第28話:牙を研ぐ日々
ハドソン川から吹き付ける朝の風は、すでに秋の気配を孕んで冷たかったが、桐生カレンの身体がそれに震えることはなかった。
昨夜のハルカのあたたかいもてなしにより、ここ数週間彼女の胃を苛み続けていた鋭い痛みも、こめかみを締め付けていた偏頭痛も、嘘のように消え去っていた。
彼女が向かったのは、マンハッタンにある重厚な石造りのニューヨーク公共図書館だった。 停職処分を受け、警察のバッジとIDを没収されたカレンは、ニューヨーク市警の内部ネットワークにアクセスする権限を持たない。だが、だからといって捜査の手を止める理由にはならなかった。
ニューヨーク公共図書館がビジネス支援のために導入している商用データベース端末。カレンは市民向けに無料で一般開放されているその端末の前に座り、ネオ・ロボティクス社の公開されたアニュアルレポート(収支報告書)と事業計画書を徹底的に画面に呼び出した。
画面を見つめるカレンの瞳は、かつてないほど冷徹に澄み渡っている。
クリアになったカレンの頭脳が、研ぎ澄まされた集中力で膨大なデータをスキャンしていく。彼女が着目したのは、ネオ社が米国軍へ公式に納品しているロボットの「生産コスト」と、決算書上の「総部品調達額」の不自然な乖離だった。
「……計算が合わない」
カレンは細い指先で数値を叩き、画面にグラフを描写させる。 調達されている超高出力の次世代バッテリーやチタン製骨格パーツの量は、公式な米国軍への納品ロボット数を明らかに上回っていた。それも、十数機分どころではない。数百機規模の「出荷計画にないロボット」が、ネオ社のどこかで製造され、隠されている。
政府の公式監査が定期的に入るネオ社の本社工場では、これほど大規模な未登録ロボットの製造・保管など不可能だ。ならば、別の場所に極秘の生産ラインがあるはずだった。
カレンは視点を変え、ネオ社の取引先リストに潜む不審なペーパー会社の登記情報を追跡した。 一見、ロボット産業とは無関係な地元企業との間で、不自然なほど巨額の取引が行われている。その会社の登記を遡ると、実態が全く存在しないダミー会社であることが判明した。
そして、そのダミー会社が市内に買い占めて所有している資産リストの最下部に、ある住所が静かに記載されていた。 ――ハドソン川のあの埠頭とは別の、クイーンズの寂れた工業地区の奥深く。十数年前に稼働を停止している『旧変電所』。
衛星データから現在ここには大きな倉庫のような建物が確認できる。 (この建物、ペーパー会社にはあり得ない立派な建物。捜査するならここね)
即座に踏み込みたいという衝動が、熱い血となってカレンの胸を過った。 しかし、彼女は目を閉じて深く息を吐き出し、その熱を冷徹に抑え込んだ。今のカレンは不祥事で停職中の、信用のない身だ。この情報をタスクフォースに持ち込んだところで、「妄想だ」と一蹴され、非公式な捜査として謹慎の期間が延長される可能性や、最悪の場合合同タスクフォースから外され日本に戻される可能性もある。
(勝手に殴り込めば、ただの規律違反で永久にクビになるだけ。今の私に必要なのは、公式に復職した瞬間に部隊を動かせるだけの、完璧な『外堀の証拠』を地道に集め、地盤を固めること。待ちなさい、ネオ・ロボティクス。私は焦らない)
プロの刑事としての絶対的な矜持と知性が、彼女に大人の戦い方を選ばせた。
カレンが成果を携えてアーク・システムズのラボに戻ると、そこには意外な人物の姿があった。 キーボードを叩く、見覚えのある軽妙な背中。
振り返ったのは、アーク社の天才エンジニア、天童湊だった。 天童は精密なフレームにオシロスコープを接続し、微細な同調調整を進めていた。 その背後にある修復ラックでは、装甲を剥ぎ取られたシオンの内部骨格が静かに佇んでいた。開発コンセプトである、100キロのスリムな中空チタンフレームが痛々しく露出している。
「天童さん……わざわざ日本から?」
「シオンは僕が特別にカスタムした機体で、この部分の破損の修理スキルはまだここのスタッフには教育していなかったからね」
「私がふがいないせいでシオンを壊してしまいごめんなさい........」
「大丈夫。君を守るために作ったシオンが仕事をしただけのことだよ。それにいずれここのスタッフにも教育しなければならなかったから同じことだよ。気にしないで。ところでおとなしく謹慎してるの?」
「じつは.....」
カレンが図書館で調べ上げた完璧なダミー会社の報告書を差し出すと、天童さんは目を丸くした。
「すごいね……これ、全部公開データから弾き出したの? 恐れ入ったよ。君がここまで物理的な外堀を埋めてくれたなら、僕が電子の壁にハッキングで風穴を開けてあげる。ネオ社のダミーサーバーから、未登録ロボットの製造ログを裏から引っこ抜いてみせるよ。だけど現地での調査も必要だな」
「私も手伝います!」 そこへ、ラボの片隅からハルカが身を乗り出した。「英語の翻訳や、現地での泥煙立つような地道な聞き込み調査なら、私だって力になれます!」
だが、カレンと天童は、即座に厳しい声を重ねてそれを制止した。 「ダメよ、ハルカ。相手は軍事用AIやステルスドローンを製造している巨大企業よ。おそらく殺し屋や傭兵も雇われているはず。大学生のあなたを、これ以上危険な陰謀に巻き込むわけにはいかないわ」
「カレンちゃんの言う通り。ハルカちゃん、君にはラボの美味しいコーヒーのサポートだけで十分だよ」
ハルカは少し悔しそうに唇を噛んだが、二人の真剣な眼差しに静かに引き下がった。 その時、ラボの入り口から聞き覚えのある安心感のある声が響いた。
「そういうことなら私の出番だな!」
トレンチコートの襟を立てた、一人の頑固そうな中年男性がそこに立っていた。 白髪交じりの髪に、鋭い眼光。日本の警視庁でカレンを長年支え、父親代わりに彼女を見守ってきた片桐署長だった。
「しょ、署長!? なぜここに……」
「天童がこっちに出張って聞いてね。だから私も、有給消化という名目の長期休暇をもぎ取ってパスポートを掴んできた。現役警察官としての肩書は日本に置いてきた。今の私は、このアメリカの地ではただのしがない日本人旅行者だ。法的な制約も、NYPDの規律も関係ない、一番身軽な一般人さ」
「現地の泥臭い張り込みや、アジト周辺の偵察なら、私の右に出る者はいないぞ。カレン、お前は冷徹に司令塔となれ。電子の戦いは天童に任せ、ハルカちゃんはここでカレンと天童の支援とこの古い体に美味いコーヒーでガソリンを入れてくれればいい」
頼もしすぎる古強者の参戦に、カレンの澄んだ瞳に、初めてじわりと熱い光が宿った。
「……はい! よろしくお願いします、署長」
カレンは深く一礼した。
修復ラックの中では、装甲が外され、チタンのフレームがむき出しの状態のシオンが静かに佇んでいた。 ユウキはまだ修理中で何もできないシオンのボディにもどかしさを覚えつつも、カレンの周りに集まった頼もしい仲間の姿と、「シンクロ率60%」という平時では驚くほど高いシオンとの絆の数字に安堵した。
(良かったねカレン。僕も早く合流したい!)
頭部のセンサーアイは、カレンが公式に自分を迎えに来るその日を静かに見据え、ネオンブルーの光を、静かに明滅させた。




