第1話: おはようの相場
「おはよう」には、相場がある。
篠原美月の相場は、ひと月で三万円だった。毎朝七時に「おはよう」を送り続けて三十日、三十一日目に「どうしよう」を送ると、三万円が振り込まれる。美月はこれを仕事だと思っている。履歴書に書けないだけで。
朝の七時。ワンルームのベッドの上で、美月は寝癖のまま親指を動かした。
「おはよう! たぶちゃん、今日もお仕事がんばってね」
末尾に、泣いている顔の絵文字をひとつ。これで五十円ぶん、というのが彼女の見立てだ。少しだけ言葉を変えて、あと二人にも送る。
(はい、今日のノルマ終わり。ファミチキ買お)
送った相手は三人とも、五十を過ぎた独り身の男だった。美月は彼らを、マニュアルどおりに「おぢ」と呼ぶ。三秒後、たぶちゃんから返信が来た。
「おはよう。今日は雨だから、傘を持っていきなさい」
マニュアルには、三秒で返信してくる男の扱い方は書いていなかった。
窓の外は梅雨の灰色だった。六月。
部屋は六畳のワンルームで、ベッドと、ハムスターのケージと、使っていないミシンが一台ある。家賃六万八千円。
角部屋という以外にとりえはない。美月はベッドに転がったまま画面を見ている。
おぢはふつう、もっと違う返信をする。吉岡なら「みうちゃんも傘持ったかな?」、早川なら既読無視。
田淵のは心配というより命令だ。工場で部下に言うのと同じ口調なのだろう。
田淵のプロフィールを開いた。年齢五十七。川口市。製造業。写真は工場の前で撮ったらしい一枚で、笑ってもいない。趣味の欄は空白。自己紹介も空白。
(なんでマッチしたんだろ、この人)
吉岡にはハートの絵文字をふたつ付けて送った。
「今日もがんばってるよっしー大好き」
早川には弱さを見せる言い方。
「はやかわさん、お仕事忙しそうだけど体壊さないでね?」
三人に送る言葉はひとつも同じじゃない。全部ノートに書いてある。
おぢノートの八十七ページのうち、吉岡に使ったのは三十二ページ。心配する頻度、好きな話題、返信が遅い曜日まで記録してある。
早川は四ページ。田淵は最後の一ページだ。三行しか埋まっていない。
十五分ほど経って、吉岡から返信が来た。
「みうちゃん、おはよう。今日は雨なんだね。風邪ひかないようにね」
(よっしーはいい子。心配の言葉が増えてきた。マニュアルの第五章――信頼関係を作るフェーズね。もうちょっとで次いける)
早川からの返信はない。
(まあいいや。あの人はそのうち「会おう」って言い出す。テイカーっぽい)
テイカーは金を出さずに会おうとする男のこと。時間をかけても仕方がない。見極めは三通で終わる。
最初の二人は失敗した。序盤で金の話をして切られた。おぢノートをつけ始めたのは、同じ間違いを繰り返さないためだ。
美月はスマホを閉じて、枕に顔を埋めた。まめが回し車を回す音がかりかり聞こえている。今日はコンビニの夜勤がある。それまで寝る。
目が覚めたのは夜の十時だった。カーテンの隙間から、向かいのアパートの明かりが見えた。シャワーを浴びて、まめの水を替えて、冷蔵庫の中身を確認した。何もない。
財布の中身も確認した。千二百円。
コンビニの夜勤は深夜十一時から朝七時まで、週に三回。新大久保寄りのそのコンビニでレジを打つのが美月のもうひとつの仕事だった。
もうひとつの、表のほう。レジの前に立つときはエプロンをつけて髪をまとめて名札の「篠原」を胸に留める。ここでは二十二歳のアルバイトだ。
蛍光灯の白い光。午前一時を過ぎると客はほとんど来ない。深夜二時、廃棄弁当の仕分けをしていたら、タケルが商品棚の裏から顔を出した。
「篠原さあ、また休憩中にスマホいじってたでしょ」
「見てたの」
「見てた。三人くらいに似たようなの送ってなかった?」
「送ってないし」
「嘘つけ。画面見えてたぞ」
(観察力だけは無駄にいいんだから、この男)
美月はパンの袋をタケルの頭に投げた。
「副業みたいなもん」
「副業? なんの」
「言わない」
「えー、怪しいやつ?」
「怪しくないし。ノートつけてるだけ」
エプロンのポケットから手帳サイズのノートを振って見せた。どこにでもある、表紙に何も書いていないノートだ。
「なにそれ」
「顧客管理」
タケルが手に取ってぱらぱらめくる。名前と日付、返信の時間帯、口癖、送った絵文字の種類が並んでいる。八十七ページ。
「まじ? すげー細かいな」
「書かないと忘れるんだよね」
「スマホのメモじゃだめなの」
「アプリに残すと怖いから。紙がいい」
(おぢノート。あたしの全財産。なくしたら終わる)
タケルはすぐにノートを返した。人のことを詮索しないのがこの男のいいところだ。
「篠原って昼は何してんの?」
「寝てる」
「ずっと?」
「スマホいじったり。まめの世話したり」
「それニートじゃん」
「副業してるっつの」
タケルは美月より二つ上の二十四歳。大学を出たのに就活をやめて、今はここで週五の夜勤をしている。
お互いの事情は聞かない。名前で呼ばない。深夜二時のバックヤードだけが接点で、それで十分だった。
タケルが棚からコーヒーを二本取った。廃棄じゃない。自分の財布から出している。
「あったかいやつ。いる?」
「いる」
缶を受け取った。指先があったかい。
(あたしの食費は一日五百円。という設定)
実際はまめの餌に消える。まめはジャンガリアンハムスターで、美月の部屋で唯一、餌をやったぶんだけ正直に太る生き物だった。餌代のほうが食費より高い。
「あ、帰りにまめの餌買わなきゃ」
「ハムスターの餌って高いの?」
「あたしの食費より高い」
「まじで?」
「まじで」
タケルが笑った。美月も笑った。この男の前では「みう」じゃなくていい。「篠原」でいい。それだけで楽だった。
「あとさ、鮭弁あるよ。二個。一個いる?」
「いる」
「あとツナマヨのおにぎり三つ、店長が棚卸しする前にバックヤードに避難させといた」
「天才」
「だろ」
タケルは廃棄弁当を配る天才だった。近所の野良猫にまで配っている。
美月は鮭弁当を受け取りながら確かめた。この男は知らない。美月が誰に何を送っているかも、その三人から何を受け取っているかも。
タケルが知っているのは、篠原という同僚がまめというハムスターを飼っていて、副業らしきものをやっていて、食費が安いということだけだ。
(それでいい。知ってる人が増えるほど、壊れるのが早くなる)
夜勤明けの帰り道で電話が鳴った。母だった。
「美月、お母さんね、困ってるのよ」
泣き声から始まる。いつもだ。
「引き落としが間に合わなくてね。少しでいいの。お母さんだって苦しいのよ」
(はいはい。ずっと苦しいんでしょ)
「無理」
「だって美月、お仕事してるでしょう? お母さんは体がね」
「無理って言ってる。切るよ」
切った。歩道に出ると、向かいのパチンコ屋のネオンが光っていた。母はたぶん、あの光の中にいる。引き落としが何の引き落としなのかはもう聞かない。聞いても答えは嘘だから。
美月がおぢにやっていることと母がやっていることの違いが何なのか、考えるのもやめた。考えたら負けだ。
梅雨の雨が傘を叩いている。田淵に言われたとおり、今日は傘を持ってきた。
(なんで持ってきてんだろ。おぢに言われて傘持つとか、何やってんのあたし)
考えてもしかたない。コンビニに寄って、まめの餌とファミチキを買った。
レジで「袋いりません」と言ったとき、さっきまで自分がレジの中にいたことを思い出して少し笑った。
大久保の部屋で三時間寝て、昼過ぎに起きた。夕方まで何もしない。日が落ちると、目覚ましがなくても体が勝手に動く。蓮の店が開く時間だ。化粧をして、服を選んで、「みう」の顔を作った。
おぢに送る「みう」と、蓮に見せる「みう」は少しだけ違う。おぢの「みう」は純粋で甘い。蓮の「みう」は健気で弱い。どちらも美月ではない。
その夜、歌舞伎町にいた。
店の照明は暗くて甘い。蓮の顔がいちばん映える角度に設計されている。
卓には美月が入れたボトルが二本並んでいて、隣の席では別の姫が別の担当に同じ顔で笑っていた。隣の卓でシャンパンが開いた。拍手とコール。
(みんな同じ顔で笑ってる)
担当のホストに金を使うのが姫の仕事。その金をおぢから頂くのが美月の仕事。金が回っているだけだ。
「今日も来てくれたんだ」
「うん」
「みうだけだよ、こんなこと言うの」
蓮が笑った。二十六歳。甘い声と甘い顔をしている。蓮はいつも甘い。その甘さがいくらなのか美月は一円単位で知っている。
テーブルの下でスマホを開いて、吉岡に一行送った。
「よっしーにだけ言うね。明日いいことあるよ」
(売掛四百八十万。あたしがおぢから頂いた金、全部ここに流れてく)
「蓮くん、来月には少し入れるから」
「急がなくていいよ。みうは俺の一番なんだから」
(一番ってのは、売掛がいちばん多い姫ってこと)
知っている。知っていて座っている。蓮がグラスに酒を注いだ。美月はそれを受け取って、少しだけ口をつけた。酔ったら帰れなくなる。ここで酔ったら余計な金を使う。
「最近、無理してない?」
「してないよ」
「みうは頑張りすぎるから。心配になる」
(あたしが頑張ってるのは、あなたの売掛のためなんだけど)
「大丈夫だよ。蓮くんに会えるから頑張れるし」
蓮が『みうだけ』と言うと、美月はグラスを見る。考えないのは得意だ。母の電話のときも、おぢノートを書くときも、蓮にボトルを入れるときも、ずっとそうしてきた。
「蓮くん、あたし帰るね。明日も朝から仕事だから」
「おつかれ。気をつけてね」
店を出ると歌舞伎町の空気は生ぬるかった。六月の夜の雨は冷たくない。ネオンの看板が雨に滲んでいる。
酔った客を送り出すキャッチの声。タクシーが水を跳ねて走っていった。
傘はさっきのがある。田淵に言われて持ってきた傘をさして、おぢの金を蓮に使う店から帰っている。
(帰ったらまめにごはんあげなきゃ)
それだけ考えて歩いた。
大久保の部屋に戻ると、まめが回し車を回していた。ケージに餌を入れてやると、まめは頬袋をぱんぱんにしてケージの隅に座った。
安心すると隅に行く。美月はまめのことなら、おぢノートより詳しい。
鮭弁当を半分食べて、残りはラップをかけて冷蔵庫に入れた。スマホを開く。
吉岡からは昼に返信が来ていた。
「今日のお昼は何食べたの? みうちゃんはちゃんと食べてる?」
(食べてない。あとで「コンビニのサラダ食べたよ!」って返そ。第五章――嘘はつかなくていい、本当のことを選んで話せばいいだけ)
田淵から、夜の九時に一通来ていた。
「飯は食ったか」
短い一言。絵文字なし。スタンプの使い方を知らないのか、全部文字で返信してくる。
吉岡は「ちゃんと食べてる?」と聞いてくる。蓮は「無理してない?」と聞いてくる。田淵だけが「飯は食ったか」と言う。疑問文ですらない。
(なにこの人。第何章?)
マニュアルは全十章ある。出会いから撤退まで、段階ごとに手順が書いてある。
心配する言葉が増えたら次へ進め。「何かできることない?」を言わせたら頂く準備は完成。テイカーは三通で切れ。ギバーは三百万まで。
田淵はどれにも当てはまらない。
心配しているようだが「何かできることない?」とは言わない。返信は三秒なのに中身は短い。傘を持っていけ、飯は食ったか。工場の上司みたいなことばかりだ。
頼んでもいないのに生活の心配をして、それ以上は何もしない。金も出さない。会おうとも言わない。
(この人には、マニュアルに章がない)
おぢノートを開いて、田淵のページに一行書き足した。
たぶち:返信3秒。七時に送ると、七時のうちに返信がくる。川口の工場? 「飯は食ったか」って何?
疑問符を書いて、消して、もう一度書いた。書かないと気が済まない。この人がわからないのが気持ち悪い。
ペンを置いて天井を見た。まめの回し車がかりかりと回っている。雨はまだ降っていた。
明日も七時に、おはようを送る。三万円ぶんの、五十円ぶんの、おはようを。




