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8. 土

 六月十日から、一回を六滴にする。


 処方はクーレ先生の名で出た。〈代診〉ではなく、主治医の処方である。


 紙の上の名が変わっただけで、薬の色も匂いも変わらない。それでも、その紙が変わるのに十年かかっている。


 六月十日から十二日まで、〈戻り〉が来る。汗と、震えと、眠れない夜と。ひととおり同じ順で来て、同じ順で引いていった。


 違うのは、誰も瓶に手を伸ばさなかったことである。


「三日目の夜が、いちばん重いんでしたっけ?」


「はい」


「じゃあ、今夜さえ越えれば」


「越えれば、朝です」


「……前より、こわくありません。順番を知っておりますもの」


 三日のあいだ、脈を数えたのは兄上のほうである。主治医が数え、薬師が量る。前の〈戻り〉のときと同じ部屋で、同じ人が、違う役で座っている。


 わたしは二日目の夜に一刻ほど眠った。前の三日で一度も眠らなかったことを思えば、それだけでも別の三日である。


 主治医が替わってからの半月あまり、この家では何も起きていない。何も起きない日がこれだけ続くのは十年ぶりなのだと、あとになって気づく。


 病室の帳は、もう外してある。庭の草の匂いが昼のあいだじゅう入ってきて、夕方には少し暑いくらいになった。


       ◇


 六月十三日。


「門の前で降ります。そこから店先まで、三十歩ほどです」


「三十歩。……廊下の四分の一ですね」


「今朝は百二十歩でしたから、四分の一で合っています」


「先輩、さっきから算術の話しかしてませんよ」


 シビラが日傘を差し出す。前掛けの紐は、今日も片方ほどけていた。


 辻馬車を降りると、匂いが来る。


 土と、魚と、埃。生きているものの匂いである。荷を担いだ男が怒鳴り、荷車の輪が石を弾き、どこかで犬が吠えている。


「……多い」


「人が、ですか?」


「音が。こんなに、いろんな音がするんですね」


 十歩。二十歩。二十五歩のところで、ネーヴェさまは樽に腰を下ろした。


「休みます。……悔しいですけれど」


「休むのも歩くうちです」


「ハースさま、それ、慰めが下手でいらっしゃいます」


「よく言われます」


 シビラが吹き出して、慌てて口を押さえる。


 腰かけた樽のすぐ脇が葉物の店で、ネーヴェさまは一束を自分で選び、自分の銭で買った。売り子が土のついたまま紙に包むのを、この方はずっと見ている。


「ハースさま。……わたし、いま、買い物というものをしました」


「なさいましたね」


「洗ってから包むものだと思っておりました。土のまま来るんですね」


 わたしはネーヴェさまの手を取って、日の下で爪を見る。


「ここです。見えますか?」


「……なんです、これ」


「半月です。戻りかけております」


「戻る……戻るのですか、これは」


「戻ります。ゆっくりですが」


 この方は自分の指を、長いこと見ていた。


 部屋の帳の下では見えなかったものが、外の光では見える。十年、この方の爪は暗いところにあったのだ。


 立ち上がるとき、ネーヴェさまは自分の靴の先へ目を落とす。


 白い革に、乾いた土が薄くついている。


「……汚れました」


「はい」


「叱ってくださいませんか?」


「まあ汚い」


 言い方が足りなかったらしい。この方は首を横に振る。


「……ふふ。もっと本気で」


「まあ、汚い」


 この方は笑って、それから笑うのをやめた。


「ハースさま。これから、わたしは何をすればいいのでしょう?」


 答えを、わたしは持っていない。


 治すことは考えてきた。治ったあとのことを、わたしは一度も考えていない。十年、この方の一日は薬と発作でできていて、それを引いたら何が残るのかを、誰も用意していないのである。


       ◇


 クーレ邸の門前に、見慣れた馬車が停まっていた。


 ダニエルさまが外套を着たまま立っている。門を歩いて入ってくる娘を見て、その場から動かない。


「……ネーヴェ?」


「ダニエルさま。ごきげんよう」


「歩いて。いや、待ってくれ。ラーゲ先生は、なんとおっしゃって」


「先生は、もういらっしゃいません」


 ダニエルさまがわたしを見る。眉の端が下がっている。


「ノエラ。あの子は病気だから」


 そこで、言葉が切れた。


 この方の文はいつも「だから」で終わる。だからの先には、いつも同じ続きがあった。そっとしておいてやってくれ、と。


 その続きが、今日は出てこない。病気だから、の根拠が、たったいま三十歩を歩いてしまったからである。


「……ノエラ」


「はい」


「君は、僕を必要としなくなるのか?」


 その問いは、門の内の娘にではなく、わたしに向かって出た。


 十年、この方が守っていたのはあの方ではない。あの方を守っている自分である。守るものが自分の足で歩き出したら、守る人はどこにも立てなくなる。


 わたしは答えない。答えれば、この方はまた「だから」の続きを見つけてしまう。


       ◇


 その夜、わたしは薬院に残った。


 十年前の綴りを出すには、主任の許しが要る。


「クーレ子爵家の、銀月草の出庫控えを。四九二年から今年まで」


「十一年ぶんですか。……理由を」


「量の変わった月を、確かめたいのです」


 マティルダさまは額の眼鏡を下ろして、それからわたしの顔を見る。


「先日、わたしはあなたに、量ったのはあなたですかと訊きましたね」


「はい」


「訊いた相手が数を確かめに来たのなら、出さない理由がありません」


 棚の下から出てきた綴りは、年ごとに糸で綴じてある。指で押すと埃が舞って、灯りの中で、しばらく落ちてこない。


 銀月草。クーレ子爵家。十年分。


 半月ごとに詰めた滴数が、年ごとに並んでいる。


 四十五。四十五。四十五。


 指で追っていくと、ある年の頁で、数が変わる。


 十年分の銀月草が、ある月を境に量を変えている。

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