3. 処方すべきもの、四つ
「治りたいですか?」
そう訊けば、答えは出ない。訊き方が違うのだ。
わたしは寝台の脇に紙と炭を置く。それから帳を半分だけ開けた。光の角度が、十年ぶりに動く。娘は眩しそうに目を細めて、けれど顔は背けなかった。
「クーレさま。今日、ご自分の脈を三度、数えていただけますか?」
「脈を? わたしがですか?」
「ええ、あなたが。いまと、夕の薬の前と、夜。数えたら、この紙へ書き留めておく。それだけです」
娘は紙を見て、それから炭を見る。
「……数えて、どうなるのですか。わたしが数えたって、何も」
「分かります」
「何がですか?」
わたしは炭を紙の上に置く。
「あなたの発作が来る時刻です」
娘は黙る。
それから細い指を、自分の手首に当てた。当て方が分からないらしく、あちこち探している。爪の伸びた指先が、自分の皮膚の上をさまよっていた。
「そこではありません。もう少し、親指の側です」
「……ここ、ですか?」
「そこです」
「……あ。トクトクいってます……。速い……速いように思います。これ」
娘の目が、自分の手首から動かない。
「いま、何時ごろでしょうか?」
「朝の……薬の、前」
わたしはうなずく。それ以上は言わないでおく。
「……薬の、前。あ」
娘が同じ言葉を、もう一度繰り返した。
「そうです」
娘の指が、手首から離れない。
自分の体の音を、この人は十年、誰にも教えてもらっていなかったのだと思う。
速い、と自分で言った。誰かに言われたのではなく。
この一言のために、わたしは今日ここへ来たのだと思う。
教える必要がなかったからだろう。この部屋では、体の主は本人ではない。
◇
昼、薬院にダニエルさまが来る。
調剤棟の前で待っていて、わたしを見ると眉の端を下げた。栗色の髪に六月前の陽が当たって、絵のように見える。この方はいつでも絵のように見える。
「ノエラ。あのな、披露のことなんだが」
「はい」
「秋にしないか。ネーヴェの容体が落ち着いてからのほうが、君だって心置きなく――」
「いいえ」
自分の声だとは思わなかった。
「……え。いま、なんて?」
「いいえ、と申しました」
ダニエルさまが黙る。この方が黙るのを、わたしは初めて見る。
「ノエラ、待ってくれ。僕は君を困らせたいわけじゃないんだ。ただ、その、君は強いから、分かってくれると思って」
「……わたしは、強いのではありません」
そこまで言って、続きが出てこない。
続きを、持っていなかったのだ。
強くない、と言ってしまえば、この方は困る。困らせないことを、わたしは五年、仕事のようにしてきた。
「ノエラ? おい、ノエラ」
「……失礼します。調合が、残っておりますので」
背中を向けてから、指がひどく冷たいことに気づく。
「せんぱーい」
「……はい」
「いま、すっごい顔してましたよ。廊下の端まで見えました」
「でしょうね」
「今日は眉じゃなくて、口のとこでしたね」
シビラは乳鉢を差し出してくる。挽き残しの粉が、底に少し溜まっていた。
「はい、これ。挽いてください、力いっぱい」
「……ありがとう」
◇
夜、クーレ邸へ戻る。
寝台の脇の紙に、三つの数が並んでいた。字は震えているが、数字は読める。
「朝が、いちばん速うございました」
「はい」
「夕の、薬の前が、その次で」
「はい」
「夜がいちばん遅いんです。だって夜は、薬を飲んで四半刻あとでしたから」
わたしは黙っている。ここから先は、この人が言うべきことである。
娘は紙を見たまま、しばらく動かない。指が二度、数字の上をたどった。
「……速いのは、薬が切れたとき、ですね」
「はい」
「じゃあ、わたしの発作は」
そこで、声が止まる。
「わたしの発作は、病ではなくて。薬が、切れているだけ。そういうこと、なのですね」
「そうです」
「十年……十年、ずっと?」
「十年です」
娘は紙を折る。折って、また開いた。
「ハースさま。紙を、もう一枚いただけますか?」
「何をお書きになりますか?」
「……自分で、決めたことを。一度くらい、いいでしょう?」
◇
夜、自分の部屋で薬帖を開く。
十一冊ある。四九二年から今年まで、年ごとに綴じてきた。背を上にして並べると、十一年ぶんの厚みは、思ったより低い。
患者の欄はどれも埋まっている。
自分の欄だけが、白い。
新しい頁に、わたしは書いた。
――ダニエル・ハーデン 二十五歳 処方すべきもの 四つ
一つ、あの子は病気だから。
二つ、君は強いから。
三つ、家が決めたことだから。
四つ、僕は十年、彼女を守ってきた。
どれも「だから」で終わる。この方の文はいつもそうだ。
だから、で終わる文は、そこから先へ進まなくていい。理由がついているうちは、誰も動かなくていいのである。
十年、この家の誰も動かなかった。理由が、いつも先に立っていたからだ。
炭を置いて、指を見る。爪の根元に、白い半月がある。わたしにはある。
この差が、十年ぶんの差である。書いてしまえば一行にもならないし、誰も読みはしない。それでもわたしは、十一冊ぶん書いている。
◇
夜半、クーレ邸から使いが来た。
わたしが渡した二枚目の紙である。震える字で、たった二行。
――わたくしネーヴェ・クーレは、薬を減らすことを求めます。
十年ぶりに自分で持った筆なのだろう。線が二度、途切れている。
途切れたところで、この人は手を休めたのだと思う。休んで、それから、また書いた。
求めというのは、頼むことではない。自分の名で、自分の体のことを決めると言うことである。
この二行を書くのに、十年かかったことになる。
わたしはその夜のうちに薬院へ戻り、当直の使いに通知を託す。五月五日。半券にラーゲ先生の署名をもらい、番号を薬帖へ書き写しておく。
本人の求め。主治医への通知。七日の猶予。
三つ、そろう。
その足で病室へ寄る。帳の隙間から、夜明け前の青い光が入っていた。
娘は起きている。わたしを見ると、少しだけ体を起こそうとして、やめる。
「ハースさま」
「はい」
「わたし、字を書いたのなんて十年ぶりです」
「存じております」
「手が、こんなに震えて。みっともない字になりました」
わたしは寝台の脇に膝をつく。
「震えたまま書いてくださって、よかったと思います」
「なぜですか? こんな字なのに」
「震えていない字は、誰にでも書けますから」
娘はしばらく黙っている。それから、天井に向かって細く息を吐いた。
帳の隙間の青が、少しずつ白へ変わっていく。夜明けは、この部屋にも来るのだと思う。
「……ハースさま。わたし、治るのが、こわいです」




