第9話: 教えただけです
母の泣き声には、値段がある。泣き終わると、金額が出てくる。
四月。勾留が二週間を超えていた。留置場にはスマホがない。毎朝七時に右手の親指が動く。おはようを打とうとする。何もない手のひらを見て、三日目に気づいた。四日目にやめた。
毎朝六時に起床の合図がある。布団をたたんで、洗顔して、七時に朝食が来る。朝食を食べ終わると、何もない時間が始まる。
面会です、と看守に言われた。弁護士ではなかった。
接見室に入った。パイプ椅子が手前と向こうに一脚ずつ置いてある。アクリル板で仕切られている。板には細い傷がついていた。爪の跡だった。
向こうの椅子に、母が座っていた。泣いていた。髪が白くなっている。電話はかかってくる。月に一度か二度。引き落としが足りないと泣く。体が痛いと泣く。お母さんだって苦しいのよ、と泣く。全部、金の話だ。
「美月。大丈夫なの。ご飯は食べてるの」
「食べてる」
母はハンカチで目を押さえた。安っぽいビニールのバッグを膝に抱えている。持ち手を握ったり離したりしている。美月は黙って待った。泣き終わると用件が来る。この人はいつもそうだ。
「あのね。お母さん、弁護士の先生に聞いたの」
「うん」
「示談金というのはね、被害者のご本人からいただけるものなんでしょう?」
来た。
「娘がお世話になって……田淵さん、という方にね。お電話したの」
美月の指が、膝の上で止まった。
(あの人、田淵さんのところに電話したんだ)
「あの方ね、とても優しくて。ちゃんとお電話に出てくださって——」
「やめて」
母が目を見開いた。泣き腫らした目がアクリル板越しにこちらを見ている。
「あの人に電話しないで。もう絶対に連絡しないで」
「でも美月、示談になれば——」
「いいから」
美月は椅子の背に手を置いた。留置場の服の袖が余っている。
(はいはい、が出てこない。電話なら言える。いつもの声で言える。目の前にいると出てこない)
「お母さん。帰って」
母はまだ何か言おうとしていた。口を開いて、閉じて、また開いた。
「お母さんだって、心配で——」
「分かった。分かったから」
アクリル板の傷が目に入った。爪でつけたような細い線。ここに座った人たちも、こうやって誰かの話を聞いていたのだろう。
「美月。ちゃんと食べるのよ」
椅子が引かれた。足音が遠ざかった。扉が閉まって、接見室が静かになった。
看守に連れられて房に戻った。布団の上に座って、壁を見た。
(田淵さんは電話に出た。出てくれたんだ。たぶん、三秒で)
昼食が来た。白飯と魚の煮付けと漬物。プラスチックの器を膝の上に置いて、箸で食べた。コンビニの廃棄弁当のほうがおいしかった。タケルが棚の奥から出してくる鮭弁当。消費期限が二時間過ぎたやつ。あれが食べたかった。
(ファミチキも食べたい)
食べ終わって器を返した。洗面台で手を洗った。ステンレスの鏡に自分の顔が映っている。頬が少しこけていた。
午後は何もなかった。布団に座って壁を見ていた。隣の房から鼻をすする音が聞こえた。やることがないと、考えなくていいことまで考える。
(あの人は、母に何て答えたんだろう)
取調室。机がひとつ、椅子がふたつ。窓がない。灰色の壁と蛍光灯。時計のない部屋。逮捕されてからもう何度ここに座ったか分からなくなっていた。
久我が向かいの席についた。背筋がまっすぐだった。ファイルを机の中央に置いて開いた。
「篠原さん。有村玲奈という名前に、覚えがありますか」
(有村玲奈。レイナさん、そういう名前だったんだ)
「あります」
「昨日、詐欺幇助の疑いで逮捕されました。あなたに販売したマニュアルの作成者として」
久我がファイルから紙を一枚取り出して、美月のほうに向けた。名前と年齢が印刷されていた。有村玲奈。二十八歳。住所不定。
(本名、知らなかった。あたしたち、偽名で二年付き合ってた)
「購入者は確認できた範囲で十四人。篠原さんもその一人です」
「はい」
「有村とは、どういう関係でしたか」
「蓮に紹介されました。売掛が返せなくて、方法があるからって。マニュアルを三万円で買って、使い方はDMで教えてもらいました」
「直接会ったことは」
「二回です。新宿のカフェで」
久我がペンを動かした。紙の上で、ペン先が正確に動いている。
「篠原さん」
「はい」
「有村にそそのかされた、と主張すれば、情状に影響する可能性があります」
久我の声は平らだった。短い文。丁寧語。選択肢を一つずつ並べている。いつもの久我だった。何を言っても表情を変えない。聞いた言葉をそのまま紙に書く。
「マニュアルに依存していた。有村の指示のもとで動いていた。そう主張すれば、量刑が変わります。弁護人にも相談してみてください」
蛍光灯がかすかに鳴っていた。美月は久我の目を見た。
「教えただけです」
久我の手が止まった。
「あの人は、教えただけです。マニュアルを作って、売って、使い方を教えてくれた」
美月は背筋を伸ばしたまま言った。
「押したのは、あたしです」
(使ったのはあたしだ。ノートの八十七ページを書いたのも、毎朝おはようを打ったのも)
久我は黙った。美月の顔を見ていた。それからペンを取って、調書に書き始めた。ペンの音しかしなかった。
「もう一点。あかりさんのことですが」
「あの子は悪くないです」
美月は姿勢を変えなかった。
「怖かったんだと思います。あたしだったら、通報なんかできなかった」
久我がうなずいた。調書の上でペンが動いた。蛍光灯の音だけが取調室に残った。
看守に連れられて廊下を歩いた。レイナさんも、どこかの取調室にいるのだろうか。壁の向こうに。知らない名前で。
何日か過ぎた。曜日は弁護士が来るときに教えてくれる。国選の弁護士は若い女の人で、ノートにたくさんメモを取った。美月のノートとは違う。あのノートはもう証拠として押収されている。おぢノートの八十七ページ。田淵さんの好きな話題、返信の速度、振込のタイミング。全部、紙の上に書いてあった。今はどこかの段ボール箱の中だ。
面会です、と看守に言われた。
「弁護士さんですか」
「いえ。二十代の男性の方です」
接見室のアクリル板の向こうに、タケルが座った。
コンビニの制服ではなかった。白いトレーナーにジーンズ。髪を洗ってある。夜勤明けの顔しか知らないから、昼間のタケルは少し違って見えた。目の下のくまがない。肌が白い。コンビニの蛍光灯の下だと分からなかった。
「あたしのこと、ニュースで見たでしょ」
「見た」
タケルは笑わなかった。コンビニでは何を言っても笑う。廃棄弁当を渡すときも、まめの話をするときも、美月がシフトに遅れてきたときも。今日は一度も笑わない。目がまっすぐだった。
「で、まめは誰が見てんの」
美月の口が止まった。
「……あんた、それ聞きに来たの」
「だって誰もいないだろ。お前んち」
(なんでとか聞かないんだ。こいつ)
「来る途中で受付の人に聞いた。お前の部屋のハムスター、五十代の男の人が引き取ったって」
「え」
「刑事さんに頼まれて確認しに行って、餌を持って帰って、そのまま連れて帰ったらしい」
「……田淵さんが」
「田淵って人かは知らない。おっさんだって」
美月は膝の上の手を見た。爪が短くなっていた。留置場では週に一度、看守の前で爪を切る。
(まめ。ご飯もらえてるんだ)
「あいつ、夜中にずっと回し車回すから。うるさいかも」
「知らねーよ。会ったことないし」
「鮭の皮が好きなんだよ。あげると手に乗ってくる」
「知らねーって」
「もし何かあったら伝えて」
「俺がそのおっさんに? 知らない人に?」
「うん」
「無理だろ普通に」
美月はアクリル板越しにタケルを見た。タケルも美月を見ていた。コンビニのレジ越しに見るのとは違う。レジの向こうのタケルはいつも少し笑っていた。ここには何もない。アクリル板と、パイプ椅子と、爪の跡だけだ。
「コンビニ、どうなった」
「別のバイトが入った。大学生。遅刻する」
「あたしのほうがましだったでしょ」
「まあな。でもあいつは逮捕されてない」
(こいつ。言うなあ)
「お前、弁護士はついてんの」
「国選の人がいる。若い女の人」
「ちゃんとした人?」
「普通の人」
「そっか」
タケルが椅子の上で姿勢を変えた。トレーナーの袖を引っ張っている。コンビニでPOPを書くときの癖だ。指先で何かを触っていないと落ち着かないらしい。
「差し入れ、何かいる?」
「別にいい」
「鮭弁は持ってこれないぞ。廃棄は店の外に出せない決まりだから」
(こいつ。それで笑わせようとしてる)
笑えなかった。でも口の端が少しだけ動いた。タケルはそれを見た。何も言わなかった。
「じゃ、何もいらない」
「分かった」
タケルが立ち上がった。椅子が引かれる音がした。
「タケル」
「ん」
「ありがと」
タケルはうなずいた。振り返らずに出ていった。白いトレーナーの背中が、扉の向こうに消えた。
蛍光灯は消えない。
その夜、留置場の布団の中で天井を見ていた。隣の房から咳の音がした。壁の向こうから水を飲む音が聞こえた。誰かが小さく泣いていた。
(泣いたって何も出てこない。それはお母さんで分かってる)
寝返りを打った。薄い布団が擦れた。消毒液のにおいがした。このにおいには慣れた。最初の三日は眠れなかったが、今は眠れる。ここでもどこでも眠れる。それだけは得意だった。
(田淵さんがまめを引き取った。五百六十万を振り込んで、被害届を出さないで、まめの面倒まで見てる)
天井の蛍光灯が光っている。まぶたを閉じても光が透けてくる。
(あの人に母が電話した。示談金の話をした。あの人は出た。三秒で)
目を開けた。蛍光灯がまぶしかった。
壁に手をついて、体を起こした。
(このまま黙ってたら、あの人はあたしを庇ったまま裁判になる。やってらんない)
翌朝、食事のあとで看守に声をかけた。
「久我さんに、会いたいんですけど」
取調室。同じ机。同じ椅子。同じ灰色の壁。同じ蛍光灯。
久我が向かいに座った。ファイルを開いた。
「話があるそうですね」
「はい」
美月は背筋を伸ばした。
「田淵さんの分も、全部認めます。騙してました」
久我のペンが止まった。美月を見た。
「田淵さんは、騙されていないと言っています」
「じゃあ、田淵さんが嘘をついてます」
蛍光灯が鳴っていた。久我は美月の目を見ていた。美月は目を逸らさなかった。
(助けてもらわない。それだけは、あたしが決める)
久我がペンを取った。調書に書き始めた。ペン先が紙の上を擦る音が続いた。美月はその音を聞いていた。自分が言った言葉が、紙の上に残っていく。
「署名をお願いします」
ペンを渡された。篠原美月、と書いた。
久我がファイルを閉じた。立ち上がった。扉に手をかけた。
「篠原さん」
「はい」
「田淵さんは、嘘をついていません」
扉が閉まった。取調室に、蛍光灯の音だけが残った。
四月十七日、起訴された。
起訴状の被害者の欄には、吉岡修と早川徹の名前があった。
田淵昭夫の名前は、なかった。




