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6. 家長の同意

 五月十七日。


 病室の帳は、昨日から開いたままにしてある。


 朝の光が床の上を斜めに横切って、寝台の脚のところで止まっていた。十年、同じ場所に同じ形で落ちていた光が、今日は少し違う角度で入っている。埃が光の中でゆっくり回るのを、ネーヴェさまはずっと見ている。


「今日は、扉の外まで」


 朝いちばんに、ネーヴェさまはそう言う。


「昨日は窓まで七歩でしたよ。急ぎすぎではありませんか?」


「急ぎます。七歩でやめたら、七歩の人になってしまいますもの」


 女中が腕を貸す。ネーヴェさまはその腕を、初めは強く、それから少しずつ軽く握っている。


 廊下には西向きの窓が三つあって、蝋と、使われていない部屋の匂いがする。四歩目で床板が鳴る。窓の一つは金具が錆びていて、そこだけ光の入り方が違っていた。


 一歩ごとに、足の裏が床を探している。踏むところを目で確かめてから、そこへ体を乗せる。健やかな人は、床がそこにあることを疑わずに歩くのだと、この方の歩き方を見ていて初めて気づく。


 十五歩で、息が上がった。


「……ここまで」


「はい。今日はここまでで十分です」


「十五歩。……昨日の倍ですね」


「倍でございますね」


「ハースさま。あなた、算術がお上手ですこと」


 壁にもたれて、この方は笑う。笑うと咳になる。咳になっても、笑おうとする。


 わたしは膝をついて、腿と足首に触れる。落ちた筋は薬では戻らない。歩いてしか戻らないものだ。


「明日は、階段を見に行きます」


「見るだけですよ」


「見るだけです。……たぶん」


 十年ぶんの目減りが、この十五歩に乗っている。数えられる形になっただけで、今日は十分だと思う。


 量ることと数えることしか、わたしにはできない。けれど、数えられるものは動かせる。動かせないと思われていたものが、昨日は七歩で、今日は十五歩になっている。


       ◇


「二十四日です」


 監察室で、クーレ先生は指を組んだまま言う。高窓の光が机の角を白く切っていて、話しているあいだに、その縁が少しずつずれていく。


「ラーゲ先生の取り消しは、二十四日に効きます。その日からまた、朝夕各十滴に戻る」


「〈代診〉は、主治医の処方を消せません」


「消せません。並ぶだけです。並べば、主治医のほうが勝つ」


「では、勝つ人を替えるしかありませんね」


 クーレ先生の指が、一度ほどけて、また組まれる。


「主治医の交代には、署名が二つ要ります。本人と、家長」


「家長は、お父上ですか?」


「父です。……薬代とラーゲ先生の診療代は、ハーデン家が出しています。看護の女中も、寝具も、炭も、わたしの俸給から出している。父はそれを知っていて、十年、薬のほうには逆らえなかった」


「お会いになりますか?」


「会います。十年、まともに話していませんが」


 十年口をきいていない父を訪ねる人の声とは思えないほど、この人の声は平らである。平らにしないと出てこない言葉なのだろうと思う。


 わたしはうなずいて、それから自分の指が冷たくなっているのに気づいた。困ると、いつもこうなる。


 紙の上を光の縁が渡っていく。あと七日で、この人の妹御は元の量へ戻される。七日という数は、七日ぶんの長さでしかない。


       ◇


 五月十九日。クーレ邸の応接に、ラーゲ先生がいる。


 銀の鎖のついた眼鏡を外して、卓に置く。この方は話すときだけ眼鏡を外す。よく見えるようにするためかと思っていたが、たぶん逆で、相手を見ないための作法なのだろう。


 部屋は広い。広いわりに、炭が入っていない。この家の暖かい部屋は、たぶん病室ひとつきりである。


「主治医を替えるなどと、お嬢さん。ご当主が承知なさるとお思いですか?」


「思いません。ですから、伺いに参りました」


「正直でよろしい。……わたしは、家の求めるとおりに処方しました。それが医師の務めです」


「どちらの家の求めでしょう?」


「療養費を出しておられる家です」


 わたしは背を伸ばす。


「先生。薬の代は、どちらへご請求を?」


「ハーデン家へ。十年、そういたしております」


 クーレ子爵さまの手が、卓の上で止まる。猫背の背中が少しだけ動いて、関節の太い指が卓の縁をつかんだ。若いころは自分で馬を扱ったと、いつかダニエルさまから聞いたことがある。


「……お父上。この十年、この家に薬の紙は」


「一枚も来ておらん」


 この家に来ないのは、薬代の請求と、先生がお書きになる所見の控えである。


 瓶の貼り紙なら、この家の誰でも読める。いま朝夕十滴だということは、女中も父上もご存じである。貼り紙に載らないのは、前がいくつだったのか、いつ書き換えられたのか、どういう理由で書き換えられたのか――その三つだけである。


 だからこの家がご息女の容体について知っていたのは、月に一度、ラーゲ先生の口から出る言葉だけになる。よくなっております、と言われれば、そうかと思う。お変わりありません、と言われれば、そうかと思う。そのあいだに、朝の三滴は朝夕の十滴になっている。


「ノーマンさま。ご息女の処方は、この十年、一度も見直されておりません」


「見んでも、あの子は生きておる」


 クーレ先生が立ち上がった。


「生きているのと、生かされているのは違います」


「……ヴィンセント」


「十年です。あなたは紙の一枚も見ずに、何を守ってこられたのですか?」


 父上が目を上げる。声は、ひどく静かである。


「お前は家にいなかった」


 部屋の音が消える。


 炭の入っていない暖炉の中で、灰が少し崩れる音だけがした。


「……はい」


「いなかった者が、いまさら口を出すな」


「出します。これはハース薬師の所見です。娘の当て推量ではありません」


 クーレ先生の声が、そこで初めて大きくなる。


 この人が声を荒らげるのを、わたしは初めて聞いた。


 妹御のためであり、たぶん、わたしの仕事のためでもある。所見という言葉を、この人は昨日から、わたしのものとして使う。


「……署名はせん」


 子爵さまは、眼鏡を置いたままのラーゲ先生を見る。


「あの家に逆らえば、薬が止まる。止まれば、あの子は」


 この方も十年、同じ場所で足を止めてきたのだと分かる。愛しているから逆らえない。逆らえないから、見ない。見なければ、十年は静かに過ぎる。


 わたしにも覚えのある道筋である。困らせないことを、わたしも五年、仕事のようにしてきた。


 扉が鳴る。


 廊下に、ネーヴェさまが立っていた。女中の腕を借りて、十五歩の先まで来ている。西の窓から入る夕方の光が、ほどけかけた三つ編みの端を白く光らせていた。


「お父さま」


「ネーヴェ。……お前、なぜここに?」


「わたしは、あと十年これを飲んで、それから死ぬのですか?」

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