第4話: やみえい
値段を言わないほうが、高くつく。
九月の終わり、美月はひと月寝かせた下書きを開いた。カーソルが点滅している。まめがケージの中で寝息を立てていた。
「よっしー、あのね。実は……どうしよう」
泣いている顔の絵文字をひとつ。五十円ぶん。送信した。
(第七章、やみえい。金額を言わずにおぢに出させる手口。こっちからは絶対に金額を言わない)
五分後に返信が来た。
「みうちゃん、大丈夫? 困ってるなら力になるよ」
美月はスマホを裏返してテーブルに置いた。三分待つ。マニュアルには「すぐに飛びつかない。一拍おいてから弱さを見せる」と書いてある。まめが寝返りを打った。三分。スマホを持ち上げた。
「……お母さんの借金のことで、ちょっと困ってて。でもよっしーに迷惑かけたくないの」
(第四章、小出しの打ち明け。全部言わない。ちょっとだけ見せて、向こうから聞いてくるのを待つ)
「迷惑じゃないよ。弁護士さんに相談してみたら? 専門家のほうが」
(死の言葉。おぢが弁護士とか親とか第三者を勧めてきたら塞ぐ。「あなたにしか言えない」で戻す)
「弁護士さんに話すの怖くて……よっしーだから言えたの」
一分。返信がなかった。吉岡にしては長い沈黙だった。既読はついている。美月はベッドの上であぐらをかいたまま、爪の先を見ていた。
「口座教えて。金額は気にしないで」
(はい、来ました)
美月はもう一度スマホを裏返した。二分待つ。
「えっと……口座ってどれを教えればいいのかな。こういうの初めてで」
(初めてじゃない。早川のとき一回やってる。でもおぢごとに初めて。みうちゃんは、いつも初めて)
「普通預金の口座番号で大丈夫だよ」
美月は口座番号を送った。末尾に泣いている顔の絵文字をひとつ。五十円ぶん。
「ありがとう……。よっしーがいてくれて、ほんとに」
ここで止める。感謝は短く。お礼が長いと嘘くさくなる。マニュアルの第七章にそう書いてある。
三日後、ATMで記帳した。三百万。通帳に印字された数字を二度見した。六桁じゃなくて七桁だった。
(はい、三百万。レイナさんの線は守った)
おぢノートの吉岡のページに金額と日付を書き込んだ。ボールペンのインクが薄くなっていたから、コンビニで新しいのを買った。百十円。三百万もらって百十円の買い物をしている。
翌日、蓮にLINEした。「蓮くん、今週行くね」。スタンプが返ってきた。ハートのやつ。
翌週、蓮の卓に座って二百万を入れた。
「ありがと、みう」
蓮が笑った。卓の照明が蓮の横顔を照らしていた。担当に笑われると嬉しい。嬉しいと思う回路はまだ壊れていない。壊れているのは別の回路だ。三百万を人からもらって何も感じない回路。そっちのほうがちゃんと壊れている。
売掛の帳面の数字が少し減った。四百八十万が二百八十万になった。
残りの百万は家賃と母の仕送りと食費で月末には消えた。美月の口座にはいつも同じくらいの残高が入っている。六万八千円の家賃が払えるくらいの金額。三百万が入ってきて三百万が出ていく。通り過ぎるだけ。
(三百万が通り過ぎていった。あたしの手元には何も残らない。でも蓮くんが笑ったから、来月もまた頂く。来月も「どうしよう」を送って、来月も五十円ぶん泣いて、来月も三百万が通り過ぎていく)
最初の三百万から、入金は月に一度のペースで続いた。
美月は毎月「どうしよう」を送り、吉岡は毎月振り込んだ。感謝の返信は毎回文面を変える。同じ文面を二回は使わない。おぢノートの吉岡のページにはお礼のパターンを書き出してあって、使ったものに赤丸をつけている。
(第九章、アフター。頂いたあとのケアがいちばん手間がかかる。「よっしーがいなかったら、わたし今頃どうなってたか分かんない」。これで来月もまた来る)
十月、三百万。蓮の卓に二百万。蓮が笑った。
十一月、三百万。蓮の卓に二百万。残りの百万で家賃を払って、母に五万送って、まめの餌を買ったら三万しか残らなかった。
十二月、三百万。年末で蓮のボトルが高かった。二百五十万入れた。蓮がいつもより長く笑った。残りの五十万は年を越す前に消えた。
おぢノートの吉岡のページの赤丸が増えていった。お礼のパターンはあと三つしか残っていない。
一月。美月は下書きを開いて「どうしよう」と打ったが、三十秒ほど画面を見て書き足した。
「お母さんの治療費が急に必要になって……どうしよう」
(嘘。母はパチンコと消費者金融。治療費なんてない。でも「治療費」のほうが断りにくい。第四章の応用)
吉岡から返信が来た。
「みうちゃん、ごめんね。娘の学費で今月は厳しいんだけど、みうちゃんが困ってるなら送るよ」
(「娘の学費」。吉岡には大学生の娘がいる。おぢノートの九ページ目に書いた。娘の学費を削って、あたしに送っている)
美月は「無理しないで」と打って、三秒後に全部消した。マニュアルにそんな台詞はない。「ありがとう」と泣いている顔の絵文字を送った。五十円ぶん。
(「治療費」にしたら、額が三百万を超えた。翌月は吉岡のほうから「まとめて送る」と来た)
二月十四日。入金があった。これで合計二千三百万になった。
(二千三百万。レイナさんの「三百万の線」はとっくに超えた)
おぢノートの吉岡のページに最後の金額を書き込んだ。ページの余白がなくなっていた。
吉岡は第十章に入る。フェードアウト。返信の間隔を空けて、既読を遅らせて、消える。ありがとうの絵文字は送らなかった。
一月の終わり、美月は田淵にも仕掛けた。
「たぶちゃん、あのね。ちょっとお金のことで困ってて」
泣いている顔の絵文字をふたつ。百円ぶん。田淵には吉岡より多く送る。
三秒で既読がついた。
「そうか」
以上。
(「そうか」だけ。吉岡なら「大丈夫?」って来た。早川なら「いくら?」って来た。この人は「そうか」。たったそれだけ。ひらがな)
美月はスマホをベッドに投げた。まめが驚いて回し車を止めた。
翌日も送った。
「家賃が厳しくて……どうしよう」
三秒で既読。
「飯は食えてるか」
(飯の話をしてるんじゃない。お金の話をしたのに、飯の話に変わった。この人のマニュアルには「金の話をされたら飯の話に戻す」って書いてあるのかな)
「食べてるよ。ファミチキとか」
「コンビニの揚げ物ばかり食うな」
(食うな、って。命令形。おぢは普通、命令形を使わない。相手に嫌われるのが怖いから。でもこの人は平気で命令してくる。食うな。手袋しなさい。無理するな。全部命令形で、全部あたしの体の話)
振込は来なかった。翌朝、六時五十六分に「おはよう。今日は冷えるぞ。手袋しなさい」が来た。いつもの時間に、いつもの調子で。美月が昨日泣き顔の絵文字を送ったのも忘れたみたいに。
(この人に頂けたら、おぢノートに新しい章を書ける。マニュアルにない章を。でもこの人には第七章が効かない。「お金に困ってる」と言っても「そうか」、「家賃が厳しい」と言っても「飯は食えてるか」。入り口がない)
美月はおぢノートを開いた。田淵のページはまだ白かった。金額を書き込む欄が空のまま並んでいる。吉岡のページは赤丸でいっぱいなのに。
二月に入ってからも一度だけ試した。
「たぶちゃん、来月の家賃が払えないかも」
泣いている顔の絵文字をみっつ。百五十円ぶん。過去最高額。
三秒。
「そうか。持ちもの減らしなさい。要らんものが多いんだろう」
(要らんもの。ミシンのこと言ってんのかな。使ってないもんね。でもあれは捨てない。あれだけは捨てない)
振込は来なかった。翌朝のおはようは来た。六時五十六分。いつもと同じ。
(この人は、あたしの泣いた顔の絵文字をいくら送っても、おぢノートに数字が増えない。百五十円ぶん泣いても、「そうか」と「おはよう」しか返ってこない。もう第七章では動かない。この人を動かす章はマニュアルにない)
二月十四日。夜。歌舞伎町。
美月は店の裏口から出た。非常階段の踊り場。コンクリートの床と鉄の手すり。ダクトの排気音が上から降ってきて、ビルの壁に反射して消える。
蓮が先に出ていた。煙草を吸っている。ドアの脇に黒服がひとり立っていた。腕を組んで、どこを見るでもなく立っている。
「みう、話」
蓮の声から甘さが抜けていた。卓で聞く声とは別の声だった。月末が近い声だ。
「売掛、もう限界。店から言われてる」
「ごめんね、蓮くん。もうちょっとだけ」
「もうちょっとって何回目?」
蓮が煙草を口から離した。煙を吐いた。二月の空気に白く混ざって、踊り場の天井に張りついて消えた。
「飛んだら俺が払うんだよ。分かってる?」
(分かってる。あたしが来なくなったら蓮が売掛を自腹で払う。店の規定。「飛んだら俺が払う」は「逃げるな」の丁寧語だ。あたしがおぢに使う第七章と同じ。蓮はあたしに使っている)
「お願い。あと一か月だけ待って」
「一か月で何が変わんの」
美月は答えなかった。一か月で何が変わるか。何も変わらない。吉岡はフェードアウトに入った。田淵は「そうか」しか言わない。新しいおぢは見つけていない。マッチングアプリの「いいね」は毎日三件来るけど、どれもテイカーの顔をしている。一か月で変わることは何もなかった。でも一か月と言わないと、今夜ここから帰れない。
蓮が煙草を床に落として、靴の先で踏んだ。火が消えた。
「一か月っつったよな」
「うん」
「俺はみうを信じてるよ」
(その台詞、あたしも使う。第六章で。おぢが揺れたときに最後に押す台詞)
蓮がドアのほうを見た。黒服がこちらを見ている。腕を組んだまま動かない。この人も仕事で立っている。蓮も仕事で煙草を吸っている。あたしも仕事でここにいる。みんな仕事をしている。
「答え」
美月はコンクリートの床に膝をついた。
冷たかった。二月のコンクリートは骨まで冷たかった。
(膝、冷たい。コンクリって冷たいんだ)
蓮を見上げた。蓮はスマホを見ていた。美月の顔は見ていなかった。黒服が目を逸らした。ダクトの排気音だけが踊り場に残っていた。
「お願いします」
声が小さかった。自分の声が踊り場の鉄の壁に跳ね返らなかった。
「一か月」
蓮がスマホをポケットにしまった。
「一か月だけ。それ以上は知らない」
ドアが閉まった。蓮と黒服が中に戻っていった。排気音が遠くなって、踊り場に美月だけが残った。
立ち上がった。膝にコンクリートの粉がついていた。払った。ストッキングの膝が破れていた。
(はあ。千二百円。今月三足目)
階段を下りた。裏口の路地を出ると歌舞伎町のネオンが横から刺した。目が痛い。
タクシーには乗らない。タクシーに乗る金があったら蓮の卓に入れる。大久保まで歩けば三十分で着く。ヒールの底が薄くなっていて、アスファルトの冷たさが足の裏まで届いた。
コンビニの前を通り過ぎた。ファミチキのポスターが光っていた。財布を開けたら千円札が二枚と小銭が少し入っていた。買わなかった。
部屋に戻った。
まめが回し車を回していた。かたかたかたかた。部屋の中でいちばん真面目に働いている音だ。
美月はベッドの端に座った。ストッキングを脱いで丸めてゴミ箱に入れた。膝にうっすら赤い跡が残っている。風呂には入らなかった。エアコンの風がカーテンの裾を揺らしていた。ミシンのカバーの上の埃は、九月から変わっていない。
スマホを開いた。
通知がいくつか並んでいた。コンビニのシフト確認と、マッチングアプリの「いいね」が三件。吉岡のトークは開かなかった。フェードアウト中だから開く理由がない。蓮のトークも開かなかった。開いたら、さっきの踊り場の声が聞こえてきそうだった。
田淵のトークを開いた。
「おやすみ。暖かくしろ」
五時間前に届いていた。二十一時九分。既読はつけていなかった。
(暖かくしろ、って。今日、膝が冷たかった)
まめの回し車がかたかた回っている。美月はスマホを持ったまま、しばらく画面を見ていた。
カーソルが点滅している。
時刻は深夜二時十四分だった。
美月はマニュアルにないひとことを打った。
送信した。
回し車の音が止まった。まめが止まったのか、聞こえなくなったのか分からなかった。
部屋が静かになった。
二十六分後、玄関のチャイムが鳴った。




