4. 三日
五月十三日。八日目の朝から、一回を八滴にする。
十滴から二滴だけ減らす。それだけのことである。
一日目は、何も起きなかった。
二日目の昼から、指が震えはじめる。汗が出て、光をつらがって顔を背ける。夜になると眠れない。眠れないから体が乾いて、乾くから脈が速くなる。
〈戻り〉である。
薬をやめると、体はいったん悪くなる。悪くなるのは治りかけの顔をしていて、そこを見分けられない者は必ず薬へ戻る。十年、この家がそうしてきたように。
だから三日を越えねばならない。越えた先にしか、四日目の朝はない。
三日目の夕、ダニエルさまが来た。
「戻してくれ。頼む、ノエラ」
「戻しません」
「見ろよ。あの子は苦しんでる」
「ええ。苦しんでおられます」
「なら――」
わたしは瓶を持ち上げて、また置く。硝子が卓に当たって、短く鳴る。
「戻せば、四半刻で止まります。それは、そのとおりです」
言ってしまってから、言わなければよかったと思う。この方の顔が、明るくなったからだ。
「だったら戻してくれ、いますぐ!」
わたしは首を振る。
「そして、また十年。同じことが続きます」
ダニエルさまは寝台の前へ来ようとして、わたしの立っている場所で止まる。
「……なあ。なんで君が、そこに立ってるんだ?」
「わたしが量ったからです」
「量ったのは君でも、苦しんでるのはあの子だろう。君じゃない」
「……はい」
「君は、何も失わない。そうだろう?」
その言葉は、たぶん本気ではなかった。本気ではない言葉のほうが、深いところに入る。
この方はいつも、悪意なしにいちばん痛いところへ触れる。触れたことにも気づかない。
「ダニエルさま」
「……なんだ」
「わたしはもう、指輪をしておりません。お気づきになりませんでしたか?」
ダニエルさまは、わたしの左手を見た。
それから、何か言おうとして、言えないまま部屋を出ていく。廊下の床板が、遠ざかりながら三度鳴る。
◇
三日目の夜半、脈が乱れる。
わたしは指を当て直す。速い。だが深いのか浅いのか、分からない。
〈戻り〉の脈は速くて深い。本物の発作は速くて浅い。そう覚えてきたのに、三日目の夜はその差が消える。眠っていない体は、どちらの顔もするのだ。
「クーレ先生」
扉のところに、三日ずっと座っている人がいる。
「代わっていただけますか。わたしの指、冷えてしまって……分からないんです」
クーレ先生は立ち上がり、寝台の脇に膝をつく。妹の手首に触れた。
「〈監察〉は、近親を扱えません」
「……はい」
「ですが。診ることは、禁じられていない」
「はい」
クーレ先生の指が、妹の手首の内側を探す。探し当てるまでに、ずいぶんかかっている。
「十年です。十年、わたしはこの手首に触れませんでした」
組んでいた指が、そこでほどける。
しばらく、誰も口をきかない。時計だけが鳴っている。
「……分かりません。わたしには、分からない」
診たものしか信じない人が、診ても分からないと言った。
「先生」
「はい」
「四日目の朝に引くと、書物にはあります」
「書物には、そうあります」
「……先生は、信じておられますか?」
クーレ先生は、妹の顔を見る。
「わたしは、診たものしか信じません」
それは「信じていない」という意味ではなかった。この人は、まだ診ていないだけなのだ。
娘の喉が鳴る。わたしは水を替えて、布を絞って、額に当てる。
三日、この繰り返しである。脈を数えて、水を替える。薬師にできるのは、それだけだった。
何もしない、という仕事が、これほど重いとは思っていない。
窓の外が薄く白んでくる。三日目の夜がいちばん重いと書物にはある。書物は、この部屋の匂いも、この人の指の震え方も知らない。
明け方近く、娘の目が一度だけ開いた。
「……ハースさま」
「はい」
「わたし、いま、ずいぶんひどい顔をしておりますでしょう?」
「ええ。ひどい顔です」
娘の口の端が、わずかに動く。
「……そこは、お世辞くらい言ってくださってもいいのに」
「わたしは薬師ですので」
娘は笑おうとして、うまくいかずに咳になった。それでも、笑おうとしたのである。
それきり、また眠りに落ちる。うわごとは、名前を呼んでいるようにも、謝っているようにも聞こえた。聞き取れたのは一度だけで、それは「ごめんなさい」である。
誰に謝っているのかは、訊かないでおく。訊けば答えが返ってきてしまう。
夜の底で、時計が四つ鳴った。あと二刻で朝になる。書物の言う四日目の朝まで、あと二刻である。
替えて、戻って、また脈を数えて――それから、棚の瓶に手を伸ばしていた。
自分の見立てを、疑ったのである。
十滴に戻せば、四半刻で止まる。この人は眠れる。兄も眠れる。誰も苦しまない夜になる。
わたしが十年、いい顔をしてきたのと同じ夜が、また一つ増えるだけである。
瓶は冷たい。硝子の肌に、わたしの指の形が白く残る。
わたしは、栓に指をかけた。




