1. あの子は病気だから
書き置きは、天秤の横に置いてある。
――すまない。ネーヴェが発作を起こした。
三度目である。わたしは紙を二つに折り、それからもう一度折って、前掛けの隠しへ入れる。
朝の調剤棟は、一日でいちばん白い。北の窓から入る光には熱がなくて、乾いた薬草の棚を上から順に照らしていく。酢の匂いが夜のあいだに薄まって、乳鉢の底に昨日の粉が少し残っている。
わたしはその粉を布で拭き取る。指の腹にできた胼胝が乳棒に当たって、少しだけ引っかかる。
怒りは湧いてこない。
怒れる人というのは、怒っても置いてもらえる人のことだ。わたしは十四のときからここにいて、そのことだけは覚えた。
「せんぱーい。それ、顔に出てますよ」
乳鉢を洗っていたシビラが、こちらを見ずに言う。前掛けの紐が、今日も片方ほどけている。
「……出ていません」
「出てますって。眉のとこ、ぎゅってなってます。婚約披露、今日でしたよね?」
「延びただけです。よくあることでしょうに」
「よくある、で三回目ですけど?」
「……数えないで。お願いですから」
シビラは肩をすくめて、それきり黙る。この子の軽口はいつも、こちらが黙るところでちょうど止まる。止まったあとで、洗い桶の水を余分に流してくれる。
わたしは棚から往診鞄を下ろした。
中の匙を数える。紙を数える。天秤の皿を布で拭いて、分銅を重い順に並べ直す。並べ直す必要などないのに、指が勝手に動く。
行くのだ、と思う。
怒る代わりに。
「え、どちらへ?」
「往診です」
「往診って、どなたのですか?」
「クーレ子爵家の、ご息女の」
シビラの手が止まる。乳棒が鉢の縁に当たって、小さく鳴った。
「……それって、先輩の婚約者さまの」
「ええ。幼馴染の方です」
「知ってて行くんですか? 先輩、それ、けっこう……」
「薬師ですので」
◇
クーレ子爵邸の病室は、扉を開けた瞬間に匂いで分かる。
閉め切った匂いだ。汗と、甘い薬と、埃。そこへ火の消えた炭のにおいが薄く混じっている。窓は二重の帳で塞がれていて、光は帳の合わせ目から細く入り、床の同じ場所に同じ形で落ちていた。
十年、この部屋の光は動いていないのだろうと思う。
「ノエラ」
寝台の脇の椅子から、ダニエルさまが立ち上がる。仕立てのいい外套を着たままでいる。この方は病室で外套を脱がない。脱ぐと長居になるから、といつか言っていた。
「あ……来てくれたのか。すまない、今日はその、どうしても――」
「存じております。ですから、往診に参りました」
「往診? いや、往診って」
「薬師ですので」
ダニエルさまは目を丸くして、それから困った顔になる。この方は、困ると必ず眉の端を下げる。栗色の髪が額に落ちて、そこだけ少年のように見える。
五年、その顔を見てきた。
「刺激しないでやってくれないか。頼む。発作のあとはな、静かにしているのがいちばんなんだ」
「それは、どなたがおっしゃったことですか?」
「……ラーゲ先生が、そう」
「そのラーゲ先生は、次はいついらっしゃるのです?」
答えは返らない。
わたしは扉を開けて、廊下を手のひらで示す。ダニエルさまは押しのけてこない。というより、押しのけ方を知らない人である。素直に出ていき、敷居のところで一度だけ振り返る。
「あの子は病気だから」
――そうですね、とわたしは言わない。
扉を閉める。錠の落ちる音が、思ったより大きく響いた。
◇
寝台の娘が、こちらを見ている。
黒い髪が腰まである。十年切っていないのだろう。女中が三つ編みにしたものが、枕の上で半分ほどけていた。顔は白いというより、色というものを抜かれたような白さをしている。
「……あ。あなた」
声が細い。息が続かないので、言葉が短く切れる。
「あなた、瓶を持ってきてくださった方……でしょう?」
指先が冷えるのが分かった。
「……覚えて、おいでですか?」
「髪の色が。同じだから。すぐ、分かりました」
ネーヴェ・クーレさま、二十二歳。
十年前、わたしが見習いだったころ、半月に一度この家へ薬の瓶を届けていた。門を入って、裏の勝手口で女中に渡して、それだけで帰る役目である。二度ほど、二階へ上げてもらったことがある。
届け役を外れたのは八年前になる。
「診てもよろしいですか?」
「どうぞ。……珍しい。もう誰も、触りませんもの」
手首を取る。
脈が速い。指の下で、細い糸が急いで走っているような打ち方をしている。
朝のいちばん速い脈である。
爪を見た。根元にあるはずの白い半月が、どちらの手にもない。指を返して腕を見ると、骨に皮が張りついていて、袖の中で腕が泳いでいる。掛布の上から腿に触れると、そこにもほとんど肉がなかった。
「朝は、お食事は?」
「今朝は、けっこうですって申しました。夕は……少しだけ」
「夕がいちばん、食べられるのですね」
娘の目が、少しだけ大きくなる。
「はい。……なぜ分かるのですか?」
「薬師ですので」
「さっきから、それしかおっしゃらないんですね」
この方は、笑うと少しだけ顔色がよくなる。
「ひとつ、伺ってもよろしいですか?」
「はい。……なんでしょう?」
「治ったら、何をなさりたいですか?」
娘はしばらく考えて、それから窓のほうを見た。帳の向こうに、庭があるはずの方角である。
「……靴を、汚したい、です」
「靴を、ですか?」
「ええ。一度でいいから。外を歩いて、靴の裏に土をつけて、まあ汚い、って叱られたい。……子どものころ、叱られたので」
叱ってくれる人が、そのころはいたのだと思う。
寝台の脇の卓に、瓶があった。
栓を抜くと、杏の種を割ったときの匂いがのぼる。うすい薄荷が後ろに混じっていて、瓶を傾けると、底で銀色の沈みがゆっくり動く。
銀月草の鎮静水である。
貼り紙を読む。
――朝夕 各十滴。処方 ユルゲン・ラーゲ。王暦四九二年四月。
十年前の日付だ。
薬瓶の貼り紙は、詰め替えるたびに前の紙から書き写す。書き写されるのは、そのときの量と、いちばん最初の日付だけである。いつ変わったのか、何度変わったのかは、どこにも残らない。
量は動いている。日付は一度も動いていない。
わたしは瓶を置いて、娘の顔を見た。
「クーレさま。ひとつ、申し上げてよろしいですか?」
「どうぞ。どうせ、いいお話ではないのでしょう?」
「この方を弱らせているのは、病ではありません。この薬です」
娘は、何も言わない。驚いた顔もしない。ただ、掛布の縁を指でつまんで、そこを見ている。
「……ああ。やっぱり、そうなんですね」
「思い当たることが?」
「去年の冬に、瓶が届かない日が続いて。三日、飲まなかったんです。そうしたら三日目に、いちど、ふっと楽になって」
「三日目に、ですか?」
「はい。……でも、そのあと届いたので。飲みました」
わたしは往診鞄の底から、古い冊子を出した。見習いの年に自分で綴じたもので、捨てられないまま鞄に入れっぱなしになっている。表紙の角が丸くなって、糸が二本ほど飛んでいる。
四九二年の頁。十四のわたしの字。
――朝 三滴。
同じ家の、同じ薬。十年前の量である。
「クーレさま」
「はい」
「この薬を、十年」
「……はい。十年です」
「一度も、減らそうと思われませんでしたか?」
娘は天井を見る。
しばらく、そのまま動かない。まつげが一度だけ震えて、それから、笑った。
「……治ったと言ったら、あの方は、もう来てくださらないでしょう?」
部屋の空気が、そこで止まる。
――ああ、とわたしは思った。
この人は嘘をついていない。十年、一度も。この人はただ、捨てられなかっただけだ。捨てれば、来てもらえなくなるから。
そしてわたしは、この人を憎めると思って来たのだった。
左手の指輪を外す。
外した指の輪の跡は、五年ぶんの日焼けの境目になっていて、思ったより白い。わたしはそれを、薬瓶の横に置いた。
「では、治しましょう」
「……え?」
「この薬を抜きます。二十週。百四十日です」
「に、二十週って……そんな、待ってください、あなたは」
「あの方が、わたしたち二人を不幸にするための口実ごと」
背中で、扉が動く。
「――いま。いま、なんと言いました?」
白衣の男が立っている。
十年、この家の薬に一度も触れなかった兄が。




