第12話: おはよう
傍聴席の端の椅子が、空いていた。
七月に、田淵が座っていた椅子だ。証言を終えて、来たときと同じ足音で戻っていって、閉廷まで前を向いていた場所。今日はそこに誰もいない。背もたれに、冷房の風が当たっているだけだった。
(工場だ。今日、平日だし)
九月の初めの、判決の日だった。
今朝、七時に朝食の盆を受け取ったとき、親指が三回動いた。送る相手はいないし、握るスマホもない。動いたのは指だけだった。美月はその指を、もう片方の手でしばらく押さえていた。
地下から法廷へ上がる細い階段では、廊下の音に耳を澄ませた。誰かの靴音と、扉の開け閉めの音。七月に聞いた、急がない足音は混じっていなかった。
手錠を外されると、手首に輪の跡が薄く残った。
美月は被告人席に座っていた。白いブラウスは七月と同じもので、ボタンは首の下まで留めてある。外はまだ夏みたいに暑いらしい。法廷の中は、相変わらず冷房が効きすぎていた。
傍聴席には、記者らしい男が一人と、知らない顔がいくつか。後ろの列に、久我がいた。腕を組んでいる。目が合うと、久我は小さく顎を引いた。
吉岡も、結衣も、来ていなかった。
裁判官が入ってきて、全員が立った。座った。
「被告人は、証言台の前に立ってください」
職員に促されて、美月は席を立った。証言台の前まで、すぐだった。
木の台の縁が、目の前にあった。あの人の手が載っていたところだ。袖口をつまんで下に引いて、届かなくて、あきらめて戻ってきた手。美月は自分の手首を見た。ブラウスの袖は、ちゃんと手首まで届いていた。
美月は、手を縁に載せなかった。体の横に下ろして、指をそろえた。
顔を上げると、裁判官が正面にいた。
被告人席からは、ここに立つ人の横顔しか見えなかった。ここからは、裁判官の顔が真正面に見える。あの人はこの顔に向かって、おはようが、返ってくるからです、と答えたのだ。
「それでは、判決を言い渡します」
裁判官は、手元の紙に目を落とした。
「主文。被告人を、懲役三年六月に処する」
短かった。思っていたより、ずっと短かった。
(三年六月。まめ、それまで元気でいてくれるかな)
自分のことより先に、それが浮かんだ。ハムスターが何年生きるのか、美月は知らない。調べようとしたことも、なかった。
裁判官は続けて、理由を読み上げた。長かった。吉岡修という名前が、何度も出た。早川徹という名前も出た。二千三百六十万円、という数字が出た。
美月は台の縁を見ながら、それを聞いた。
毎朝七時のおはようのことが出た。どうしよう、という言葉のことも出た。マニュアルのことも、ホストクラブの売掛のことも出た。担当のホスト、という言い方で、蓮も一回だけ出てきた。裁判官の声は平らで、どれも同じ速さで読まれていった。
「被告人は得た金のほとんどを、ホストクラブの売掛の支払いに充てた」
(ほとんど、っていうか、ほぼ全部です。お母さんへの五万と、まめの餌代と、ファミチキ以外)
訂正はできない。美月は黙って、台の縁の木目を目でなぞった。
「被害者吉岡修は、亡くなった妻の遺したお金と娘の学費を失った」
美月の目の奥に、短い髪が浮かんだ。七月の傍聴席で、耳が出るくらいまで切ってあった髪。拳を膝の上で作って、まっすぐ前を見ていた横顔。
美月は台の縁から目を上げなかった。上げないまま、最後まで聞くと決めていた。
「被告人は幼いころに父親から暴力を受け、母親の借金を抱え、服飾の専門学校を一年でやめている」
自分のことが、同じ速さで読まれた。団地のことも、ミシンのことも出なかった。父の名前も出なかった。
(あたしの人生、三行で終わった。マニュアルより短い)
「しかし、そうした事情は被害者らを騙してよい理由にはならない」
それも、本当のことだった。美月は小さくうなずきかけて、やめた。うなずいていい場面なのか、分からなかった。
「被告人は捜査の段階から事実を認め、自ら被害の全てを申し述べている」
全部、本当のことだった。
読み上げの終わりのほうで、裁判官が一度、紙をめくり直した。
「なお、証人田淵昭夫との金銭のやり取りについては欺罔があったとは認められない」
ぎもう、と美月は口の中で繰り返した。知らない言葉だった。
でも、あの人の名前のあとに「認められない」がついたのは分かった。
(は? 騙したんですけど。調書に、名前まで書いたんですけど)
言いたいことは、喉の手前で止まった。ここでは話せない。弁護人に、何度もそう言われている。
記者のペンが、紙の上を走る音がした。久我は腕を組んだまま、こちらを見ていた。
裁判官は、判決に不服があるときの手続きを短く説明した。二週間、という言葉だけが耳に残った。
「以上です」
美月は、頭を下げた。
裁判官に向かって、深く下げた。顔を上げて、それから体の向きを少しだけ変えた。傍聴席の端の、空いた椅子のほうへ。
もう一度、頭を下げた。
さっきより長かった。床の木目が、一本ずつはっきり見えた。誰もいない椅子の脚が、視界の端に並んでいた。
職員の手が、そっと肘に触れた。美月は顔を上げた。
傍聴席の奥で、久我が空いた椅子のほうを一度だけ見た。それから、何も言わずに立ち上がった。
手錠をかけ直されて、横の扉へ向かった。扉の前で、美月は端の椅子を振り返った。
(いいよ、来なくて。そっちのほうが、あの人っぽい)
職員に背中を押されて、美月は扉をくぐった。
地下の小さな部屋に戻ると、すぐに弁護人が来た。ベンチの前にしゃがんで、ファイルを膝に置いた。
「お疲れさまでした」
「三年六月って、長いですか」
「……短くはないです」
「ですよね」
「上の裁判所に、もう一度判断してもらうこともできます。二週間のうちなら」
「しません」
弁護人は少し待った。美月がそれ以上何も言わないのを見て、手帳に短く何か書いた。
「あの。ぎもうって、何ですか」
「騙すこと、です」
弁護人はペンを止めた。
「田淵さんのお金については、騙したとは言えない。裁判官は、そう判断しました」
「騙しましたよ。八か月」
「田淵さんが、騙されていないと言ったので」
「あの人の言うほうが、通っちゃうんだ」
「通りましたね」
弁護人が、少しだけ笑った。
(負けた。口げんか、一回もしてないのに)
「七月の田淵さんの証言、新聞にも載ってましたよ。社会面の隅に、小さくですけど」
「なんて書いてありました」
「被害者の一人が被害届を出さなかった、って」
「……あの人、新聞に載るの嫌いそう」
「でしょうね。名前は出ていませんでした」
「それと」
弁護人がファイルを閉じた。
「タケルさんから、差し入れが届いてます。のり塩のポテトチップスと、手紙が一枚」
「手紙、なんて書いてありました」
「読めるのはあとで、職員の方からです。でも封筒の裏に、大きく書いてありました。まめは元気らしい、って」
「らしいって何。あいつ、見てないじゃん」
言いながら、口の端が上がった。弁護人も、つられたように目を細めた。
「田淵さんは今日、来られないそうです。工場があるので、と。久我さんがそう伝えてくれって」
「知ってます」
「え」
「七月に一回休んだんで。あの人、二回は休まないです」
「……何か、伝えておきましょうか。久我さん経由になりますけど」
美月は少し考えた。考えて、首を横に振った。
「いいです」
「ありがとう、とかでも」
「それ、営業っぽいんで」
弁護人は、意味を測るように美月の顔を見た。美月はそれ以上説明しなかった。ありがとう、なら八か月で何百回も送った。末尾に絵文字をつけて、一回ずつ値段をつけて。
弁護人は小さくうなずいて、腕時計を見た。立ち上がりかけて、もう一度こちらを向いた。
「向こうに移ってからも、手紙は出せますよ。決まった日に、決まった枚数ですけど」
「便箋って、中で買えるんですか」
「買えます」
「高いですか」
「さあ……そこまでは」
「切手も要りますよね」
「要ります。封筒も」
「あと、お昼のお弁当」
「はい」
「今日は何ですか」
弁護人は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「唐揚げだそうです。職員の方が言ってました」
「やった」
弁護人はファイルの間から、小さく折った紙を一枚出した。
「それと、これ。頼まれていたものです」
開くと、川口市から始まる住所が一行、丁寧な字で書いてあった。美月はそれを、また小さく折った。
「ありがとうございます」
今度のありがとうには、絵文字をつけようがなかった。
弁護人が出ていって、扉が閉まった。
美月はベンチの上で、膝の上の手を重ねた。
便箋一枚と、切手一枚。それでいくらになるのか、美月には見当がつかなかった。値段の分からないものを買うのは、たぶん初めてだった。
指先は、七月ほど冷たくなかった。
九月の半ばに、美月は栃木へ移された。
出る前に、荷物を確かめられた。白いブラウスと、着替えと、タケルの手紙と、小さく折った紙が一枚。それで全部だった。
護送の車の窓には、やっぱり白い幕が引いてあった。幕の隙間から入る光は、七月より少し低かった。
それから、二週間が過ぎた。
川口のアパートの朝は、六時に始まる。
田淵は布団を上げて、作業着に着替えた。鴨居には、スーツが一着掛かっていた。七月に一度だけ着た、袖の短いスーツだ。クリーニング屋の薄いビニールが、まだかぶせたままになっていた。
台所で、鮭の切り身を一枚焼いた。ご飯と味噌汁と一緒に、小さなちゃぶ台で食べた。皮だけを箸ではがして、小皿に取った。
窓際のケージの前にしゃがんだ。大久保の部屋から運んできたケージだ。餌入れに、ひまわりの種を足す。水を替える。鮭の皮の小皿を、入り口のそばに置いた。まめは巣箱の中で丸くなっていて、出てこなかった。
六時五十六分。
田淵はちゃぶ台の前に座って、スマホを出した。親指で、ゆっくり打った。
「おはよう。朝は冷えるようになった。上着を着なさい」
送った。既読は、つかなかった。
画面の上のほうにも、同じ時刻の吹き出しが並んでいた。傘を持っていきなさい。水を持っていきなさい。暑いから外に出るな。どれにも、既読はついていない。指で上へ送っていくと、日付は八月になり、七月になり、六月になり、五月になり、四月になった。三月の終わりで、ようやく既読のついた吹き出しが出てきた。
ちゃぶ台の上には、封筒が一通あった。昨日の夕方に届いたものだ。差出人の住所は栃木で、長い名前の施設が書いてある。封は切られていなかった。持ち上げると軽い。便箋が一枚入っているかどうかの重さだった。
宛名は、田淵昭夫様。ボールペンの字が、枠からはみ出さないように詰めて書いてあった。
右上に、百十円の切手が一枚、少し斜めに貼ってあった。
七時になった。
田淵は工具箱から、細いカッターを出した。封筒の端に刃を当てて、少しずつ切った。旋盤で寸法を出すときと同じ手つきだった。
便箋が一枚、入っていた。
開くと、罫線の上に、一行だけ書いてあった。
「おはよう」
ボールペンの字だった。少し大きくて、まっすぐだった。
あだ名は書いてなかった。泣いている顔の絵も、なかった。
それだけだった。
田淵は、便箋を長いあいだ見ていた。
それから、元の折り目どおりにたたんだ。作業着の胸ポケットに入れて、上からボタンを留めた。
壁の時計は、七時四分を指していた。いつもなら、駅のホームにいる時間だった。
小皿の鮭の皮は、いつのまにかなくなっていた。
窓際のケージで、かたかたと音がした。
まめが、回し車を回していた。




