2. 診たものしか信じない
「先輩、監察室って入ったことあります?」
「ありません」
「わたしもないです。あそこ、呼ばれたら終わりって言われてますよ」
「呼ばれたのではありません。押しかけるのです」
「……えっ。そっちのほうがこわいんですけど」
◇
王立薬院の監察室は、紙と鉄の匂いがする。
高い窓から入る光が机の角を白く切っていて、その向こうにクーレ先生が座っていた。背が高く、痩せている。白衣の左袖だけが肘まで捲れていて、そこから出た腕が、紙の束の端を押さえている。
指を組んでいる。組んだまま、動かさない。
「ハース薬師。昨日の所見を、もう一度」
「……てっきり、止めに来られたのかと思っておりました」
「確かめに来ました。おかけなさい」
わたしは三つ並べる。爪の半月が消えていること。朝の脈がいちばん速いこと。夕がいちばん食べられること。
「一つ目は、血の薄い者にも出ます。銀月草でなくとも」
「……はい」
「二つ目も。不安の強い者には、よく出る」
「はい。それも、存じております」
この人は、わたしの所見を一つずつ潰しにかかっている。潰せるものは潰し、潰せないものを残すつもりなのだろう。医者のやり方である。
「三つ目は」
そこで、声が止まった。
「……三つ目は。あれは、わたしも気づいていました」
「いつからです?」
「五年ほど、前から」
「五年。五年も気づいておられて、それで?」
「……はい」
わたしは机に手をついた。声が大きくならないように、指へ力を移す。
「なぜ、お調べにならなかったのですか?」
クーレ先生は答えない。机の木目を見ている。指の関節が白い。
高窓の光が机の角から少しずれて、紙の束の縁を照らしはじめた。それだけの時間、この人は黙っていたことになる。
それから、こう言った。
「わたしは、診たものしか信じません」
立派な言葉だと思う。
立派な言葉は、たいてい何かの蓋になっている。
「でしたら、診てください。あの方は、あなたの妹御でしょう?」
「扱えません」
「なぜです。妹御なのに?」
「〈監察〉は、近親の件を扱えない。〈受理〉も、処方者への照会も」
規則の名を言うとき、この人の声はわずかに硬くなる。硬くしないと言えないのだろう。
「……規則の内側では、何もできない。そうおっしゃりたいのですね」
「そうです」
「では、その規則の内側で。わたしに何ができるのか、教えていただけますか?」
クーレ先生の指が、一度だけ動いた。
立ち上がって棚から冊子を抜き、頁を開いてこちらへ滑らせる。紙は薄く、指で押さえると下の頁の文字が透ける。
「主治医のいる患者の処方を、他の薬師が変える。それには三つ要ります」
「三つ、ですか?」
「本人の求め。主治医への通知。七日の猶予」
わたしはその頁を上から下まで読む。〈代診〉とある。
「その通知は、どのようにいたせば?」
「薬院の使いが届けます。受け取った者が半券に署名して、半券は薬院に残る」
「署名は、ラーゲ先生ご本人でなくともよいのですか?」
「受け取った者であれば、誰でも。ただし、その名は半券に残ります」
残る、という言い方を、この人は二度した。
残らないものは信じない人なのだと思う。だから十年、自分の記憶も信じなかったのだろう。
「猶予は、いつから数えるのでしょう?」
「通知の翌日から七日を置いて、八日目に効きます」
わたしは指を折る。五日に出せば、十三日の朝からになる。
七日。長いのか短いのか、この時点のわたしには分からない。
紙の上を、光の縁がゆっくり移っていく。
「取り消しにも、三点が要ります」
「取り消しにも、ですか?」
クーレ先生は、そこで初めて紙から目を上げた。
「主治医の求め。患者への告知。七日の猶予。――主治医が一日で戻せる規則なら、〈代診〉は制度として意味をなさない」
「……壁は、両側に立っているのですね」
「そうです。あなたを止める壁でもある」
この人は、規則を盾にする言い方と、規則を渡す言い方を、同じ声でする。
十年、この声で自分に言い聞かせてきたのだろうと思う。読んでも動かせない、と。
わたしは指を折って数えた。三つのうち二つは、わたしにも用意できる。
残りの一つが、動かない。
「本人の求め……ですよね。うーん……」
「そうです」
クーレ先生が、初めてこちらを見る。目の下が黒い。この人も眠っていないのだと、そこで気づく。
「求めを書くのは、あなたではありません」
「……はい」
「わたしの妹です。……分かりますね」
わたしは冊子を閉じて、立ち上がった。
「クーレ先生。その求めは、わたしが取ってまいります」
「取れますか? あの子から」
「取るのではありません。あの方が、ご自分で書きたくなる形にします」
クーレ先生は何も言わない。ただ、扉のところまで送ってきて、把手に手をかけたところで口を開く。
「ハース薬師」
「はい」
「……妹に、無理をさせないでいただきたい」
わたしは振り向く。
「無理をさせずに、十年が過ぎたのだと思います」
把手の音がする。それきり、この人は何も言わない。
廊下へ出てから、わたしは自分の指を見た。爪の根元に、白い半月がある。健やかな者にはあるものが、あの部屋の娘にはない。
それだけの違いを、わたしは昨日まで見に行かなかった。
――ですが、と歩きながら思う。
求めを書くのは、あの方である。
そして、あの方が書けない理由を、わたしはもう知っている。知っていて、まだ誰にも言っていない。
治ったと言ったら、あの方は、もう来てくださらないでしょう。
書きたくなる形にします、と、わたしはたったいま言ってしまった。
その形を、わたしはまだ一つも持っていない。




