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第7話: それ、第七章ですよ

 マニュアルに、取調室のページはない。


 朝七時のチャイムが鳴ったとき、美月はベッドに座っていた。スマホを持っていた。


 毎朝の手順は決まっている。六時五十六分に田淵から「おはよう」が届く。目覚ましより正確で、目覚ましより短い。


 今朝も届いていた。「おはよう。今日は冷えるから、上着を持っていきなさい」。返信を打ち終えて、送信ボタンの上に親指を置いたところだった。


 チャイムが鳴った。


 まめの回し車が止まった。


 タケルかと思った。でもタケルは夜勤明けに来る。朝の七時に来たことはない。ドアスコープを覗いた。


 知らない女が立っていた。三十代の後半。黒いコートに手ぶら。結衣のときとは違う目だった。泣いていない。怒ってもいない。何かを確かめに来た人の目。


「篠原美月さんですね」


 チェーンをかけたままドアを薄く開けた。廊下の冷たい空気が入ってきた。三月の朝の匂いがした。


「新宿署の久我です。少しお話を聞かせていただけますか」


(警察。あかりが全部話したんだ)


 美月はスマホの画面を見た。田淵への「おはよう」が下書きのまま光っていた。七時三分。今朝は送れなかった。


「着替える時間をいただけますか」


 久我がうなずいた。ドアを閉めて、スウェットを脱いだ。ジーンズとニットを引き出しから出した。鏡の前に立って、下地とリップだけ塗った。おぢの前に出るときの手順と同じだった。


 まめが回し車の上からこちらを見ていた。餌は昨日の夜に入れた。水も替えた。


 ドアを開けると、久我は廊下で待っていた。通路の端にもう一人、スーツの男が立っていた。


「車でまいります。携帯はお持ちください」


 エレベーターの中で、久我は何も聞かなかった。一階のロビーに出ると、入口の前に黒い車が停まっていた。


 後部座席に座った。窓の外を信号が流れた。朝のラッシュには少し早い時間だった。新宿までの道を、美月は黙って見ていた。


 田淵の「おはよう」を思い出した。上着を持っていきなさい。言われた通り、上着は持ってきた。


 車が新宿署の前に停まった。美月は窓から建物を見上げた。テレビで見たことがある建物だった。入口で久我が美月の前を歩いた。


 受付を通って、廊下を曲がって、階段を上がった。すれ違う人は誰も美月を見なかった。




 取調室は、どのおぢのリビングよりも狭かった。


 机がひとつ。椅子がふたつ。窓がない。灰色の壁と、蛍光灯の低い音。時計がなかった。この部屋にいたら何時間経ったか分からなくなる。


 マニュアルの第二章に「おぢの家に上がったら時計を見ろ。滞在は四十五分」と書いてある。ここには、時計がない。


 久我は書類を持っていなかった。ボイスレコーダーを机の上に置いて、録音ボタンを押した。赤いランプが点いた。


「任意ですので、お帰りになれます。弁護士を呼ぶこともできます」


「大丈夫です」


 美月は椅子に浅く座った。足を揃えた。手を膝の上に置いた。おぢの家に上がったときと同じ座り方だった。


(敬語。崩さない。崩したら負けだ)


 久我の座り方には癖がなかった。背筋がまっすぐで、手を机の上で軽く組んでいた。


 おぢと向き合ってきた美月には、相手の座り方で大体のことが分かる。


 足を組む人は余裕を見せたい。前のめりの人は何かを取りに来ている。久我はどちらでもなかった。ただ座っていた。


 美月は息を整えた。おぢの部屋のソファよりずっと硬い椅子だった。でもやることは同じだった。


 相手の出方を見て、合わせる。聞かれたことだけに答える。余計なことは言わない。


 最初に聞いたのは、おぢのことではなかった。


「篠原さん。蓮さんとは、いつからですか」


(蓮くん。そっちから聞くんだ。田淵でも吉岡でもなくて、蓮くん)


「……二年くらいです」


「担当のホストさんですね」


「はい」


「売掛は今いくらですか」


「利息とボトル代を入れて……正確には分かりません」


「四百八十万です。店に確認しました」


 美月は黙った。久我は目を逸らさなかった。


(この人、蓮くんのことも全部調べてる)


「蓮さんに、一番多く言われた言葉はなんですか」


「みうだけだよ、こんなこと言うの」


「それは最初の頃だけですか」


「……いいえ。ずっと言ってました」


 久我がうなずいた。美月は久我の手元を見た。メモを取っていなかった。ボイスレコーダーだけが、ふたりの声を録り続けていた。


「蓮さんに会いに行くのは、週に何回ですか」


「ほぼ毎日です」


「蓮さんから来てほしいと言われるんですか」


「来てくれたら嬉しい、って」


「篠原さんは、それを聞いてどうしましたか」


「……行きました」


 久我が少し間を置いた。美月はその間の長さを数えた。


 おぢとのLINEで、相手が返信するまでの秒数を数える癖がある。三秒。久我は三秒待って、次の質問を出した。


「蓮さんから、相談を持ちかけられたことはありますか。蓮さんが困っていると言われたことは」


「ないです。蓮くんはいつもこっちの話を聞いてくれて——」


 美月は言葉を止めた。いつもこっちの話を聞いてくれる。うなずいてくれる。頑張ってるね、と言ってくれる。


 それはマニュアルの第三章に書いてある。相手の話を聞いて、うなずいて、認める。美月が毎日やっていることだった。


「篠原さん。蓮さんに、『少し休みたい』と言ったことはありますか」


 美月の指が膝の上でわずかに動いた。


「……あります」


「そのとき蓮さんは何と言いましたか」


「……みうがいないと店に立てない、と」


「ほかには」


「飛んだら俺が払うんだよ、と」


 久我がうなずいた。手を組み直した。次の質問まで三秒あった。


「篠原さん。弁護士に相談しなよ、と蓮さんに言われたことはありますか」


(弁護士に相談しなよ。売掛がきついって言ったとき、蓮くんがそう言った。優しい声で)


「……あります」


「親御さんに相談しなよ、は?」


「……あります」


「待ってもらいなよ、は?」


「あります」


 久我の声は変わらなかった。質問のトーンも速さも間の取り方も、全部同じだった。美月はその正確さに、背筋が少しだけ冷えた。


 おぢを安心させるために声のトーンを変えない技術を美月は知っている。久我がやっているのは、その逆だった。声を変えないことで、答える側の変化だけを目立たせている。


「刑事さん」


 美月が笑った。取調室の灰色の壁に、笑い声は吸い込まれた。


「それ、第七章ですよ」


 久我は表情を変えなかった。


「第七章」


「マニュアルの。死の言葉の切り返しです」


 美月は椅子の背に体を預けた。笑ったままだった。


「おぢが『もう無理だ』とか『警察に行く』とか言い出したときに引き留める言葉です。弁護士に相談しなよ。親に相談しなよ。待ってもらいなよ。全部、第七章に載ってます」


 美月は少しだけ背筋を伸ばした。取調室の椅子に座ったまま、初めて余裕を感じていた。知っている技術の話なら、こちらの領域だった。


「相談しなよ、って言うと、おぢは黙ります。人に話すなんて恥ずかしいって思うから。逃げ道が全部塞がるんです。それでおぢは、ひとりで悩み続ける。悩み続けてるあいだは、切れません」


「読みました」


 久我の声は静かだった。


「刑事さんがマニュアルを読んでるなら、話が早いです」


「篠原さん」


 久我が、組んでいた手をゆっくり解いた。掌を机の上に置いた。


「今の質問を、もう一度考えてみてください」


 美月の笑いが薄くなった。


「弁護士に相談しなよ。あなたは田淵さんや吉岡さんに、この言葉を使いましたね」


「……使いました」


「蓮さんにも、同じ言葉を言われた」


「……はい」


「あなたが使った言葉と、蓮さんがあなたに使った言葉は、同じです」


 笑いが消えた。


 蛍光灯の音だけが鳴っていた。美月の手が膝の上で止まった。久我が並べた言葉を、頭の中でもう一度繰り返した。


 弁護士に相談しなよ。美月がおぢに使った。蓮が美月に使った。同じ言葉。同じ章。美月の視線が、ボイスレコーダーの赤いランプに落ちた。


(弁護士に相談しなよ。あたしが田淵に言った。蓮くんがあたしに言った。親に相談しなよ。あたしが吉岡に言った。蓮くんがあたしに言った。待ってもらいなよ。全部、第七章。死の言葉の切り返し)


 美月の右手が、左手の甲を握りしめた。蓮の本名を知らないことに、そのとき初めて気づいた。二年間通って、売掛を入れて、毎晩の営業LINEに返信して。蓮くん、という源氏名しか知らない。


 二年間の営業LINEが頭の中を流れた。「今日もありがとう」「みうだけだよ」「来てくれたら嬉しい」。マニュアルの第二章、特別感の演出。第三章、ルーティン化。


 蓮の言葉は全部、マニュアルの順番通りだった。美月がおぢに使ったのと同じ順番で。


 指が震えていた。


(あたし、蓮くんのおぢだった)


 久我は黙って待っていた。美月が顔を上げるのを待っていた。


 取調室の蛍光灯の音が、さっきより大きく聞こえた。壁が近づいたような気がした。灰色の壁。窓がない。時計がない。美月はこの部屋に何時間いるのか分からなかった。


 膝の上の手を見た。震えは止まらなかった。おぢの前では一度も手が震えたことはなかった。マニュアルの第一章に書いてある。「おぢの前では、手と声を安定させろ」。


「篠原さん」


「……はい」


「あなたは蓮さんに、助けてと言ったことはありますか」


 蛍光灯が微かに瞬いた。


「……言ってません」


 美月は久我の目を見た。久我の目は、ドアの前に立っていたときと変わっていなかった。何かを確かめに来た人の目。確かめ終わった人の目。


 美月は椅子の背もたれから体を起こした。おぢの前では見せない顔を、この取調室で初めて見せていた。笑いが消えて、敬語が残って、それだけだった。


「言ったら負けなんで」


 久我は動かなかった。ボイスレコーダーの赤いランプが光り続けていた。取調室に、蛍光灯の音だけが戻った。


 美月は自分の手を見た。爪が左手の甲に食い込んでいた。痛いと、頭の中で回っている言葉が少しだけ止まった。


 久我がボイスレコーダーを止めた。赤いランプが消えた。




 四十分後、久我が立ち上がった。


「篠原美月さん。詐欺の疑いで逮捕します」


 美月は立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、灰色の壁に吸い込まれた。


 手首に冷たい金属が触れた。手錠だった。思っていたより重かった。


 手続きがあった。指紋を取った。写真を撮った。持ち物を透明な袋に入れた。


 スマホは別の袋に入った。画面はもう光っていなかった。田淵への「おはよう」は、下書きのまま消えた。


 廊下は長かった。蛍光灯が等間隔に並んでいて、久我の靴音と美月の靴音だけが交互に響いた。


 美月は自分の足元を見ていた。朝、慌てて履いたスニーカーの紐が片方だけ緩んでいた。手錠をしているから、結び直せなかった。


 久我は美月のペースに合わせて歩いていた。急かさなかった。取調室の中と同じだった。


 廊下の途中で、久我が足を止めた。


「もうひとつ、お伝えすることがあります」


 振り返らなかった。


「田淵さんの端末に、あなたが一度だけ送った、マニュアルにない言葉があります」


 美月の足が止まった。久我は前を向いたまま話していた。美月は久我の背中を見ていた。黒いコートの肩が、蛍光灯の下で少しだけ光った。


(あの夜。二月十四日の——)


「それと」


 久我が振り返った。


「田淵さんが、被害届を出しません」


 美月の足が動かなくなった。


(出さない。五百六十万。騙し取られて、出さない)


 マニュアルにはこの場面のページがない。おぢが被害届を出さないケースは、想定されていない。レイナも教えてくれなかった。蓮も。誰も。


 美月は何も言えなかった。手錠の重さが、手首にかかっていた。廊下の蛍光灯の音だけが、低く鳴っていた。

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