第2話: 第五章、信頼関係
本当の過去には、値段がつく。
七月に入って、梅雨が明けた。
日曜の午後、美月の部屋にあかりがいた。二十歳。レイナから回されてきた後輩で、マニュアルは自分で買ったが使い方が分からないと言うので美月が教えている。報酬はない。教える相手がいると自分の手順を確認できる。それが報酬みたいなものだった。
あかりは畳んだ座布団の上に座って、膝にノートを開いている。いつも字が小さくて声も小さい。美月はベッドに座ってスマホの画面をあかりに向けた。まめがケージの中で回し車を回している。
「第五章、信頼関係。ここからが本番ね」
「はい」
「おぢと毎日LINEして、おはようとおやすみが定着したでしょ。ここまでが第四章。次。思い出を作る」
「思い出って、会うんですか」
「会わない。LINEだけで作る」
美月は吉岡に送った画面をスクロールして見せた。
「ここ。『よっしーにだけ話すね。わたし昔ね、お菓子作るのが好きだったんだ。お母さんが忙しい日は自分でホットケーキ焼いてたの』」
スクロールを止めた。
「これ。嘘でもいいけどあたしは本当のことを使う」
(本当のことのほうが、盛らなくていいから楽)
「で、次の日にこれ。『よっしーとお菓子作りたいな、いつか』」
「……それが、未来形色恋ですか」
「そう。一緒に何かしたいって匂わせるだけ。会いたいとは言わない。おぢは勝手に期待してくれる。『いつか会える』って思わせとくのが大事」
美月はスマホを裏返して置いた。
「思い出を作って、未来を匂わせて、次が過去をみせる。順番が大事。思い出より先に過去をみせると、重たい女になって切られる。この順番でやるの」
あかりがノートにメモを取っている。ペン先がかすかに震えている。美月が最初にレイナに紹介されたとき、自分もこんなに怖がっていたかなと思った。たぶん怖がっていた。忘れただけだ。
「あと、絶対にやっちゃだめなこと。五章まで来てないのに振り込みの話を出したら、その日で切られる。あたしの最初の二人、全部それで失敗した」
「はい」
「こっちはか弱い女の子。お金のことなんか考えてない純粋な子。それを崩さない。お金は向こうから出してくるの。出してくるまで待つ」
あかりの字がさらに小さくなった。美月はベッドの脇に置いたペットボトルの水を飲んだ。
「じゃあ次、やってみるね。過去をみせる」
美月はスマホを手に取って、吉岡に一通打った。あかりに画面を見せながら。
「よっしーにだけ話すね。わたしね、お父さんいないの。小さい頃にね、出ていっちゃって」
末尾に泣いている顔の絵文字をひとつ。五十円ぶん。
「第五章の三番目、過去をみせる。おぢに本当の話をする段階。嘘でもいいんだけど、あたしは全部本当のことを使う」
「本当の、ことを」
「うん。あたしの父親は酒飲んで母親殴ってた。あたしのことも殴ってた。中学のとき出ていった」
同じ声で続けた。
「埼玉の団地で育って、服飾の専門学校に入ったけど一年で金が続かなくて辞めた。全部本当」
あかりの手が止まった。ノートの上に置かれたペンが転がって畳に落ちた。
「……全部、本当なんですか」
「本当。だから盛らなくていい。嘘つくと細かいところが辻褄合わなくなるの」
美月は指を一本立てた。
「『いつ出ていったの?』って聞かれたときに、嘘だと考える時間がかかる。本当なら考えなくていい。本当のことを選んで出す。足さない。削るだけ」
送信ボタンを押した。あかりがペンを拾って膝の上に戻したが、何も書かなかった。まめが回し車を止めて、ケージの隅で毛づくろいを始めた。
十分ほどして吉岡から返信が来た。
「みうちゃん、辛かったんだね。話してくれてありがとう」
(きた。マニュアルどおり。心配のフェーズに入った。次は「何かできることない?」が来る。来たら第六章)
美月はあかりに画面を見せた。
「ほら、『辛かったんだね』。この次に必ず来る言葉があるの。『何かできることない?』。言わせたら頂く準備が完成する」
「……おぢの人たち、みんな同じことを言うんですか」
「言う。言い方は違うけど、意味は同じ。心配して、助けたくなって、金を出す。吉岡は『何かできることない?』。同じこと」
あかりはノートを膝の上に置いたまま美月の顔を見ていた。ペンを拾わない。
「……みうさんは、怖くないんですか」
「怖い?」
「本当のことを、売るのが」
美月は一瞬だけ考えた。窓から七月の日差しが入って畳の端に光の帯を作っている。ケージの隅でまめが餌をかじっている音がする。
「怖くないよ。設定だから」
「……設定」
「あたしの過去に値段がつくなら使う。父親が殴ってたのは変えられないし、専門中退したのも変えられない。だったら材料にする」
あかりは何も言わなかった。美月は自分が言ったことを頭の中で繰り返した。嘘は言っていない。怖いかどうかを考えたことがなかった。考えないのは得意だ。
あかりがノートの脇に置いたスマホを持ち上げた。下書き画面が開いている。
「みうさん、これ、送る前に見てもらえますか」
美月が画面を覗いた。あかりが自分のおぢ宛てに準備した文面だった。読んで、すぐ気がついた。
「あかり、これ『よっしー』のままだよ。あんたのおぢ、よっしーじゃないでしょ」
「……あ」
「コピーしたら名前は必ず直す。名前間違えたら一発で終わるからね」
「すみませ……」
語尾が消えた。あかりが慌てて画面を直している。美月は笑った。自分も最初にやった。レイナに怒られた。
「あと、もうひとつだけ。これは一番大事」
美月はまめのケージの前にしゃがんだ。まめが鼻をひくひくさせて美月の指の匂いを嗅いでいる。
「マニュアルの禁則。おぢに『助けて』って言わない。向こうが出してくるのを待つの。こっちから求めたら、頂きじゃなくてタカリになる」
「……はい」
「助けてって言ったら、負けなんです」
自分の声が思ったより静かに出た。あかりのノートの上に、さっき落ちたペンがまだ転がっている。
(マニュアルの禁則。一年半守ってきたルール。おぢには絶対に助けてって言わない。言ったら終わり。助けてって言わないから、おぢは助けたくなる。求めないから、出してくる。それがこの仕事の全部)
あかりが何か言いかけたとき、スマホが震えた。DMの着信。レイナだった。
「ちょっとごめん」
美月は台所の隅に立って応答した。
「あかりちゃん来てんの?」
「うん。教えてる」
「えらいじゃない」
「まあ」
「で、吉岡さんはどう」
「第五章まで来た。過去をみせるとこ。反応よかった」
「そう。三百万までよ。それ以上はバレる」
レイナの声はいつもと変わらない。金額の話をするときもトーンが動かない人だった。相手がいくら泣こうが怒ろうが、レイナの声は平らだ。美月はそれを尊敬している。自分はまだ、そこまでいけない。
「蓮の売掛は」
「四百八十万」
「減ってないじゃない。吉岡さんから三百万入っても足りないでしょ。田淵さんは動いてるの」
「微妙。マニュアルどおりにいかないんです。『何かできることない?』を言わない。飯食ったかとか、傘持てとか」
「いかない人は切りなさい。時間の無駄よ」
(切れないんだよなあ。三秒で返信してくる人を、どう切るんだよ。第何章にも当てはまらない人を、どの段階で切ればいいのか、マニュアルに書いてない)
「考えときます」
レイナが切った。画面が暗くなって、台所の蛍光灯が妙に白く見えた。三百万。四百八十万。差し引いても百八十万足りない。足りないぶんは田淵から引かないといけない。マニュアルどおりにいかない人から。
台所を出ると、あかりが玄関で靴を履いていた。
「帰る?」
「はい。今日はありがとうございました」
七月の夕方の空気が廊下から流れてくる。蒸し暑い。梅雨が明けたばかりの空は白くて高い。あかりは小さく頭を下げて、手に持ったノートを胸に抱えて階段を降りていった。
あかりが帰ったあと、美月はベッドに座ってスマホを開いた。
吉岡に送ったのと同じ話を、田淵にも送る。文面は少しだけ変えた。おぢノートにはおぢごとの口調が全部書いてある。吉岡には甘く。田淵には素朴に。
「たぶちゃん、あのね。わたし実は、お父さんいないの。小さい頃に出ていっちゃって。団地で育ったの」
泣いている顔の絵文字をひとつ。吉岡に送ったのと同じ話。同じ過去。同じ本当のこと。
(第五章。あたしの過去は設定で、設定には値段がある。二人に同じ設定を売ってるだけ)
三秒後、返信。
「そうか」
それだけ。
美月はスマホを枕に置いて天井を見た。同じ話を同じ日に二人に送ったのに、返信がまるで違う。吉岡なら「辛かったんだね」「話してくれてありがとう」。早川なら既読無視。田淵は「そうか」。
(そうか、って何。怒ってない。心配してる感じもない。でも三秒で返信してるんだから読んではいる。読んで、考えて、出てきた言葉が「そうか」。何章だよこの人)
おぢノートを開いて、田淵のページに一行書き足した。
たぶち:過去の話→「そうか」。以上。辛かったねも何かできることもない。ただ、そうか。
夜、コンビニに寄った。夜勤の日ではないが、まめの餌がなくなった。
レジにタケルがいた。日曜夜のシフトはだいたいこの男だ。
「今日シフトじゃないだろ」
「買い物」
「まめの餌?」
「とファミチキ」
「それだけの人生だな、篠原」
「うるさいな」
タケルがレジを打ちながら言った。蛍光灯の下でタケルの顔が白い。日曜夜のコンビニは客が少なくて静かだった。
「今日の鮭弁、二個余ってる。廃棄まであと四十分くらい。待つ?」
「待てない。帰ってまめにごはんあげなきゃ」
「まじ? もったいな。鮭弁だぞ」
「明日もらう」
「おう。明日まで残ってたらな」
ファミチキとまめの餌を受け取った。袋に入れてもらいながら、タケルが軽い声で言った。
「篠原って休みの日なにしてんの」
「副業」
「あの怪しいやつ?」
「怪しくない」
(怪しいけど)
「ノートに書くやつだっけ」
「そう。顧客管理」
「その顧客管理って、楽しいの?」
「楽しくはないよ。仕事だから」
「まあ、楽しくない仕事はここだけで十分だよな」
タケルはそれ以上聞かなかった。レジの向こうから「じゃあな」と手を振った。美月も手を振った。この男は聞きすぎない。踏み込まない。深夜二時のバックヤードとレジ前の蛍光灯の下だけの関係で、それで十分だった。
大久保の部屋に戻った。まめに餌をやって、ファミチキを食べながらおぢノートを開いた。吉岡のページに今日のやり取りを記録する。「第五章完了。過去をみせる→辛かったんだね→完璧な反応。次は第六章、何かできることない?を待つ」。ペンが走る。吉岡のページが、また一枚増えた。
シャワーを浴びて布団に入った。まめが回し車を回す音を聞きながら目を閉じる。窓の外は蒸し暑い。エアコンの温度を一度下げた。
(まあ、いっか。寝よ)
翌朝。六時五十八分。スマホが震えた。
田淵から。
「おはよう。今日は暑くなるから、水を持っていきなさい」
(え)
美月はベッドの上で画面を見た。六時五十八分。あたしが七時に送る前に、田淵のほうから来た。
(初めてだ。いつもはあたしが七時に送って、三秒後に返信がくる。今日は逆。田淵が先に来た。おぢから先に送ってくるのは吉岡でもなかった。なんで。昨日の過去の話のせい?)
ノートを取ってページを開いた。
たぶち:6:58。先に来た。初めて。
ペンを置いて画面を見た。「水を持っていきなさい」。窓の外はもう明るくて、七月の朝の光が白い。「そうか」しか言わなかった人が、翌朝は先におはようを送ってきた。
(第何章だよ、これ)
美月は返信を打った。
「おはよう! たぶちゃんのほうが早いじゃん。ありがとう」
泣いている顔の絵文字は、つけなかった。




