第3話: 見極め
見極めは、三通で終わる。
八月の朝。六時五十六分に田淵から先におはようが来た。七月の終わりから、この人が先に来るようになった。
「おはよう。暑いから水を持っていきなさい」
まめがケージの中で水を飲んでいる。エアコンの風が弱くなっていた。先月から設定温度を二度上げた。電気代の節約だ。まめには申し訳ないけど、ハムスターは人間より暑さに強い。たぶん。
七時を待たずに返信を打った。
「おはよう! たぶちゃん、今日も暑いね。お仕事気をつけてね」
末尾に泣いている顔の絵文字をひとつ。五十円ぶん。
(マニュアルには「おぢのほうから先に連絡が来たら脈あり」って書いてあるけど、この人が脈ありなのかただの習慣なのか分からない。工場は八時始業だから、六時台に送ってくるのは家を出る前だ。朝飯食いながら打ってんのかな)
吉岡には甘い声で送った。
「おはよう! よっしー大好き。今日もがんばってね」
ハートの絵文字をふたつ。吉岡はハートを送ると必ず同じ数だけ返信してくる。三つ送ったら三つ返信が来た日もあった。律儀な人だ。
早川には弱い声で。
「はやかわさん、お元気ですか? 暑いですけど体壊さないでくださいね」
三人に送る言葉はひとつも同じじゃない。絵文字の数も、ひらがなの比率も、語尾の柔らかさも。全部おぢノートに書いてある。早川のページは四ページ。吉岡は三十四ページ。田淵は十七ページなのに、まだ攻略の糸口が掴めていなかった。
まめにペレットを入れてやった。回し車の音が止まって、小さな口がもぐもぐ動く。朝のルーティンはこれで終わりだ。三人のおぢに朝を売って、ハムスターに餌をやる。
午後、早川から三通が続けて来た。
「で、いつ会える?」
「写真送ってよ」
「条件あるなら先に言って」
美月はベッドに寝転がったまま画面を見た。まめが回し車を止めてこっちを見ている。八月の日差しがカーテンの隙間から畳に落ちていた。
三通。全部読んだ。おぢノートの早川のページを開いた。四ページの余白に何か書き足す気にもならなかった。
(テイカー。時間の無駄。マニュアルの第三章、おぢの見極め。会おうとする・写真を要求する・条件を聞いてくる。三つ揃ったら即切り)
早川からはこの八か月で六十万を受け取っている。初回に会う約束の手付のつもりだったのだろう。返す気はない。テイカーからの入金は返さない。返したら向こうが正しいことになる。
美月は早川のLINEを開いた。トーク画面をスクロールした。八か月ぶんの会話が並んでいる。
最初の頃は美月のほうが長い文を書いていた。途中から早川の文が長くなった。会いたい、写真が見たい、条件を教えてほしい。全部同じことだ。
指先がブロックボタンに触れた。確認のポップアップが出て、「はい」を押した。
ノートの早川のページに横線を一本引いて、閉じた。四ページ。八か月の記録がこれだけだった。
(はい、おぢ二人になりました)
収入は減る。でも時間の無駄に手間をかけるほうが損だ。切れるおぢは早く切る。残った二人に集中する。
コンビニの袋からファミチキを出して齧った。油が指についた。ティッシュで拭いてからおぢノートの吉岡のページを開く。三十四ページ目の途中に赤い付箋がついている。
(第五章の完了印。信頼関係を作って、過去を見せて、「辛かったんだね」を引き出すところまで終わった。次は第六章、おぢに「何かできることない?」を言わせる。よし、吉岡を進める)
翌日から、吉岡への返信を遅らせた。
(マニュアルの第四章、心配させるテクニック。いつも三十分で返信していたのを、三時間空ける)
吉岡は「みうちゃん、忙しいのかな?」と送ってきた。既読をつけたまま六時間放置した。翌日の朝に短く返信した。
「ごめんね、ちょっとバタバタしてて」
それだけ。理由は言わない。
(言わないほうが相手の頭の中で勝手に膨らむ。第四章のとおり)
二日目。吉岡が夜に「大丈夫?」と送ってきた。翌朝まで返信しなかった。朝になって「大丈夫だよ! ごめんね」と返信した。ハートの絵文字はつけなかった。
いつもつけているものを外す。それだけで相手は何かを感じる。
吉岡は昼に「みうちゃん、無理しないでね」と送ってきた。既読をつけたまま放置した。夜になっても返信しなかった。
三日目の夜、下書きを三回直してから送った。
「よっしー、ちょっとLINEできなくなるかも」
泣いている顔の絵文字をひとつ。
一分後に返信が来た。一分。吉岡にしては遅い。普段は三十秒で来る。文面を考えていたのだろう。
「え、どうしたの? 何かあった?」
(来た。心配のサイン)
すぐには返信しない。四時間待った。深夜になって短く打った。
「ううん、なんでもない。心配かけてごめんね」
(「なんでもない」は「聞いてほしい」の裏返し。おぢは勝手にそう読み替える。第四章のとおり)
翌朝、吉岡から長い返信が来ていた。スマホを開いたら未読が三件あった。深夜に二件、朝に一件。最後の一件だけ読んだ。
「みうちゃん、困ってたらいつでも言ってね。親御さんには相談した? 一人で抱え込まないでほしいな」
(出た。「親に相談しなよ」。マニュアルが死の言葉と呼ぶやつ。親を出されたら全部終わる。切り返す)
返信を三十分かけて書いた。最初は「困ってるの」と打って消した。重い。次は「大丈夫だよ」と打って消した。安心されたら終わりだ。三回目で送った。
「お母さんには迷惑かけたくないの。わたしのことで泣かせたくなくて。友達もいるけどこういう話できなくて……よっしーにしか言えないの」
泣いている顔の絵文字をひとつ。
(嘘はついていない。母に相談しても泣き声が返ってくるだけなのは本当のこと。友達にこういう話ができないのも本当だ。本当のことを並べて、頼れない子を見せているだけ。嘘はひとつもない。ひとつも)
その夜、吉岡から短い返信が来た。
「僕にできることなら、するよ」
美月はスマホを二度見した。
(きた。第六章のサイン。おぢが「何かできることない?」と言ったら、頂く準備が完成した合図。吉岡の言い方だと「僕にできることなら、するよ」になる。三日だった。返信を遅らせてから三日で来た)
おぢノートを開いて、吉岡のページに赤い線を引いた。
よしおか:第六章到達。「僕にできることなら、するよ」。日付と時刻を記入。
これで吉岡は次の段階に入った。「どうしよう」を送って、口座を教えれば金が来る。ただし急がない。今週中に送るのは早すぎる。来週の頭がいい。
同じ週に、同じ手順を田淵に仕掛けた。
返信を遅らせた。三時間、六時間、半日。田淵の返信速度は変わらなかった。美月がどれだけ遅らせても、田淵は三秒で返信してくる。中身も変わらない。
「飯は食ったか」
「今日は雨だ。傘を持っていきなさい」
「水を飲みなさい」
短い。命令口調。心配のトーンは上がらない。美月がいくら間を空けても、田淵のLINEはいつもと同じだった。天気と飯と水。返信が遅くなったことに触れもしない。
四日目に半日空けた。田淵の朝の「おはよう。弁当持っていきなさい」に、夜まで返信しなかった。
夜の九時に「ごめんねたぶちゃん、バタバタしてた」と送ったら、三秒で「いいよ。飯は食ったか」と返信が来た。吉岡なら「何かあったの?」と聞いてくる場面だ。田淵は聞かない。
気にしていないのか、気にしていても言わないのか、どっちか分からなかった。
一週間後、美月は同じ文面を送った。
「たぶちゃん、ちょっとLINEできなくなるかも」
泣いている顔の絵文字をひとつ。
三秒後。
「そうか。無理するな」
以上。たった一行。
翌朝も「おはよう。今日も暑いぞ」が来た。何事もなかったように。昨日「LINEできなくなるかも」と送った相手に、いつもと同じおはようを送ってくる。
「何かあったの?」が来ない。「僕にできることなら」も来ない。吉岡は三日で来た。田淵は一行で終わった。
(なんで聞かないの。三秒で返信してるんだから読んではいる。読んで、考えて、出てきた言葉が「そうか。無理するな」って。この人のマニュアルは第何章なのよ)
スマホを裏返して枕の上に置いた。握っていた手のひらが汗ばんでいた。
天井を見た。エアコンの風がカーテンの裾を揺らしている。
部屋の隅にミシンが一台ある。カバーを掛けたまま、埃が薄く積もっていた。
——四年前のことだった。
服飾の専門学校の一年目。最初の課題はブラウスの仕立てだった。型紙を引いて、生地を裁って、ミシンで縫った。二時間かかった。糸を切ったとき指先が震えていた。提出したら先生が縫い目を指でなぞった。爪の短い、厚い指だった。
「きれいな縫い目ね。まっすぐ」
それだけだった。上手いとも才能があるとも言わなかった。縫い目がまっすぐだと言っただけだ。教室の窓から夕焼けが差していた。たぶん嬉しかった。型紙の引き方をもっと覚えたいと思った。
二年目の学費が払えなかった。母に相談したが返事は泣き声だった。学費のことで泣いてるのか別のことで泣いてるのか分からなかった。中退届を出して、ミシンだけ持って大久保のワンルームに越してきた。
——まめが回し車を回し始めた音で、戻った。
ミシンはあのときのまま部屋の隅にある。カバーの上の埃は四年ぶんだ。使う予定はない。縫い目がまっすぐだと言われた日のことは、この部屋でいちばん値段のつかない記憶だった。
おぢノートの田淵のページを開いた。十七ページ。吉岡の半分だ。
書いてあることは返信速度と、短い言葉の記録ばかりで、攻略に使える情報がほとんどない。趣味の欄は空白。好きな食べ物の欄も空白。聞いても答えてくれないのだから書きようがなかった。
(まあ、いっか。田淵はあとで考える。先に吉岡を進めよう)
その夜、蓮から電話が来た。
「みう、今月足りないんだけど」
甘い声がいつもより低かった。月末が近づくと蓮の声のトーンが下がる。
「ごめんね、蓮くん。もうちょっとだけ待って」
「いつまで?」
「来月には少し入れるから」
「少しってどれくらい? 足りないんだよね、俺も」
(売掛四百八十万。あたしがおぢから頂いた金は全部ここに流れて、蓮の売上になって、店に吸い上げられる。蓮はまた「足りない」って言う。ずっと足りない)
「がんばるから。もうちょっとだけ」
「みうならできるよ。信じてる」
(「信じてる」。蓮くんがそう言うとき、あたしは嬉しくなる。嬉しくなって、がんばろうって思う。マニュアルの第四章に書いてあることと同じだ。「あなたを信じてる」は「もっと出して」の丁寧語。分かってる。分かっていて嬉しい)
電話が切れた。部屋は静かだった。まめがケージの隅で丸くなっている。「信じてる」の声がまだ耳に残っていた。
美月はスマホを開いて吉岡のトークを開いた。カーソルが点滅している。下書きを打ち始めた。
「よっしー、あのね。実は……どうしよう」
指が止まった。
(田淵の「そうか」が浮かんだ。なんでこのタイミングで)
「どうしよう」の一言で金が動く。吉岡は「僕にできることなら」と言った。「どうしよう」を送れば「何があったの」と聞いてくる。お金のことだと匂わせれば口座を聞いてくる。聞いてきたら教える。それだけのことだ。
田淵にも同じ「どうしよう」を送ることになるのだろうか。あの人は「どうしよう」と言ったら何て返信してくるのだろう。「そうか」だろうか。「無理するな」だろうか。
(やめよう。今は吉岡だけ考える)
送信はまだ押さない。間を取る。急がない。今は下書きを保存するだけ。
窓の外で蝉が鳴き止んでいた。九月が来る。
まめが回し車を回している音だけが、部屋に残っていた。ミシンのカバーの上の埃が、エアコンの風で少しだけ揺れた。美月は下書きを保存して画面を閉じた。




