第11話: 一万三千八百六十円
被告人席からは、証言台に立つ人の横顔しか見えない。
昨日、美月はそれを覚えた。吉岡の横顔も、早川の横顔も、半分だけ見て一日が終わった。今日、その場所に田淵が立つ。
昨夜は、なかなか眠れなかった。
どこでも眠れるのが、美月の数少ない特技だった。夜勤明けのコンビニのバックヤードでも、ネットカフェの硬い椅子でも眠れた。それが昨夜は、天井の明かりがいつまでもまぶたに透けた。
廊下で聞いた久我の声が、何度も戻ってきた。
あなたが一番傷つけたのは、あなたを庇っている人よ。
寝返りを打つと、薄い布団が擦れた。壁の向こうで、誰かが水を飲む音がした。それを聞いているうちに、やっと眠った。
朝六時に、起床の合図が鳴った。
布団をたたんで、顔を洗った。七時に朝食が来た。麦の混じったご飯と、薄い味噌汁と、のりの佃煮だった。
(のり佃煮の日は当たり。ご飯が足りなくなるけど)
箸を動かしながら、壁の時計を見た。七時を少し過ぎていた。
四か月前なら、親指が三回動いている時間だ。三人に、少しずつ言葉を変えて、おはようを。今は箸を持っている。
田淵は、今朝も送ったのだろうか。
あの人のおはようは、いつも六時五十六分に来た。美月の七時より四分早い。誰も既読をつけない画面に、今朝も同じ時刻に送っていたら。
(送ってたら、ばかだ。届かないのに)
そう思ったところで、なぜか箸が止まった。味噌汁を飲み干した。のり佃煮で、ご飯をもう一口。やっぱり足りなかった。
食器を返すと、出廷の支度だと言われた。弁護人が差し入れた白いブラウスに着替えた。昨日と同じものだ。ボタンを下から順に留めていって、最後の一つを首の下で留めた。少し苦しかった。外すかどうか迷って、留めたままにした。
小さな鏡に、顔が映った。化粧のない顔は、半年前より頬が細い。
(二月より痩せた。あの人がこれ見たら、飯は食ってるかって言うやつだ)
言われる前に、鏡から離れた。
八時過ぎに、護送のバスに乗った。
窓には白い幕が引いてあって、外は見えない。幕の隙間から七月の光が細く入って、手錠の上で揺れた。前の席の女が、ずっと膝を揺らしていた。
去年の七月にも、こういう暑い朝があった。
「おはよう。今日は暑くなるから、水を持っていきなさい」
六時五十八分だった。いつもは美月が七時に送って、三秒後に返信がくる。その朝だけ順番が逆になった。あの人のほうから先に来たのは、それが初めてだった。
美月はベッドの上で、画面を見たまましばらく固まった。それから返信した。
「おはよう! たぶちゃんのほうが早いじゃん。ありがとう」
泣いている顔の絵文字は、つけなかった。なんでつけなかったのかは、今も分からない。
(五十円ぶん、ケチった。営業としては減点)
しばらくして、あの人のおはようは毎朝先に来るようになった。傘を持っていきなさい。水を持っていきなさい。マスクをしなさい。八か月、命令形ばかりだった。絵文字はひとつもない。スタンプも使わない。値段のつけようがなかった。
バスが角を曲がって、光の筋が手首から膝へ移った。
美月は、今日のことを頭の中で組み立てた。
田淵は、騙されていないと言う。久我にそう言ったらしい。だから今日も、証言台でそう言う。
それでも、騙していたのは自分だ。調書にもそう言って、名前を書いた。
(あの人が何を言っても、こっちは「騙してました」で通す。庇われるのだけは、なし)
ついでに、ひとつ想像した。あの人が作業着のまま証言台に立つところを。ジャンパーの裾から旋盤の油の匂いをさせて、裁判官の前で「そうか」と言うところを。
口の端が、少しだけ動いた。前の席の女が振り返って、すぐに前を向いた。
裁判所の地下の、小さな部屋で待たされた。
壁際に木のベンチがひとつある。座面の端に、誰かが爪で引っかいた細い線が何本も残っていた。付き添いの女の職員が、扉の横に立っていた。窓はない。ここも冷房が強かった。
十時の少し前に、弁護人が来た。国選の、若い女の人だ。ファイルを胸に抱えて、ベンチの前にしゃがんだ。
「篠原さん。今日は田淵さんが証人です」
「知ってます」
「質問は検察官がします。こちらからは、田淵さんに質問しないつもりです」
「なんでですか」
「田淵さんのお話は、篠原さんの調書と食い違っています。こちらから聞くと、どちらに転ぶか分からないので」
弁護人は、ファイルの角を指でそろえた。
「一つだけ、確認させてください。田淵さんが『騙されていない』と言えば、篠原さんには有利に働くかもしれません。それでも、調書のとおりでいいんですね」
「いいです。騙してたんで」
答えるのに、一秒もかからなかった。
「田淵さんは、そうは思っていないみたいですけど」
「あの人、そういう人なんです。何言っても『そうか』で終わるし」
「そうか、ですか」
「そうか、です。八か月それだけ。あたしが何を送っても」
弁護人は何か言いかけて、ペンの頭で手帳を一度叩いた。
「分かりました。篠原さんのお気持ちは、そのままにしておきます」
手帳が閉じられた。
「それと、昨日と同じです。田淵さんが何を言っても、篠原さんは席から話せません」
「分かってます」
「途中で立ったりしないでくださいね」
「立ちませんよ。そういうキャラじゃないんで」
弁護人が少しだけ笑った。
「お昼は、終わってからここでお弁当が出ます」
「何弁当ですか」
「……さあ。そこまでは」
「唐揚げだったらいいな」
「篠原さん、おなか空いてるんですか」
「いつもです」
扉の横で、職員が小さく咳払いをした。笑いをこらえた咳払いに聞こえた。
(ほら。法廷の前に弁当の心配をする被告人。マニュアルにも載ってない)
弁護人はファイルの角をそろえて立ち上がった。扉の前で、思い出したように振り返った。
「田淵さん、もう廊下にいらっしゃいましたよ。一時間くらい前から」
美月は顔を上げた。
「……来てるんですか」
「ええ。ずっと同じ椅子に座ってました」
「あの人、何着てました」
弁護人は一瞬、答えかけた。それから首を少しかしげた。
「それは、ご自分で見てください」
扉が閉まった。
(作業着だな、あれは。言いにくいやつだ)
一時間前なら、川口を七時台に出ている。あの人は工場を休まない。二月の朝も、ファミレスから「工場行くわ」と帰っていった人だ。
(休んだんだ。あの人が)
職員が腕時計を見た。美月は、ベンチの端を握った。指先が冷たかった。
「篠原さん。時間です」
「はい」
立ち上がると、手錠の鎖が鳴った。職員のあとについて、細い階段を上った。上るほど、廊下の声が近くなった。誰かの靴音と、扉の開け閉めの音。そのどこかに、ずっと同じ椅子に座っている人がいる。
美月は、足元だけを見て上った。
法廷は、昨日と同じ温度だった。
手錠を外されると、手首に輪の冷たさが残った。被告人席に座って、首の下のボタンに一度だけ触った。留まっていた。
傍聴席は、昨日より埋まっていた。記者らしい男が三人に増えている。久我も来ていた。昨日と同じように、腕を組んでいた。
結衣は、いなかった。
久我が、一度だけこちらを見た。何も言わない顔だった。すぐに視線は証言台のほうへ移った。
斜め前の証言台は、まだ空いていた。木の台の縁が、蛍光灯を鈍く跳ね返している。昨日、吉岡が両手で握っていた場所だ。指の跡が残っていそうな気がして、美月はそこから目を外した。
あそこに立つ人の顔は、半分しか見えない。半分見えれば十分だ、と昨日は思った。今日は、その半分も見ないつもりでいた。
裁判官が入ってきて、全員が立った。座った。検察官が書類をそろえる音がした。
「証人を呼びます」
昨日と同じ言葉だった。
美月は顔を上げなかった。膝の上の手を見ていた。
扉の開く音がした。足音が入ってきた。急がない足音だった。床を一歩ずつ確かめるように、同じ間隔で近づいてくる。証言台の前で止まった。
裁判官に促されて、紙を読み上げる声がした。
「良心に従って真実を述べ」
そこで一度、息が切れた。
「何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います」
低い声だった。一字ずつ、寸法を読み上げるような読み方だった。
美月がこの声を聞くのは、二月の夜中以来だ。アパートの玄関の前で、飯は食ったか、と言った声だった。
検察官が立った。
「お名前を」
「田淵昭夫です」
「年齢は」
「五十七です」
「ご職業は」
「旋盤工です。川口の工場で」
「被告人とは、どこで知り合いましたか」
「マッチングアプリです」
傍聴席の誰かが、小さく咳をした。
田淵は、聞かれたことだけに答えた。それ以上は足さない。LINEと同じだった。
美月の目の端に、証言台の縁が入った。
手が載っていた。右手の人差し指の第一関節が、少し曲がっている。おぢノートの一ページ目に書いた指だ。
その手が、左の袖口をつまんで、下に引いた。袖は手首まで届かなかった。白いシャツの袖口が、指一本ぶん余計に出ている。もう一度引いた。やっぱり届かなかった。手はあきらめて、証言台の縁に戻った。
(袖、足りてない)
美月は、目だけを上げた。
証言台の田淵は、スーツを着ていた。美月は、彼のスーツ姿を初めて見た。
「証人は、被告人から金銭を要求されたことがありますか」
「ありません」
検察官が書類をめくった。
「では、合計五百六十万円を振り込んだのは、なぜですか」
「おはようが、返ってくるからです」
傍聴席が、少しだけざわついた。田淵は気にしなかった。
「毎朝、送ると返ってくるんです。工場に行く前に。それが八か月続いた。五百六十万は、その代金だと思ってます。騙されたとは思ってません」
「証人。被告人は、あなた以外の二名にも、ほぼ同じ文面を送っていました。それを知っても、ですか」
「知ってました」
美月は顔を上げた。
「三通目くらいで分かりました。あの子、コピーが下手で、たまに前の人のあだ名が残ってた」
検察官が、一度だけ息を吸った。
「では証人は、被告人が虚偽の借金を口実にしていたことも」
「はい」
「それでも、被害届を出さないと」
「はい」
裁判官が何か言いかけて、やめた。
田淵はポケットから、四つに折った紙を出した。タクシーの領収書だった。
「二月十四日の、夜中の二時二十分。川口から新宿まで、一万三千八百六十円。これだけは、証拠として出したいんです」
「何の証拠ですか」
「この子が一度だけ、マニュアルにないことを送ってきた証拠です」
美月の膝の上で、手が震え始めた。止め方が分からなかった。
「たすけて、って。ひらがなで」
法廷が静かになった。
「それだけです。金の話は、その夜は一回も出なかった。朝まで、ファミレスでハンバーグを食ってました。だから、あのひとことのぶんだけ、この子は嘘をついてません。ぶんだけ、って言い方はおかしいですね。すみません」
田淵は、証言台で少し頭を下げた。
「助けてって言われたんで、行っただけです」
美月は、声を出さずに泣いた。
「証人、着席してください」
裁判官の声が、いつもより少し遅れて聞こえた。
検察官は、しばらく手元の書類を見ていた。
「……検察官からは、以上です」
「弁護人は」
「ありません」
田淵が証言台を離れた。来たときと同じ間隔の足音で、傍聴席の端の椅子に座った。
判決は、九月に言い渡されることになった。
閉廷が告げられて、手錠がかけ直された。
美月は、被告人席からその横顔を見ていた。頬を拭くこともしないで、見ていた。
スーツの肩が、少し余っていた。袖は足りないのに、肩は余っている。ずっと昔に作った服なのだと思った。
田淵は前を向いていた。一度も、こちらを振り返らなかった。膝の上に、袖の短い両手を置いていた。




