第10話: 被害者は三人のはずだった
七月の法廷は、冷房が効きすぎていた。
美月は被告人席に座っていた。弁護人が差し入れた白いブラウスに、ボタンを首まで留めている。手首が細くなっていた。四か月前に着ていたスウェットより、ブラウスのほうが襟元の骨が目立った。髪は後ろで一つにまとめている。化粧はしていない。
手を膝の上で重ねた。指先が冷たい。
起訴から三か月。公判の一日目だった。今日と明日の二日間で、証人が呼ばれる。
正面に裁判官。手前の左右に検察官と弁護人が向かい合っている。証言台が、美月の斜め前にあった。そこに立つ人の横顔が見える位置だ。
傍聴席は二十席あった。半分ほどが埋まっている。記者らしい男が二人、ノートを膝に置いていた。スーツの女が一人、腕を組んで座っている。
奥の端に、見覚えのある横顔があった。
吉岡の、娘だ。
髪が短くなっていた。三か月前、美月のワンルームの前に立ったときは肩まであったのに、今は耳が出るくらいまで切っている。膝の上で拳を作って、まっすぐ前を見ていた。
検察官が立ち上がった。
「証人を呼びます」
吉岡修が入ってきた。紺のジャケットに白いワイシャツ。六十三歳だと、起訴状に書いてあった。白髪のほうが多い。背中が丸くなっていて、歩幅が狭かった。ジャケットの肩が少し余っている。半年前は、もう少し体格のある人だったのかもしれない。
(よっしー)
膝の上で、指が動いた。画面越しに「よっしー」と打っていた指だ。
吉岡が証言台に立った。台の縁を両手で握って、膝を揃えた。マイクの高さを確かめるように見て、それから顔を上げた。
「証人と被告人の関係を教えてください」
「マッチングアプリで、知り合いました」
声が震えていた。法廷に小さく響いた。
「いつ頃のことですか」
「去年の六月です。妻が三年前に亡くなりまして……ずっと一人でしたので、アプリを入れてみました。娘に心配されて」
「被告人と直接会ったことは」
「ありません。一度も」
「やり取りはすべてLINE上ですか」
「はい。毎朝のメッセージと、夜に少し」
検察官が書類をめくった。
「証人が被告人に渡した金額の合計を教えてください」
「二千三百万円です」
傍聴席が、一瞬だけ静まり返った。記者の一人がノートに数字を書きつけた。
吉岡の指が、証言台の縁で白くなった。
「最初はいくらでしたか」
「三百万です。借金で困っていると聞いて……それだけなら、と思いました」
「そのあとは」
「月に一度くらい、同じくらいの額を。何回かは……正確には覚えていません」
「合計で八回以上の送金が記録に残っています」
「……はい」
「二千三百万の原資は何でしたか」
吉岡が、一度だけ目を閉じた。証言台の縁を握る手に力が入った。
「家内の遺した預金です。三年前に亡くなりまして。娘の学費に充てるつもりでした」
「娘さんの学費、でした」
「はい。……娘の学費でした」
声が途切れた。吉岡はジャケットのポケットからハンカチを出して、目を一度だけ押さえた。ハンカチが白かった。
「すみません」
「続けられますか」
「はい。大丈夫です」
ハンカチをしまって、証言台の縁をもう一度握った。
「なぜ、それだけの金額を渡し続けたのですか」
「毎朝、七時にメッセージが来るんです。おはよう、って。そのあと五分くらい、天気の話とか、昨日食べたものの話とか、他愛のない話です」
吉岡は天井を見た。蛍光灯がまぶしいのか、少し目を細めた。
「でも、その五分がないと、朝が始まらなくなりました。家内が死んでから、家に誰もいないんです。テレビをつけても、話しかけてくれる人はいない。朝起きて、誰もいなくて、顔を洗って、誰もいなくて。あの子の……みうさんのメッセージだけが、毎朝ちゃんと来るんです。七時に」
吉岡は天井から視線を下ろして、自分の手を見た。
「朝の六時五十五分くらいから、台所のテーブルで携帯を手に持って待つようになりました。七時丁度に来るんです。来ない日は、一日もなかった。雨の日も、正月も、家内の命日の朝も」
美月は、膝の上の手をきつく握った。
「送金の途中で、疑いを持ったことはありますか」
「……一度だけ。娘に学費を払えなくなるかもしれないと思ったときに、少し。でも翌朝もおはようが来て、大丈夫だと思ってしまいました。あの子が嘘をついているとは、思えなかったんです」
「なぜ、思えなかったのですか」
「一年間、毎朝七時に、おはようを送り続けてくれた人です。あの子が嘘をついているとしたら、一年間の朝の五分が全部嘘だということになります。そんなことをできる人が、いるとは……思えなかったんです」
「それが送金を続けた動機ですか」
「頼ってくれていると思ったんです。こんな年寄りでも、誰かの役に立てるのかと。娘にも、こんなふうにしてやれなかったのに」
検察官が、一瞬だけ手元に目を落とした。
「娘さんの大学については」
「やめました。二年生の途中で。学費が、なくなったので」
吉岡の声が、ほとんど聞こえなかった。裁判官がマイクの位置を直した。
「娘さんに、どう説明しましたか」
「……しばらくは、何も言えませんでした。通帳を見せたのは、三か月くらいあとです」
「娘さんは何と」
「何も言いませんでした。通帳を返して、部屋に戻って。それから二日間、口をきいてくれなかった」
傍聴席の奥で、結衣が膝の上で拳を作り直した。
「最後に一点だけ。証人は被告人に対して、現在どのような感情をお持ちですか」
吉岡が、初めて美月のほうを見た。
蛍光灯の下で、六十三歳の男の目が赤かった。怒りかもしれないし、別のものかもしれなかった。美月にはわからなかった。わかるのは、毎朝七時に「よっしー」に送っていたおはようの一言の重さだけだった。
「あの子は、元気にしていますか」
検察官が止まった。
美月は口を開きかけた。被告人席からは答えられない。唇が動いただけで、声にはならなかった。
「質問の趣旨とは異なりますが」
「すみません。聞きたかっただけです」
検察官が書類を閉じた。
「以上で質問を終わります」
弁護人は質問がなかった。裁判官が吉岡に「ありがとうございました」と言った。吉岡が深く頭を下げて、証言台を離れた。台の縁を離すとき、指がこわばっていた。足取りが重かった。傍聴席を見ないまま、来たときと同じ狭い歩幅で、入ってきたドアへ消えていった。
傍聴席の奥の端で、結衣が唇を噛んでいた。
美月は、それに気づいた。
結衣と、目が合った。
美月は逸らさなかった。結衣も逸らさなかった。
法廷は静かだった。記者のペンの音も止まっていた。何秒か過ぎた。裁判官が書類を揃える音がして、結衣のほうが先に膝の上に視線を落とした。
美月は、まだ見ていた。結衣の横顔は、吉岡に似ていた。目の周りと、唇を引き結ぶ癖が。あの夜、ワンルームの前に立っていたときと同じ目をしていた。
十五分の休憩があった。美月は被告人席のまま動かなかった。弁護人が水を持ってきたが、口をつけなかった。吉岡の声が、まだ法廷の空気に残っている気がした。
早川徹が証言台に立った。
四十九歳。ネイビーのスーツにストライプのネクタイ。靴を光らせて、背筋を伸ばしている。吉岡が証言台の縁を握って声を震わせていたのとは、何もかもが違った。早川は両手を体の横に下ろして、胸を張って検察官を見ていた。
「証人と被告人の関係を教えてください」
「マッチングアプリで知り合いました。三か月くらいですかね」
「記録では、実際のやり取りは三通です」
「まあ、そうですけど。アプリのほうでは何回かやり取りもしてたんで」
「証人が被告人に渡した金額を教えてください」
「六十万です」
傍聴席の空気が変わった。さっきとは違う意味で、変わった。吉岡の二千三百万のあとでは、六十万という数字がひどく小さく聞こえた。
(六十万。一か月ぶんの売掛にもならない)
自分がまだこういう計算をしていることに、美月は気がついた。被告人席に座っていても、頭の中のそろばんは止まっていなかった。
「どのような名目で渡しましたか」
「名目っていうか、会う約束の手付みたいなもんですよ。俺は最初から、ちゃんと会うつもりだったんで」
「被告人から金銭の要求はありましたか」
「されてませんよ。困ってるっぽかったから、こっちから出したんです。俺が選んだんですよ」
検察官が間を取った。
「選んだ、とは」
「だから、助けてやろうと思ったんですよ。向こうも俺のこと気に入ってたと思いますよ。ブロックされるまでは」
早川は証言台に肘をついた。裁判官が一度、咳払いをした。早川は肘を下ろさなかった。
「被告人にブロックされたのですか」
「三通目でですよ。意味分かんないですよ、六十万も出して」
「三通のやり取りだけで六十万を渡すことに、抵抗はなかったのですか」
「六十万くらい、飲みに行ったと思えばどうってことないですよ。独身ですし。まあ区役所の給料だと痛いっちゃ痛いですけど、そのくらいは出せるんで」
「三通目の内容を覚えていますか」
「条件があるなら先に言ってくれって書いたんです。こっちだって選ぶ立場っていうか。そしたらブロックですよ。普通、おかしいでしょう」
「それについて、どのような感情を持っていますか」
「騙されたんじゃなくて、選ばれたと思ってたんですよ、俺は」
早川は美月のほうを見た。
「まあ、結局は騙されてたんでしょうけど。三通で切るって、ちょっとひどくないですか。六十万ですよ」
傍聴席が冷えた。
記者の一人がペンを止めた。もう一人は、ノートを閉じていた。
吉岡は二千三百万を失い、娘の大学を失い、声を震わせて、それでも「あの子は元気ですか」と聞いた。早川は六十万で、「ちょっとひどくないですか」と聞いた。同じ法廷の、同じ証言台で。
傍聴席の誰も、早川に何も言わなかった。言う必要がなかった。法廷の全員が、もう答えを出していた。
「以上で質問を終わります」
早川が証言台を離れるとき、ネクタイを直した。スーツの前ボタンを留めて、背筋を伸ばした。傍聴席の視線に気づいていないようだった。
閉廷のあと、美月は廊下に出た。
窓のない、長い廊下だった。蛍光灯が白く光っている。壁と、ドアと、消火器があるだけだった。七月の外の暑さがここには届かない。法廷と同じ、冷えた空気が流れている。
久我が、廊下の奥に立っていた。傍聴席のスーツの女だと、美月は気づいた。
「篠原さん」
「……刑事さん」
久我は壁にもたれて、腕を組んでいた。しばらく黙って、美月を見ていた。
「吉岡さん、最後に何て言ったか覚えてる」
「……はい」
「二千三百万を取られて、娘さんを退学させて、それでもあなたの心配をしてる」
美月は何も言わなかった。
「あなたが一番傷つけたのは、あなたを庇っている人よ」
美月は、床のタイルの目地を見ていた。
「明日、田淵さんが証言台に立ちます」
美月の肩が、小さく上がった。
田淵。五百六十万。摘要欄に「オハヨウノオレイ」と書いて、頼まれてもいない金を振り込み続けた人。被害届を出さなかった、ただ一人の人。
美月の指が、かすかに動いた。
久我は壁から背中を離した。少しだけ美月を見て、それから背を向けた。ヒールの音が、長い廊下の奥へ遠ざかっていった。
美月はそのまま壁に背をつけて、目を閉じた。
吉岡の声が、まだ耳に残っていた。
あの子は、元気にしていますか。
一年間、毎朝七時に嘘のおはようを送り続けた相手に、吉岡は心配の言葉をくれた。二千三百万を取られ、娘を退学させ、声を震わせてハンカチで目を押さえて。それでも最後に聞いたのは、美月の体の具合だった。
美月はその人を「よっしー」と呼んでいた。毎朝五分のやり取りに三万円の値段をつけて、泣き顔の絵文字ひとつで五十円と計算していた。
冷房の音だけが、ずっと鳴っていた。




