10. わたしの言葉で
六月十七日。
調剤棟の窓から、北の通りが見える。
分銅を並べる手が止まったのは、通りの向こうに黒い髪が見えたからである。
娘がひとり、こちらへ歩いてくる。半歩うしろにヴィンセントさま。そのまた半歩うしろで、日傘を掲げたシビラが右へ左へ落ち着かない。
クーレ邸から王立薬院まで、大人の足で四半刻、およそ一千歩である。
ネーヴェさまは二度休んで、半刻をかけて歩いてきた。
「辻馬車をお使いになればよろしいのに」
「使いません。……これは、わたしが決めたことですから」
息が上がっている。額に汗が浮いて、髪が首に貼りついている。
それでも、この方は自分の足で敷居をまたいだ。
調剤棟の者が手を止めて見ている。十年、屋敷の外へ出なかった子爵家の娘が歩いてきたという話は、この朝のうちに薬院じゅうを回ったらしい。
「先輩! 着きました、着きましたよ。わたし、三回泣きそうになりました」
「泣かないで。椅子を、北窓の下へ」
シビラが椅子を運ぶ。ネーヴェさまは座ってから、ずいぶん長いこと息を整えていた。
「……ここ、酢の匂いがするんですね」
「一日じゅうこれです。慣れます」
「慣れたくありません。……いいえ。慣れてみたい気もします」
◇
ヴィンセントさまが所見を書く。主治医だから書ける。
書き換わったのは、一行のうちの三文字である。
「病者、ではなく」
「減薬中の者、と」
マティルダさまが額の眼鏡を下ろして、その紙を読む。
「ハース薬師。この紙が変われば、ハーデン家が薬代を出す名目が消えますよ」
「……はい」
「消えたあと、薬代を出す人がいなくなります」
それは今日の問いではない。けれど、いつか必ず来る問いである。
◇
昼過ぎ、ダニエルさまが来る。
外套を着たまま調剤棟の前に立って、病室にいるはずの娘が椅子に座っているのを見ている。北窓の光の中で、ネーヴェさまは背筋を伸ばして、包んだ葉物を膝に抱えている。
「……ノエラ。話がある」
「はい」
「披露のことだ。秋でも、来年でもいい。君は強いから、待てるだろう?」
「わたしは、強いのではありません」
五月のあの日は、そこで続きが出てこなかった。
「強い人のふりをしていれば、置いてもらえたのです。ふりをやめたら置いてもらえない家に、わたしは五年おりました」
「ノエラ、待ってくれ。僕は君を」
「ハーデン様」
この方をそう呼ぶのは、初めてである。呼んだあとで、口の中に知らない味が残る。
「婚約を、解消していただきます。あなたがあの方を選んだから、ではありません。わたしが、選ばれる側にいるのをやめるからです」
ダニエルさまは口を開いて、何も言わずに閉じる。
それから、いつものように眉の端を下げた。
「……僕は、悪いことをしたのか?」
「悪くはありません。ただ、十年、誰も動かなかっただけです」
わたしは、五月の夜に書き出した四つを、そのまま声に出した。処方すべきもの、四つ。
一つ、あの子は病気だから。二つ、君は強いから。三つ、家が決めたことだから。四つ、僕は十年、彼女を守ってきた。
どれも「だから」で終わる。「だから」で終わる文は、そこから先へ進まなくていい。
「今日、二つ塞がりました。あとの二つは、まだあなたの中にあります」
「……なんだ、それは。君は、僕を治す気か?」
「では、治しましょう」
◇
夕方、姉から手紙が届いた。
三日前に、わたしが出した手紙の返事である。婚約のことで近く相談したい、とだけ書いて出した。相談の中身は書かなかったし、姉も訊いていない。
――家のことは、こちらで考えます。
一行きりである。ハーデン家の出資で回っている商いをどうするかも、父の残した借りのことも、何も書いていない。
わたしは十年、この一行を待っていたのだと思う。
姉は体の弱い子だった。だからわたしは、大丈夫なほうに配役される。大丈夫だと言えば、そこにいてよかったのである。
その姉が、家のことはこちらで考えると書いてきた。配役が変わったのではない。配役というものが、初めからなかったのかもしれない。
「ハース薬師」
ヴィンセントさまが戸口に立っている。
「妹が、あなたに礼を言いたいと」
「……礼は、いただけません。わたしは、あの方を治せば楽になれると思って往診に行きました」
「それは、診ていません」
「……え?」
「わたしは、診たものしか信じません。あなたが何を思って来たかは、診ていない。あなたが何をしたかは、診ました」
わたしは笑おうとして、うまくいかない。
「ノエラ殿」
呼び名が変わる。
「……はい」
必要とされたいのではなかったのだ、と思う。ここにいてよいと誰かに言ってほしかったのでもない。
役に立つ人でいれば、置いてもらえる。そう信じていた五年のあいだ、わたしは自分の欄をずっと空けたままにしていた。空けておけば、誰かがそこへ何か書いてくれると思っていたのかもしれない。
わたしはただ、自分の欄に一行を書きたかっただけである。
八年前の所見のことは、今日は口にしなかった。あの紙はハーデン家の控えの中にあって、療養費を払った家の紙を見せてくれと言える者が、いまのわたしたちには一人もいない。婚約を切った日に頼めることではない。
◇
日が落ちてから、わたしは薬院の表へ回る。
扉に、紙が一枚貼ってある。まだ糊が乾いていない。
〈越権〉。告発人、ユルゲン・ラーゲ。
半券のことは、一言も書かれていない。書いてあったのは、こうである。
――本人の求めは、本人の自由意思によるものにあらず。薬師が病者を誘導したるものと認む。




