第31話:見えざる防壁
アーク・システムズのラボに満ちていたコーヒーの芳醇な香りは、液晶画面に映し出された一条の暗号通信シグナルによって、一瞬にして凍りついた。
「手続きが……凍結された?」
液晶の青白い光に照らされた天童湊が、信じられないものを見るかのように呟いた。 つい先ほどまで、インターポールの窓口からは令状執行への確実な吉報が届いていたはずだった。だが、回線の向こうから届いた本部の捜査官の声は、鉛のように重く冷え切っていた。
『すまない、ミスター天童。……上層部から、現地の法執行機関への強制捜査要請を一時保留にするよう、強力な差し止めが入った』
「保留だって!?」 天童さんがキーボードの横を叩き、不機嫌な声を荒らげる。 「冗談じゃない! ネオ社の軍事ロボットの不正生産も、ダミー会社の不審なデータもすべてそちらに渡したはずだ! なぜ今になって踏み込めないんだ!」
『君が暴いたダミー会社の役員である、米国軍の退役した超大物高官から、地元警察の上層部へダイレクトに圧力がかかったのだ』 捜査官は静かに、だが苦渋に満ちた口調で告げた。
圧力的要請の理由は「証拠が不十分な状態での不当な立ち入り捜査であり、米国の国家安全保障を脅かしかねない越権行為である」というものだった。
『我々としてもこの圧力に屈するつもりはない。打開策が無いか動いてみる』 悔しさを滲ませたような担当者の声だった。
「迅速すぎる……」 カレンが冷めたコーヒーの入った紙コップを握りしめたまま、低く囁いた。 「インターポールが公式に動こうとした、まさにその瞬間にストップがかかるなんて。……まるで、こちらの動きがリアルタイムで筒抜けになっているようね」
「ああ、その通りだ」 片桐署長が腕を組み、冷徹な視線で液晶画面を見つめる。 「捜査が始まる前に中止の要請が入るなど、逆立ちしてもありえない。地元警察の内部、あるいはインターポール本部の連絡窓口のどちらかに、ネオ・ロボティクス社と通じている『内通者』がいることは確実だ」
「目的は一つしかないな」 天童さんが唇を噛みしめる。 「このストップは時間稼ぎだ。旧変電所に隠されている軍事用ロボットと、ネオ社の物理的な繋がりを、別の場所へすべて移動させて消し去るためのね」
カレンは静かに立ち上がった。その瞳には、鋭く揺るぎない執念の光が宿っていた。
「逆に言えば、それだけ見られたくない重要な証拠があるという証明にもなったわ。なら、ここで指をくわえて待っているわけにはいかないわ。敵が時間稼ぎをして証拠を別の場所へ運び出そうとしているのなら、その動きを完全に封じ込める。私は旧変電所でもう一度監視を行うわ。今度は隠れもせず堂々とやってやる」
「私も行こう」
「署長……ありがとうございます!」
片桐署長は不敵な笑みを浮かべ、ジャケットの襟を正した。 「フットワークの軽さだけが、今の一般旅行者の唯一の武器だからな。よし、行こうか、カレン」
「待って、二人とも!」 ハルカちゃんが心配そうに声をかける。 「謹慎中なのに、これ以上無茶をしたら……」
「大丈夫よ、ハルカちゃん。私たちはただの『旅行者』として、マンハッタンの古い施設を見物しに行くだけだから」 カレンはそう言って、ハルカちゃんへ少しだけ柔らかな微笑みを向けた。 「天童さん、旧変電所の警備スキャンデータから、行政の監視カメラがある安全な監視位置を割り出して」
「お安い御用さ。ナビは僕に任せておいて、カレンちゃん」
アーク・システムズのラボの片隅。 修復中のシオンも、今は静かにその時を待っていた。 その電子の深淵に眠るユウキは、カレンたちの命がけの執念に強く共鳴しながら、完全なる復活の時を、静かに、だが熱く待ち望んでいた。
(カレン……。僕も必ず、すぐに行くからね)
――数十分後。 冷たい乾いた風が路地を吹き抜けるクイーンズの旧変電所。その外周から少し離れた見晴らしの良い公園の脇に、片桐署長の借りたレンタカーが静かに滑り込んだ。
カレンは助手席から、天童から送られてきた地図情報と現在地を確認し 「ここなら、変電所の出入り口を視認できる最適な場所ね。行政の監視カメラもあるから下手に私たちに手出しは出来ないわ」
「よし、ここを監視の基点にしよう。出入りするすべての車両のナンバーと行先を、一枚残らずこの望遠カメラに叩き込んでやろう」 片桐署長はダッシュボードの上に超望遠レンズを構え、老デカとしての野生を研ぎ澄ませた。
カレンたちは焦る気持ちを極限まで抑え込み、冷え切った車内から、旧変電所への極秘の「包囲張り込み」を開始した。
張り込みを開始して数時間。変電所の重厚な防壁の向こうに動きはない。巨大なコンテナトラックの姿どころか、従業員の車の出入りも完全に途絶えた。
「……ピタリと止まったわ」 カレンがフロントガラス越しに、双眼鏡を覗き込んだまま呟いた。
「ああ。あいつらも、こちらに気付いたな。」 片桐署長が望遠カメラから目を離さずに応える。
「私たちの監視の目を盗んで、巨大な軍事用ロボットを外部へ移動させるのは物理的に不可能……。迂闊に巨大コンテナは動かせないわね」
ネオ社、あるいはダミー会社側は、カレンたちの包囲監視に完全に警戒を強めていた。 一台でも不審なコンテナトラックがこの施設から走れば、それはインターポールを動かす決定的な物理的物証になり得る。彼らにとっても、カレンたちの監視網を潜り抜けて巨大な荷物を動かすことは、あまりにもリスクが高すぎるのだ。
カレンたちの狙い通りだった。
カレンたちは車内でじっと息を潜め、冷たい缶コーヒーを分け合いながら、ただひたすらに防壁の向こうを凝視し続けた。 今、自分たちにできることは、この包囲網を1ミリの隙もなく維持し、インターポールによる外交交渉の勝利を信じて、じっと待つことだけだった。
しばらくすると、腰に銃を下げた旧変電所の警備員がカレンたちの車に近づいてきた。 車内に冷たい緊張が走る。 警備員はカレンたちが乗ったドアの窓を、躊躇なくノックした。コツ、コツ、という硬い音が不気味に響く。
「ここで何をしている」
「私たちは観光に来たの。この近くに生息する珍しい動物がいるって聞いたので見に来たのよ」
「この場所には何もない。すぐに立ち去るべきだな」
「それは私たちの自由よ。ここは立ち入り禁止の場所じゃないわ」
警備員は警告ともとれる言葉を掛けるが、強制できずにその場を立ち去った。
「警戒しているわね」
「夜になったら闇夜に隠れて我々を物理的に襲ってくることも想定しておく必要があるな」
見えざる巨大な防壁を挟み、電子と物理の双方で、一歩も譲らない緊迫した膠着戦が、静かに続いていった。
「何とかもう動かぬ少し証拠がほしいわね。軍事ロボットの姿を捉えられると良いんだけど」
「私が潜入しよう」
「署長、それはさすがに無茶です」 カレンは今にも車を飛び出しそうな署長を、強い口調で制止した。 相手の動きは完全に封じたが、インターポールが動けない以上、この先の進展はない――。
その時、ダッシュボードの暗号化端末が、鮮やかな青いシグナルを点滅させた。天童からの、割り込み通信だった。
『カレンちゃんお待たせ、シオンの修理が完了したよ。これからそちらに向かわせる』
ついにバディの復活である。 それはカレンの謹慎が解かれるということでもあった。
『あと、シオンには特殊なカメラを仕込んでおいた。その付近の調査を今まで以上に行うことが出来る。何か打開策になるヒントが見つかるかもしれない』
カレンと片桐署長は、力強い期待を胸に抱きながら、シオンの到着を静かに待った。




