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7. いりません

 五月二十日。


 同意書に要る署名は二つである。家長と、本人。


 クーレ子爵さまは、卓の前で長いこと筆を持っている。持ったまま、墨をつけない。


「……ネーヴェ。お前は、恨んでおるか?」


「いいえ。恨んでおりましたら、十年も飲みません」


 関節の太い指が動く。名を書くだけのことに、ずいぶん時間がかかった。


 次に、ネーヴェさまが筆を取る。


 字は、求めを書いたときより少ししっかりしている。線が途切れたのは一度だけで、途切れたところで、この方は息を継いでいた。


「ハースさま。……上手に書けましたか?」


「震えておりません」


「あら。褒めてはくださらないんですね?」


「褒めております」


 子爵さまは、娘の書いた名をしばらく見ていた。それから席を立ち、扉のところで一度だけ振り返る。何か言おうとして、言わずに出ていく。


 この家の人は、みんな言わないまま十年を過ごしてきたのだと思う。


       ◇


 同意があっても、後任がいない。


 三日のあいだに四人の医師を訪ねる。ひとりは扉を開けなかった。ひとりは茶を出してから断り、ひとりは「わたしにも家族がある」と言い、最後のひとりは家の名を聞いた時点で首を振る。


 ハーデン伯爵家の抱え医師に逆らってまで、子爵家の娘を診る医師が、王都にいない。


 四人目の門を出たとき、日が暮れかけていた。往診鞄が重い。中身は昨日と同じで、重くなったのはたぶん、こちらのほうである。


「五人目に参ります」


「その必要はありません」


 監察室で、クーレ先生は組んだ指をほどいた。


「わたしが診ます」


「……先生が?」


「〈回避(かいひ)〉が禁じているのは〈監察〉です。妹の件は、初めから受理も照会もできない。ですが、診ることは禁じられていない」


 わたしは息を吸う。


「……お引き受けになれば、こんどは先生が、処方をお書きになる側です」


「そうです。この減薬を誰かが咎めたとき、調べられるのはわたしの処方になる。受理するのは別の監察医で、わたしはその部屋に入れません」


「入れないまま、調べられる側に回るということですか?」


「そうです」


 高窓の光が、机の角から紙の束のほうへ移っている。この人はその縁を見たまま、次の言葉を待っていた。


「……よろしいのですか?」


「十年、入れる部屋を一つも持たないまま、何もしませんでした。持たないまま何かをするほうが、まだ医師の仕事に近い」


 この人は感情の語を使わない。使わない人の言葉のほうが、あとから効く。


 わたしが往診に行かなければ、この人は監察の外に立ったままでいられた。外に立ったままなら、十年目の続きを、そのまま十一年目にできたはずである。


 白衣の左袖は、今日も肘まで捲れている。捲れた腕の内側に、古い墨の汚れがひとつ残っていた。


       ◇


 五月二十三日。交代が成る。


 ラーゲ先生の処方は、その日で失効した。取り消しが効くのは二十四日である。


 明日になれば、あの取り消しは効力を持つ。持ったところで、取り消せる処方はもう彼のものではない。


 一日。


 十年を動かしたのが一日だと気づいて、わたしは天秤の前で手を止める。皿がひとりでに揺れて、止まるまでにずいぶんかかった。


 同じ日の午後、薬院にハーデン家の使いが来る。


 調剤棟の主任マティルダさまが、眼鏡を額に上げたままわたしを呼んだ。


「ハース薬師。クーレ子爵家のご息女の薬を、量ったのは、あなたですか?」


「わたしです」


 マティルダさまは、わたしの手元を見ている。灰色の髪はきっちり結い上げてあって、額の眼鏡だけが場違いに傾いていた。


「主治医の処方に、薬師が並べて量った」


「〈代診〉の三点は満たしております。通知は五月五日。半券に、受け取りの署名がございます」


「番号は?」


「三十四の七。半券は、薬院に残っております」


 薬帖に書き写しておいた番号である。書き写したときは、こんな日のためだとは思っていない。ただ、残るものは残しておくようにと、この十年で覚えただけである。


「……調べます。あなたの言うとおりなら、それで結構」


「はい」


「ハース薬師。規則は盾にも武器にもなります。あなたは今日、武器のほうを使いましたね」


       ◇


 その日の朝、ネーヴェさまは廊下を往復した。三十歩である。


 夜、寝台の脇でわたしは言う。


「ネーヴェさま。あの方は、あなたのものです。差し上げます」


 言ってしまってから、ずいぶん軽い言い方をしたと思う。


 ネーヴェさまは、しばらくこちらを見ていた。窓は開けたままにしてあって、夜の草の匂いが入ってくる。


「いりません」


「……え?」


「ノエラさま。わたしがほしかったのは、あの方ではありません」


 呼び方が変わったことに、一拍遅れて気づく。


「誰かが来てくれる理由です。……病気は、よく効く理由でした。十年、一度も外れませんでしたもの」


 この方は嘘をついていない。十年、一度も。


 わたしは、この方から何かを奪って帰るつもりでここへ来た。奪うものが、初めからなかったのである。


       ◇


 その夜、調剤棟で薬包紙を折る。


 折り目が合わない。端と端を合わせて、指で押さえて、それでも合わない。三度目で紙が裂ける。


 裂けた紙を見ているうちに、指の先が冷えていくのが分かった。膝の上で手を握ると、握った形のまま戻らない。


 わたしは泣かない。泣く場所を、たぶん持っていない。


 わたしは五年、あの方の婚約者という席にいた。十年、この薬院にも席がある。どちらも、役に立っているあいだのものだった。


 役に立たなくなった日のことを、わたしは一度も考えたことがない。考えないようにしていたのだと、いま気づく。


 湯呑みが、天秤の横に置かれた。


「クーレ先生」


「飲みなさい」


「……先生。わたしは」


「今日は、何も。飲んで、座っていれば、それで足ります」


 この人は治そうとしない。隣の椅子に腰を下ろして、それきり何も言わない。


 湯は薄い薬草の味がした。北窓の外はもう暗く、天秤の皿だけが灯りを受けて白く見える。


 差し上げます、と言った自分の声が、まだ耳に残っている。あれは、この十年でいちばん薬師らしくない言い方だったと思う。人を、量って渡せるもののように言った。


 しばらくして、この人は裂けた紙を拾い上げながら、こう言う。


「ハース薬師。……あなたは、自分の薬帖に、自分の欄を書いていませんね」


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