。君は強いから、待てるだろう?」


「わたしは、強いのではありません」


 五月のあの日は、そこで続きが出てこなかった。


「強い人のふりをしていれば、置いてもらえたのです。ふりをやめたら置いてもらえない家に、わたしは五年おりました」


「ノエラ、待ってくれ。僕は君を」


「ハーデン様」


 この方をそう呼ぶのは、初めてである。呼んだあとで、口の中に知らない味が残る。


「婚約を、解消していただきます。あなたがあの方を選んだから、ではありません。わたしが、選ばれる側にいるのをやめるからです」


 ダニエルさまは口を開いて、何も言わずに閉じる。


 それから、いつものように眉の端を下げた。


「……僕は、悪いことをしたのか?」


「悪くはありません。ただ、十年、誰も動かなかっただけです」


 わたしは、五月の夜に書き出した四つを、そのまま声に出した。処方すべきもの、四つ。


 一つ、あの子は病気だから。二つ、君は強いから。三つ、家が決めたことだから。四つ、僕は十年、彼女を守ってきた。


 どれも「だから」で終わる。「だから」で終わる文は、そこから先へ進まなくていい。


「今日、二つ塞がりました。あとの二つは、まだあなたの中にあります」


「……なんだ、それは。君は、僕を治す気か?」


「では、治しましょう」


       ◇


 夕方、姉から手紙が届いた。


 三日前に、わたしが出した手紙の返事である。婚約のことで近く相談したい、とだけ書いて出した。相談の中身は書かなかったし、姉も訊いていない。


 ――家のことは、こちらで考えます。


 一行きりである。ハーデン家の出資で回っている商いをどうするかも、父の残した借りのことも、何も書いていない。


 わたしは十年、この一行を待っていたのだと思う。


 姉は体の弱い子だった。だからわたしは、大丈夫なほうに配役される。大丈夫だと言えば、そこにいてよかったのである。


 その姉が、家のことはこちらで考えると書いてきた。配役が変わったのではない。配役というものが、初めからなかったのかもしれない。


「ハース薬師」


 ヴィンセントさまが戸口に立っている。


「妹が、あなたに礼を言いたいと」


「……礼は、いただけません。わたしは、あの方を治せば楽になれると思って往診に行きました」


「それは、診ていません」


「……え?」


「わたしは、診たものしか信じません。あなたが何を思って来たかは、診ていない。あなたが何をしたかは、診ました」


 わたしは笑おうとして、うまくいかない。


「ノエラ殿」


 呼び名が変わる。


「……はい」


 必要とされたいのではなかったのだ、と思う。ここにいてよいと誰かに言ってほしかったのでもない。


 役に立つ人でいれば、置いてもらえる。そう信じていた五年のあいだ、わたしは自分の欄をずっと空けたままにしていた。空けておけば、誰かがそこへ何か書いてくれると思っていたのかもしれない。


 わたしはただ、自分の欄に一行を書きたかっただけである。


 八年前の所見のことは、今日は口にしなかった。あの紙はハーデン家の控えの中にあって、療養費を払った家の紙を見せてくれと言える者が、いまのわたしたちには一人もいない。婚約を切った日に頼めることではない。


       ◇


 日が落ちてから、わたしは薬院の表へ回る。


 扉に、紙が一枚貼ってある。まだ糊が乾いていない。


 〈越権(えっけん)〉。告発人、ユルゲン・ラーゲ。


 半券のことは、一言も書かれていない。書いてあったのは、こうである。


 ――本人の求めは、本人の自由意思によるものにあらず。薬師が病者を誘導したるものと認む。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ