第5話: 川口から新宿
おぢノートに書けないことが起きる夜がある。
チャイムの音で、美月はベッドから立ち上がった。裸足のまま玄関まで歩いて、ドアスコープを覗いた。
廊下の外灯がジャンパーのフードを照らしていた。その下に白髪混じりの短髪が見えた。
(え、来た? 川口から?)
チェーンを外した。鎖がかちゃりと鳴った。ドアを開けた。
田淵が立っていた。作業着の上にジャンパーを羽織って、ポケットに両手を突っ込んでいた。息が白い。二月の深夜だった。ジャンパーの裾から、旋盤の油の匂いがした。
「飯は食ったか」
第一声がそれだった。
「……食べてない」
「着替えろ。出るぞ」
田淵はそれだけ言って、廊下で背を向けた。ドアは開けたままだった。怒っている顔ではなかった。心配している顔でもなかった。何の顔かは分からなかった。
美月は部屋に戻った。ジーンズとパーカーに着替えた。鏡は見なかった。財布をポケットに入れた。中身は千円札が二枚と小銭だけだ。髪を結ぼうとしてゴムが見つからなくて、そのまま出た。
まめがケージの中で丸くなっている。回し車は止まったまま。起きなかった。
部屋を出ると、田淵はもう階段を降りていた。
アパートの前の道を歩いた。田淵が半歩前を歩いて、美月がついていく。街灯がふたりの影を交互に伸ばした。深夜二時半の住宅街に人影はなかった。
二月の風が頬に当たった。パーカーの下は薄いTシャツ一枚で、腕のあたりが冷えた。コートを忘れた。靴もスニーカーではなくサンダルだった。かかとがぱたぱた鳴った。
「上着は」
田淵が前を向いたまま言った。
「……忘れました」
「そうか」
(おぢに「寒い」って言ったら上着を貸してくれる。マニュアルの第二章に書いてある。この人は「そうか」で終わりだ)
田淵は歩く速度を変えなかった。上着も貸さなかった。ただ、風上のほうを歩いていた。
信号をふたつ渡って、大通りに出た。コンビニの明かりが白く、その隣のドラッグストアは閉まっていた。田淵は迷いなく歩いた。地図を見ていない。道を知っているのか、知らないまま歩いているのか、美月には分からなかった。
西新宿のファミレスは二十四時間営業だった。入口の自動ドアが開くと、暖房の熱気が押し寄せた。深夜三時の店内に客は二組しかいなかった。ひと組はノートパソコンを開いた若い男で、もうひと組はタクシーの運転手らしい制服の男だった。
「どこでもいい」
「じゃあ窓際で」
四人席に座った。向かい合わせ。蛍光灯が白かった。
田淵はメニューを五秒で閉じた。
「ハンバーグふたつ。ドリンクバーふたつ」
「あ、あたしは——」
「ハンバーグふたつ」
店員に向かって同じことを繰り返した。美月の注文を聞く気はなかった。
「ハンバーグでいいのか」
店員が去ってから聞いた。
「……はい」
「そうか」
(順番が逆だ。注文してから聞いてる)
美月はドリンクバーでオレンジジュースを注いで戻った。田淵はブラックのコーヒーを持ってきていた。
「砂糖いります?」
「いらん」
「ミルクは」
「いらん」
「苦くないですか」
「慣れた」
(この人、何も足さない。コーヒーにも、会話にも)
ハンバーグが来た。鉄板がふたつ、テーブルに並んだ。ソースの焦げた匂いが広がった。田淵は何も言わずに片方を美月の前に寄せた。
「食え」
美月はナイフを取った。ハンバーグの真ん中に刃を入れると、肉汁が鉄板の上に広がった。切って、口に運んだ。
(あったかい。なにこれ。深夜三時にファミレスのハンバーグを食べてるだけなのに)
向かいを見ると、田淵はもう半分食べていた。工場の昼休みの速度だ。味わうとか、そういう食べ方ではなかった。燃料を入れている。
「うまいか」
「……うまいです」
「そうか。食え」
美月はコーンもポテトも食べた。ポテトが揚げたてでもないのにうまかった。最後にハンバーグの端に残ったソースをポテトで拭って食べた。
鉄板が空になった。ナイフとフォークを揃えて置いた。
(全部食べた。タケルの廃棄弁当とファミチキ以外のあったかいものを、こんなに食べたの久しぶりだ)
田淵はコーヒーを飲んでいた。鉄板はとっくに空だった。
「ちゃんと食ってるか。普段」
「食べてます」
「何を」
「コンビニの——弁当とか」
「毎日か」
「……だいたい」
「そうか」
田淵は窓の外を見ていた。信号だけが青と赤を繰り返していた。ときどきトラックが通り過ぎて、そのたびに窓が小さく震えた。
金の話は出なかった。蓮の話も、お母さんの話も、売掛の話も。美月が昨夜何を送ったかも、田淵は何も聞かなかった。美月も言わなかった。
蛍光灯が微かに唸っていた。ふたりとも窓の外の信号を見ていた。
田淵がコーヒーのカップを置いた。
「まめ」
「え?」
「餌、切れてないか」
「切れてないです。大丈夫」
「回し車は回してるか」
「毎晩回してます。かたかたかたって」
「うるさいだろ」
「ううん。あの音がないと静かすぎて」
「そうか」
(まめの名前を覚えてる。LINEで一回だけ「ハムスターのまめの餌代」って書いたのを覚えてる。おぢノートには書いてない。この人の頭の中にあたしのメモがある)
田淵がジャンパーのポケットから紙切れを出した。小さく折り畳まれていた。タクシーの領収書だった。二つに折って、財布の奥に押し込んだ。それだけだった。
(領収書。この人、タクシーで来たんだ。川口から新宿まで深夜料金。いくらかは知らないけど、安くはない。安くはないのに、財布にしまって終わり)
田淵はコーヒーをおかわりした。美月もオレンジジュースをもう一杯注ぎに行った。
席に戻って、向かい合わせに座って、また黙った。美月はテーブルの紙ナプキンの端を折った。
田淵の右手が目に入った。人差し指の第一関節が少し曲がっている。おぢノートの一ページ目に書いたことだ。写真でしか見たことのなかった手が、テーブルの上にあった。
「田淵さん」
「ん」
「その指、怪我ですか」
田淵は右手を見た。
「旋盤だ。若いとき」
「痛くないですか」
「もう動く。問題ない」
「何年前ですか」
「三十年くらい前だ」
(三十年。あたしが生まれる前だ。そのころからずっと同じ旋盤の前にいるんだ)
四時を過ぎた。ほかの客がいなくなった。店員がモップで通路を拭いて、また奥に消えた。
テーブルの上にはコーヒーカップとオレンジジュースのグラスだけが残っていた。田淵は三杯目のコーヒーを飲んでいた。美月は紙ナプキンを小さく折り畳んでは広げてを繰り返していた。
「田淵さんって、休みの日何してるんですか」
「寝てる」
「寝てるだけですか」
「テレビは見る」
「何のテレビ」
「ニュースと、野球」
「どこのファンですか」
「ライオンズ」
(ライオンズ。埼玉だ。川口の人らしい)
「強いですか、今」
「弱い」
「……弱いのに見てるんですか」
「弱いから見てる」
美月は笑った。声に出して笑ったのは久しぶりだった。自分の笑い声が、深夜のファミレスに響いた。田淵は笑わなかった。でも、コーヒーを飲む手が一瞬止まった。
「寝ていいぞ」
「え」
「眠いなら寝ろ。起きたら声かける」
「……大丈夫です」
(この人は起きてる。深夜にタクシーで来て、ハンバーグをおごって、コーヒーを何杯も飲んで、まだ起きてる。あたしが寝たら意味がわからない)
五時を過ぎた。窓の外の暗さが、少しずつ薄くなった。ビルの輪郭がぼんやり見え始めた。
美月はオレンジジュースのグラスを両手で包んでいた。氷が溶けて、グラスの表面に水滴がついていた。田淵はまだ起きていた。背筋が曲がらない。工場で立ちっぱなしの人間の座り方だった。
「おかわり持ってこい」
「え?」
「ジュース。氷、溶けてるぞ」
美月はグラスを見た。氷はとっくに溶けて、オレンジジュースが水みたいに薄くなっていた。ストローの先だけがオレンジ色だった。
「……はい」
ドリンクバーに立った。新しいグラスにオレンジジュースを注いだ。オレンジ色がグラスの中で揺れた。田淵のコーヒーも持っていこうとして、やめた。この人は自分で持ってくる。人に頼まない。頼まれてもいないのに来るくせに、自分のことは自分でやる。
朝六時。窓に日が入った。
ファミレスの窓際にまっすぐ朝日が差し込んで、テーブルの上を白くした。空の鉄板と、コーヒーカップと、オレンジジュースのグラスが全部同じ色になった。田淵の短髪には白髪が混じっていて、朝日が当たるとよく見えた。
美月はそのとき初めて、この人の顔をちゃんと見た。おぢノートに貼ったアプリの写真より老けていた。目の下の皺が深い。でも、眠そうな顔をしていなかった。
田淵が立ち上がった。
「工場行くわ」
五時間いて、それだけだった。
レジに向かった。美月が財布を出そうとした。
「あ、あたしも——」
「いい」
田淵は千円札を数えて店員に渡した。お釣りを受け取って、財布にしまった。レシートは見ないでポケットに入れた。
店を出ると、二月の朝の空気が冷たかった。店の暖かさが一気に体から抜けた。美月は両腕を抱えた。田淵のジャンパーの肩に朝日が当たっていた。
「ちゃんと食えよ」
田淵が前を向いたまま言った。
「……はい」
「弁当じゃなくて、あったかいもの食え」
「はい」
「じゃあ」
それだけ言って、田淵は駅のほうへ歩き出した。川口に帰って、八時に旋盤の電源を入れる。いつもの朝に戻っていく。背中がまっすぐだった。疲れた人間の歩き方ではなかった。
(お礼を言ってない。「ありがとう」を言ってない。吹き出しのみうちゃんなら言える。「たぶちゃん、ありがとね」って、ハートの絵文字をふたつつけて送れる。でも今は吹き出しの中にいない。声で言わないといけなかった。声が出なかった。あったかいもの食えって言ったこの人に、お礼のひとつも言えなかった)
ジャンパーの背中が角を曲がって、見えなくなった。
美月はひとりで歩いて帰った。来るときは田淵の半歩うしろだった。帰りは前に誰もいなかった。
朝の大通りをサンダルで歩いた。通勤の人たちがコートを着て足早に通り過ぎていく。パーカー一枚の美月を誰も見なかった。朝日が道路を横から照らしていて、自分の影だけが長く伸びていた。
アパートに戻った。
まめが回し車を回していた。かたかたかたかた。止まらない。
ベッドの端に座って、おぢノートを開いた。田淵のページ。金額の欄が空のまま並んでいる。
ボールペンを持った。
(何を書くの。「深夜にファミレス。ハンバーグふたつ。金の話なし。まめの餌のこと聞いてきた。ライオンズが弱い」? それはおぢノートに書くことじゃない。おぢノートは頂いた金額と日付とお礼のパターンを書くノートだ。田淵のページには書ける数字がない。この人からは何も頂いてない。何も頂いてないのに、ハンバーグがうまかった)
ボールペンのキャップを閉めた。ノートを閉じた。何も書けなかった。おぢノートに書けないことが起きた夜だった。
スマホが震えた。
レイナからのDMだった。
「今やめたら、蓮の売掛四百八十万は誰が払うの? あんたのお母さんの借金は? ……田淵さんが払うの?」
(やめるなんて言ってない。誰にも言ってない。なのにレイナさんには見えてる。あたしの中の何かが見えてる。田淵さんの名前まで出してくる)
美月はスマホを持ったまま画面を見ていた。まめの回し車がかたかた回っている。
「……やめるって言ってません」
送信した。既読がすぐについた。返信はなかった。画面の光だけが顔を照らしていた。
美月はスマホを裏返してベッドに置いた。
枕元でおぢノートが開いたままだった。田淵のページ。白い欄が並んでいた。タクシーの領収書の金額も、ファミレスのハンバーグの金額も、書いていなかった。この人からの入金はゼロだ。ゼロなのに、ページだけは埋まらない。
まめが回し車を降りて、ケージの隅で丸くなった。




