第8話: いえ、客です
「おぢ」という言葉を、昼休みのテレビで知った。
三月の終わり、川口の工場の食堂で弁当を広げていた。壁掛けの小さなテレビから昼のニュースが流れている。若い者が三人、向かいのテーブルで弁当を食べていた。一番若いのが牛丼の出前を割り箸でつついている。田淵はいつもの窓際の席で弁当の蓋を取った。白飯と鮭とたくあん。三十一年、弁当の中身はほとんど変わっていない。
「マッチングアプリで知り合った男性らから現金をだまし取ったとして、新宿区の二十二歳の女が逮捕されました——」
テロップが画面の下を流れた。恋愛感情を利用して複数の男性に金銭を振り込ませた疑い。容疑者は「マニュアル」と呼ばれる手引きに沿って——
(二十二)
箸が止まった。画面に新宿署の前が映った。報道のカメラが何台か並んでいる。名前は出なかった。顔も出なかった。
「被害にあった男性は、マニュアルの中で『おぢ』と呼ばれ——」
若い者が笑った。弁当の蓋を箸で叩いている。
「田淵さん。おぢだって。ひでえ呼び方っすね」
「そうだな」
鮭を崩して白飯に載せた。口に運んだ。テレビは被害額のテロップを出していた。田淵は数字を見なかった。見なくても分かっていた。
若い者がまだテレビを見ている。
「おぢって何歳くらいの人がなるんすかね」
「知らん」
「田淵さんは大丈夫っすよね。マッチングアプリとか絶対やらないっしょ」
「飯食え。チャイムが鳴るぞ」
若い者が「おお」と弁当に戻った。田淵はたくあんを最後の一切れまで食べて、茶を飲んだ。
午後のチャイムが鳴った。弁当箱を洗い場に運んだ。テレビの電源を落として食堂を出た。廊下で作業着のボタンを留め直して、旋盤の前に戻った。
今朝、六時五十六分に「おはよう」を送った。いつもと同じ時間に、いつもと同じ言葉を打って、送信した。
返信が来なかった。
八か月で初めてだった。駅のホームでスマホを見た。三秒待った。来なかった。十秒待った。来なかった。ホームに電車が入ってきたから、スマホをポケットにしまって乗った。弁当の包みを膝に載せて、車窓の外を見ていた。空が白かった。
ニュースが天気予報に変わった。明日は曇り。
午後の旋盤は、いつもどおり回った。切削油の匂いと、金属が擦れる低い音。刃が回っているあいだ、手は止められない。三十一年、同じことを繰り返してきた手が、今日も同じように動いた。
帰りの電車で、財布を開けた。
二つ折りの、角が擦り切れた財布。カードを入れる透明のポケットの裏に、四つ折りの紙が一枚挟んである。二月の夜に自分で折って入れた。領収書と一緒に挟んだまま、一度も出していない。
開かなかった。窓の外が暗くなっていた。
アパートに帰った。川口の駅から離れた二階の1DK。靴を脱いで、電気をつけて、テレビをつけた。夜のニュースでも同じ映像が流れていた。新宿署の前。カメラ。名前も顔も出なかった。画面の中でキャスターが「頂き女子」という言葉を繰り返していた。
冷蔵庫から缶ビールを一本出して、テーブルの前に座った。飲んだ。スマホを見た。朝のおはようの下に、既読はついていなかった。画面をスクロールした。おはようの列が縦に並んでいる。八か月ぶん、毎朝同じ言葉が並んでいた。最後のおはようだけが、未読のまま止まっていた。
テレビを消した。缶を流しに置いて、歯を磨いて、布団を敷いた。いつもなら寝る前にもう一通送る。「飯は食ったか」。三秒で返信が来る。それを見てから電気を消す。八か月、毎晩同じだった。
今夜は送らなかった。スマホの画面は暗いままだった。電気を消した。天井が見えなくなった。目を閉じた。六時五十六分に送ったおはようが、どこにも届かなかった一日が終わった。
翌朝、六時五十六分。おはようを送った。
七時。返信は来なかった。七時十分。来なかった。
八か月のあいだ、三秒以上待ったことのない画面が、動かなかった。二日目だった。
工場に電話した。
「すみません。今日、有給をもらいます」
「田淵さんが有給? 珍しいですね」
「ええ」
電話を切った。作業着ではなく、チェックのシャツを出した。クローゼットの奥にスーツがあったが、それは要らなかった。靴を履いて、家を出た。
川口から新宿まで、電車で一時間半。深夜にタクシーで走れば四十分で一万三千八百六十円かかる距離を、朝の電車でゆっくり行った。車内は通勤の人でいっぱいだった。吊革を持って立っていた。途中の駅で人が降りて、座れた。膝の上に手を置いた。右手の人差し指の第一関節が少し曲がっている。三十年前の旋盤の事故だ。
新宿駅で降りた。改札を出ると人が多かった。スーツの人間が足早に歩いている。田淵は工場以外の新宿をほとんど知らなかった。駅前の案内板で新宿署の方角を確認した。西口から十分だった。飲食店とアスファルトの匂い。工場の油とは違う匂いだった。
新宿署の受付で名前を言った。通された部屋は小さかった。机がひとつ。椅子がふたつ。壁にカレンダーが貼ってある。窓がなかった。
女の刑事が向かいに座った。名刺を差し出してきた。久我沙織。田淵は受け取って、ポケットにしまった。
「田淵さん。来ていただきました」
「被害届は出しません」
久我は表情を変えなかった。名刺入れを鞄にしまった。
「少しだけ、お話を聞かせてください」
「騙されてません」
「五百六十万円を振り込んでおられます。摘要欄は全件、『オハヨウノオレイ』です」
「俺が勝手にやったことです。頼まれてない」
久我が間を取った。この人は間の取り方が正確だった。工場に三十一年いると、人の間の取り方は分かる。久我の間は、こちらが何か足すのを待っている間だった。
田淵は何も足さなかった。
「篠原さんから、お金を振り込んでほしいと言われたことは」
「一度もありません」
「『オハヨウノオレイ』とは、何のお礼ですか」
「そのままです。おはようのお礼です」
久我の目が動いた。
「いつ、お気づきになりましたか」
「三通目です」
「三通目」
「同じ文面が来ました。あだ名だけ、別のが混じってた。消し忘れです」
「去年の、いつ頃ですか」
「八月です。最初の月です」
久我がうなずいた。
「篠原さんとは、直接会ったことは」
「一度だけです」
「いつですか」
「二月です。西新宿のファミレスで」
「どんなお話を」
「大した話はしてません。ハンバーグを食って、向こうが寝ちまったんで、帰りました」
久我がペンを動かした。田淵はメモを覗いたりしなかった。
「怒りませんでしたか」
「いいえ」
「なぜですか」
「ああ、そういうことかと思っただけです。それだけです」
「気づいたあとも振込を続けた理由を、教えてください」
田淵は椅子の背もたれに手を置いた。旋盤の前に立つとき、機械のフレームに手を置く。同じ手つきだった。
「毎朝、おはようが来たんで」
久我は黙った。田淵も黙った。蛍光灯の低い音だけが部屋に残った。
それ以上の言葉を、田淵は持っていなかった。
「毎月、いくらくらい振り込んでいましたか」
「決めてません。余った月に入れてました」
「余った月、というのは」
「残業が多かった月です」
久我のペンが止まった。それから、また動いた。
待合室は廊下の突き当たりにあった。長椅子が二脚、向かい合わせに並んでいる。壁に「飲食禁止」の貼り紙。窓がひとつあって、外は曇っていた。
田淵はひとりで座って待っていた。帰っていいと言われた。帰らなかった。理由は分からなかった。ただ、まだ帰る気がしなかった。
若い男が入ってきた。
スーツを着ていたが、着慣れていない着方だった。二十代の半ば。髪を明るい茶色に染めている。ネクタイが少し曲がっていた。部屋を見回して、田淵の隣に腰を下ろした。向かいの長椅子は空いていた。
しばらく黙っていた。男がスマホを触っている。田淵は壁の貼り紙を見ていた。蛍光灯の音が低く鳴っていた。
「おっさん」
男が話しかけてきた。田淵はそちらを見た。近くで見ると、肌が白くて、目が大きかった。匂いがした。甘い匂いだった。
「姫の親父さん?」
(姫。きのうテレビで聞いた言葉だ)
「いえ、客です」
男が目を丸くした。田淵の顔を見て、チェックのシャツを見て、膝の上の手を見た。
「客」
「マッチングアプリの客です」
男は何か言いかけて、やめた。首をかしげてスマホに戻った。
男のスマホが鳴った。着信だった。画面を見て、舌打ちをしてから出た。
「はい」
声が変わった。甘い声になった。工場の若い者が取引先に電話するときに声色を変える、あの変わり方だった。
「ええ、逮捕のことは知ってます。……それで?」
甘い声が途中で消えた。地声が出た。
「四百八十万。……自腹って、俺がですか」
長椅子の上で、男の背が丸くなった。
「待ってくれよ。ナンバーワンも剥奪って。来月から黒服? 降格じゃないすか。俺が稼いだ——」
声が震えていた。スーツの肩が小さく見えた。さっきまでの男と、同じ人間に見えなかった。
「……はい。……はい」
電話が切れた。男はスマホを膝の上に置いたまま動かなくなった。田淵は何も言わなかった。言うことがなかった。テレビでは「おぢ」と呼ばれていた。この男は「おっさん」と呼んだ。どちらでも同じことだった。
廊下の奥から靴音が近づいてきた。久我だった。男が立ち上がった。
「刑事さん」
久我が足を止めた。
「売掛って、被害弁済から取れますかね」
久我は男を見た。間を取らなかった。
「弁護士にお聞きください」
男の顔から、表情が全部剥がれた。営業の甘さでも、怒りでもなかった。何も載っていない顔だった。男は久我の横を通り過ぎて、廊下の向こうに歩いていった。靴音がだんだん遠くなった。
久我が田淵の前に立った。
「田淵さん」
「はい」
「今の方は、篠原さんの担当のホストです。篠原さんが逮捕された日、別のお客さんの席にいたそうです」
田淵は何も言わなかった。
「あなたが被害者を降りると、篠原さんの起訴対象は吉岡さんと早川さんの分だけになります」
「はい」
「あなたが降りると、この子は自分がしたことの半分しか裁かれません」
田淵は壁のカレンダーを見ていた。三月。赤い祝日の数字が目に入った。
「それでいいです」
自分の声が静かなのを聞いた。迷っていない声だった。工場で「この寸法でいいか」と聞かれたときと同じ声だった。図面に書いてあるものは、迷わない。
久我は黙った。田淵はカレンダーから目を戻して、久我を見た。
「刑事さん」
「はい」
「あの子の部屋に、ハムスターがいます。まめといいます。餌と水をやる人がいないんで、誰かに頼んでもらえますか」
久我が、一瞬だけ目を伏せた。
「……確認します」
久我が部屋を出ていった。田淵はしばらく長椅子に座っていた。壁の時計を見た。午後一時を過ぎていた。工場では午後の旋盤が回っている時間だった。
田淵は立ち上がった。ズボンのポケットから財布を出した。角が擦り切れた二つ折りの財布。透明のカードポケットの裏。
四つ折りの紙を指で摘んで、端を少しだけ開いた。小さな文字が見えた。
すぐに折り戻した。財布をポケットにしまって、出口に向かって歩いた。
三月の曇り空の下に出た。




