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5. 窓まで、七歩

 指をかけたまま、夜が明ける。


 抜かなかった。抜かない理由を持っていたわけではない。ただ、朝が来るまで指を置いていただけである。


 窓の外が白くなるころ、寝台の呼吸が変わる。


 浅く速かったものが、ゆっくり深くなっていく。汗が引いて、指の震えが止まる。頬に血の色が戻ってくる。


「……ハースさま」


「はい」


「……のどが、渇きました。お水、いただけますか?」


 わたしは水を注ぐ。手が滑って、半分こぼした。


 三日、指に力を入れつづけていたのだと、こぼしてから気づく。指の腹が白くなっていて、握った形のまま戻らない。


「あ。すみません、こぼしました」


「いいえ。……いま、こぼれる音がしましたね?」


「はい。派手にやりました」


「この部屋に、なかった音です」


 この部屋にある音は、時計と、呼吸と、匙が皿に当たる音だけである。こぼれた水は、そのどれでもなかった。


       ◇


「……起きてみます」


「今日でなくとも、よろしいのですよ。急ぐことはありません」


「いいえ。今日がいいんです。今日じゃないと、たぶんもう」


 娘は肘をついて、体を起こす。足を床へ下ろした。爪先が石に触れて、一度びくりと引っ込む。


「わ。……冷たい」


「はい」


「石って、こんなに冷たいものでしたっけ?」


 娘は足の裏を、二度ほど床にこすりつけた。


「十年ぶんの冷たさかと」


「……ハースさま。あなた、意外と意地悪でいらっしゃいますね」


「よく言われます」


 わたしは寝台の反対側へまわる。


「……女中を呼びますか?」


「呼びません」


 娘は自分で言った。


 わたしは腕を出さない。出したくなる手を、前掛けの隠しに入れておく。


 この方は寝たきりだったのではない。十年、部屋の中は歩いてはいる。ただし必ず、誰かの腕を借りていた。


 支えなしで立つのが、十年ぶりなのである。


 腿の肉は落ちている。落ちた肉は薬では戻らない。歩いてしか戻らないものを、この人は十年、歩かずにきた。


 一歩。二歩。三歩目で膝が笑って、寝台の柱をつかむ。


「まだ、三歩」


「あと四歩です。いけますよ、ネーヴェさま」


 娘の目が、こちらを向く。


「……いま。名前で」


「はい」


「もう一度、呼んでくださいますか?」


「ネーヴェさま」


 四歩。五歩。六歩。


 七歩目で、窓に手が届いた。


 留め金は固い。二人で押して、それでも動かなくて、三度目で外の空気が入ってくる。


 草の匂いがした。十年、手の入っていない庭の匂いである。


 伸びきった下草と、雨のあとの土と、どこかで咲いている白い花。窓の桟に朝の光が乗って、娘の指の影が長く伸びる。


 この匂いは、庭からずっとここにあった。帳の内側に届かなかっただけである。


 十年、この人の世界には匂いがなかった。汗と薬のほかには、何も。


「……外って。外って、こんな匂いがするんですね」


 わたしは何も言えない。


 言葉を探しているうちに、目の奥が熱くなって、それを気取られたくなくて窓の桟を拭いた。


「ハースさま。あなた、泣いておられますか?」


「埃です」


「そういうことにしておきますね」


「そうしていただけると助かります」


 娘は窓の外へ手を伸ばして、何もつかまずに引っ込める。つかむものがないことが、うれしいらしい。


       ◇


 その朝の脈は、ゆうべの脈より遅い。


 朝がいちばん速い人だった。十年、ずっとそうだった人である。わたしは薬帖にそれを書いて、書いた頁をクーレ先生の前に置く。


「あの。お目通し、いただけますか?」


「これは?」


「わたしの所見です。診立てではありません。薬師にその権限はありませんから、あくまで、所見です」


 クーレ先生は頁を上から下まで読む。読み終えても、しばらく紙から目を上げない。


「ハース薬師」


「はい」


「わたしは、診たものしか信じません」


 やはりそう来るのか、と思う。


「……あなたの所見は、診たものです」


 わたしは頁を受け取る。指が、少し震えた。


 十年、わたしの所見を所見として扱った人は、この人が初めてである。


 薬師は量る者であって、診る者ではない。そう教わってきたし、そう思ってもきた。量りつづけていれば、誰かの役に立てるのだと。


「クーレ先生」


「はい」


「わたしの所見は……明日も、所見でしょうか?」


「明日も診れば、明日も所見です」


 それだけの答えが、なぜかうまく飲み込めない。


 役に立つから置いてもらえるのだと、わたしはずっと思ってきた。この人の言い方は、それとは違う形をしている。違う形すぎて、置きどころが分からない。


 窓の下で、庭の草が風に鳴っている。帳を開けたままにしておこうと思う。


       ◇


 午後、ラーゲ先生が来た。


 白髪を後ろへ撫でつけている。銀の鎖のついた眼鏡を外して、それから寝台のほうは見ずに、わたしを見る。


「これはこれは、お嬢さん」


「ハースと申します」


「お嬢さん。処方を、元に戻しますよ」


「〈代診〉の三点は満たしております」


「満たしておいででしょうな。ですが、わたしは主治医です」


 紙が一通、卓に置かれる。理由書だという。


「取り消しにも、三点が要りますが」


「存じておりますとも」


 ラーゲ先生は寝台のほうへ、初めて体を向けた。


「クーレさま。主治医として、処方を元へ戻すことを求めます。これがその告知です」


 娘は答えない。答えないことが答えのように見えたが、この老医師は待たない。


「求め、告知、猶予。七日を置きます」


 眼鏡をかけ直して、こちらを見る。


「二十四日から、元の十滴に戻ります。それまではまあ、お好きになさい」

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