第6話: 三百万の線
頼んでいないお金には、線がない。
三月の初め、美月はコンビニの帰りにATMで記帳した。まめの餌とカップ麺の袋を足元に置いて、通帳を機械に差し込んだ。吉岡からの撤退を始めてから入金が止まっているはずだった。確認しておきたかった。
通帳が戻ってきた。開いた。吉岡の入金は二月十四日で止まっていた。想定どおり。
その下に、見覚えのない行が続いていた。
タブチ アキオ。振込。二月の後半から何行も並んでいる。金額はばらばらだった。日付の間隔も不規則で、三日空いたり二日続いたりしている。摘要欄にはどの行にも同じカタカナが印字されていた。
オハヨウノオレイ。
(なにこれ)
美月はATMの前で通帳を持ったまま固まった。後ろに人が立った気配がして、袋を拾って横にどいた。コンビニの前のガードレールに腰を預けて、もう一度通帳を開いた。
最初の振込は二月十六日。ファミレスの翌日だった。あの朝、田淵が「工場行くわ」と立ち上がって、千円札を数えてレジに渡して、まっすぐな背中で駅に向かった。その翌日から振込が始まっていた。
指で金額を追った。
合計、五百六十万。
(五百六十万。あたし、この人に「どうしよう」って送ってない。泣いた顔の絵文字も送ってない)
風が通帳のページをめくった。指で押さえた。
(第七章もやってない。何もやってない。なのに五百六十万)
通帳を閉じた。カップ麺の袋が風でかさかさ鳴った。
(オハヨウノオレイ。おはようの、お礼。あたしが毎朝七時に送ってるおはように、この人はお礼を振り込んでる。頼んでないのに)
ガードレールの冷たさが腰に伝わっていた。
(あたしのマニュアルには「頼んでもいないのに払ってくる男」の章がない。レイナさんの線は「頂いた金額」に引く線で、「頂いてない金額」には線が引けない)
通帳をバッグにしまった。
(……へんなの)
部屋に戻った。まめがケージの中で回し車を回していた。かたかたかたかた。
おぢノートを開いた。田淵のページ。金額の欄が白いまま並んでいる。五百六十万ぶんの数字を書き込もうとして、ボールペンを持った。
(何を書くの。「頂き・五百六十万・アフター未送信」? これは頂いてない。第七章も第九章もやってない。お礼のパターンなんかない。おぢノートに書ける形じゃない)
ボールペンを置いた。ページは白いままだった。吉岡のページは、七か月ぶんの赤丸と金額でびっしり埋まっている。早川のページは三通ぶんのメッセージと「テイカー・即切り」のひとことだけ。
二人とも、おぢノートに書ける形をしていた。田淵だけが書けない。
スマホを開いた。田淵のトーク。今朝の返信が来ていた。六時五十六分。
「おはよう。花粉がひどいから、マスクしなさい」
五百六十万を振り込んで、LINEでは花粉の話をしている。美月は「ありがとう!」と返信した。泣き顔の絵文字をひとつ。五十円ぶん。田淵に五十円ぶんの絵文字を送る意味があるのかどうか、最近は分からなくなっている。
(この人のことが、いちばん分からない)
吉岡のフェードアウトは二月の終わりから始めていた。
(第十章、撤退——返信を遅らせて、既読を遅らせて、あたしのほうから消える。レイナさんは「きれいに消えなさい。汚く消えたら通報される」って言ってた)
吉岡への返信を一日、二日と遅らせた。吉岡のLINEは日を追うごとに短くなっていった。「みうちゃん、元気?」「忙しいのかな」。最初のころの長い文面はもう来なかった。
九月に初めて「みうちゃん」と呼ばれたときは三行のメッセージが来ていた。それが二行になり、一行になり、今はひとことだけになっている。
三月二日、最後のアフターを送った。
「よっしーがいなかったら、わたし今頃どうなってたか分かんない」
(第九章、アフター——頂いたあとの感謝。感謝を残す。恩が残っていれば、あとでバレても訴えにくくなる。でもこれが最後だから、ちゃんとやる)
泣き顔の絵文字をひとつ。最後の五十円ぶんだった。
吉岡から返事が来た。十五分後だった。前は五分もかからなかった。
「みうちゃんが元気ならそれでいいよ」
美月は既読をつけた。返信はしなかった。おぢノートの吉岡のページに、小さく「撤退」と書き込んだ。赤丸と金額でいっぱいのページの端に、ゆっくり。
(二千三百万。レイナさんの線は「三百万まで」。それを何回も超えた。バレなかった。……バレなかったはずだった)
翌日の夕方、ドアのチャイムが鳴った。
タケルかと思った。コンビニのシフトの帰りに廃棄弁当を持ってくることがある。インターホンのモニターはないから、ドアスコープを覗いた。
知らない女の子が立っていた。十代の終わりか二十歳くらい。ダウンジャケットにマフラーを巻いて、ドアの前で両手をぎゅっと握っている。
目が赤かった。泣いたあとの赤さだった。まつ毛が濡れている。三月の夕方の光が廊下に差して、その目元を照らしていた。
チェーンをかけたままドアを薄く開けた。
「あの……あなたが、みうさん?」
(みう。あたしのことを知ってる)
「どちらさまですか」
「吉岡結衣です」
美月の肩が固まった。吉岡。
「……父の、娘です」
美月の手がドアの取っ手を握ったまま動かなくなった。おぢノートの九ページ目。「吉岡。娘あり。大学生。学費」。九月にボールペンで書いた四つの単語が、ドアの向こうに立っていた。
「返してとは言いません」
結衣の声は細かった。マフラーに顎を埋めたまま、目だけが美月を見ていた。
「父に、もう連絡しないでください」
美月は何も返せなかった。マニュアルにはおぢの家族が来たときの章がない。切り返しも撤退もアフターもない。ドアチェーンの隙間から廊下の冷たい空気が入ってきて、美月のパーカーの袖を冷やした。
「大学、やめました」
結衣の声が震えた。
「学費が、なくなったので」
(一月。吉岡が「娘の学費で厳しいんだけど」って言ってた。あたしは困った顔をして、「みうのことはいいから」って返した。吉岡は「みうちゃんが困ってるなら送るよ」って言った)
結衣のまつ毛がまだ濡れていた。
(あたしは「治療費」って嘘をついた。嘘をつけば吉岡は娘の学費を削ってでも送ってくる。そういう人だった。その金は蓮くんの卓に入った。この子の四年間が、ボトル代になった)
「……ごめんなさい」
美月の口から出たのはそれだけだった。マニュアルのどの章にもない言葉だった。
結衣は小さく頭を下げた。何も言わずに廊下を歩いていった。階段を降りる足音がだんだん遠くなって、一階のドアが開いて閉まる音がして、それも消えた。
美月はドアを閉めた。チェーンをかけた。
ベッドに座った。まめがケージの隅で丸くなっている。回し車は止まっていた。
おぢノートを膝に置いて、吉岡のページを開いた。赤丸と金額と「撤退」の文字。数字と記号だけのページだった。結衣の顔はどこにも書いていない。学費が払えなくなったことも、大学をやめたことも。
(二千三百万は数字で知ってた。吉岡が困ってることも知ってた。でも数字の向こうに大学をやめた子がいることは、知らなかった。知ろうとしなかった。知ったら頂けなくなるから)
おぢノートを閉じた。ベッドの上で膝を抱えた。まめがケージの中で身じろぎした。回し車は止まったままだった。
三月五日の夜、蓮がナンバーワンになった。
店のグループLINEに写真が流れてきた。シャンパンタワーの前で蓮が笑っている。照明が金色で、蓮のスーツも金色で、シャンパンの泡が照明に跳ねていた。
グループのスタンプが画面を埋めた。美月もハートのスタンプを送った。
(あたしが入れた金で、タワーが立ってる。吉岡の二千三百万と、田淵のよく分からない五百六十万のうちの何割かが、あの泡になってる)
夜、店に行った。蓮の卓はいつもより照明が明るかった。ほかの姫が三人先に座っていた。黒服がシャンパンのボトルを並べている。美月は端に座った。
「みう、来てくれた」
蓮が笑った。卓の明かりが蓮の横顔を照らしていた。半年前、店の裏口の踊り場で煙草を吸いながら「売掛、もう限界」と言っていた顔とは別の顔だった。
「おめでとう、蓮くん」
「みうのおかげだよ」
(みうのおかげ。吉岡の二千三百万のおかげ。田淵の五百六十万のおかげ。結衣って子が大学をやめたおかげ)
蓮がグラスを傾けた。泡が照明に光った。
(蓮くんは知らない。誰のどんな金が卓に入ってるかなんて聞かない。聞かないのがこの仕事だ。あたしも聞かなかった。吉岡の金がどこから来てるかなんて)
テーブルの下で封筒を渡した。二百万。田淵が振り込んだ金だった。頂いたんじゃない。頼んでもいないのに振り込まれた金を、蓮の卓に入れている。
蓮の指が封筒の中を数えた。営業の笑顔のまま、指だけが正確に動いた。
「ありがと、みう」
「蓮くん、これで売掛全部なくなる?」
「いや。利息とボトル代が残ってる。店の計算だから、俺にはどうにもできない」
(終わらない。いくら入れても店が足す。蓮くんが稼いで、姫が入れて、店が利息を足す。まめの回し車と同じだ。回ってるだけで、どこにも着かない)
美月はグラスの水を飲んだ。周りの姫がシャンパンのグラスを掲げている。蓮がグラスに口をつけた。
ナンバーワンの夜の蓮は忙しい。ひとつの卓に五分いて、次の卓に移る。姫たちがそれぞれの卓で待っている。美月もそのひとりだ。
(これで終わり。次はない。吉岡は撤退した。田淵は——あの人には頂いてない。頼んでもいないのに振り込んでる。新しいおぢも見つけてない。この二百万が、あたしが蓮くんの卓に入れる最後のお金だ。次は、もうない)
店を出て、大久保まで歩いた。タクシーには乗らない。田淵が川口から一万三千八百六十円かけて来たタクシーのことを思い出して、すぐに打ち消した。歌舞伎町のネオンが背中から遠ざかった。三月の夜風はまだ冷たかった。
歩きながらスマホを開いた。あかりからLINEが三通入っていた。午後八時の送信。蓮の卓にいた時間だった。
「みうさん、電話できますか」
「怖い」
「あの人が住所調べたって言ってきた」
(あかり。テイカーのおぢだ。第三章——テイカーは即切り。ブロックして忘れなさいって教えた。なのにまだ切れてない。住所を調べたって……それはテイカーの中でもいちばんまずいやつだ)
返信を打った。
「あかり、大丈夫? 今見た、ごめん」
送信した。既読はつかなかった。深夜零時を過ぎていた。大久保のアパートまで歩きながら、もう一度画面を見た。既読はつかない。あかりは美月より二つ下の二十歳だ。マニュアルを買う金もなかったから、美月が教えた。
翌朝、もう一度送った。既読はつかなかった。
あかりはその夜のうちに新宿署に駆け込んでいた。
テイカーのおぢが「明日そっちに行く」と送ってきた。住所を知られていた。部屋にいるのが怖くなって、美月に電話した。繋がらなかった。
レイナさんの番号は知らない。店の人に相談できる話じゃない。ほかに頼れる人はいなかった。
コンビニの明かりを目指して歩いた。大久保駅を過ぎて、新宿駅を過ぎて、歌舞伎町の交番の前を過ぎて、新宿署の入口の前で立ち止まった。
警察の窓口で、あかりは泣きながら全部話した。おぢのこと。マニュアルのこと。みうさんのこと。
美月はそれを知らなかった。
三月の朝はまだ冷たかった。まめの回し車がかたかた回っている。田淵からのおはようは毎朝六時五十六分に届いた。
命令形のひとことと、振込のことには触れない沈黙と、三秒の返信速度。何も変わらない。あの通帳の数字が嘘みたいに、田淵のLINEはいつもと同じだった。
美月は毎朝七時に「おはよう」を送った。三秒で返信が来た。「花粉がひどいから」「今日は雨だから」「飯を食いなさい」。振込のことにはひとことも触れない。美月も触れなかった。いつもと同じ朝が続いた。
三日後、美月の部屋のチャイムが、七時に鳴った。




