第27話:不器用な処方箋
ガラスの扉を押し開けた瞬間、温かなエアコンの風が、凍えきったカレンの頬をなでた。 ずぶ濡れの髪から冷たい雫がコンクリートの床へとぽつぽつと零れ落ちる。羽織っていたロングコートは雨水を吸ってずっしりと重く、体温を容赦なく奪い去っていた。過度のストレスで雑巾のように絞られていた胃が、温もりを感知して小さく痙攣する。
「カレンさん……!? ひどい雨――って、ちょっと、ずぶ濡れじゃないですか!」
ラボの奥からパタパタと小走りで駆け寄ってきたのは、ハルカだった。 机の上の事務書類を片付けていた彼女は、カレンの痛々しい姿を見るなり目を見張り、すぐさま乾いた大きめのタオルを持って戻ってきた。
「風邪をひきますよ。髪を拭くのでコートを脱いでください!」
「……ありがとう, ハルカちゃん」
カレンは掠れた声で礼を言い、促されるままに濡れた重いコートを脱いだ。ハルカが手際よくカレンの肩にふかふかのタオルをかけ、優しく髪の水分を拭き取っていく。
「カレンさん。お湯をお持ちしますので、ソファーの方にどうぞ」
カレンの視線は、無意識のうちにラボの奥、暗い影をまとったメンテナンスラックへと向かった。 そこには、左腕と左肩の装甲を剥ぎ取られ、無数の太いケーブルに繋がれたシオンが沈黙していた。開発コンセプトである100キロのスリムなチタンフレームが、天童の部下であるラボの専門メンバーたちが行う修理の途中で、内部の精緻なメカニズムが痛々しくむき出しになっている。
その冷たい筐体の中で、ユウキの魂は、激しい焦燥の嵐に身を焦がしていた。
(カレン……! 唇が真っ青だ、身体が凍えて震えてる。クソッ、どうして俺はロボットなんだよ。修理中で指一本動かせない。カレンに乾いたタオルを渡してやることも、抱きしめて温めてやることもできない……!)
胸の奥のプロセッサーを引きちぎりたいほどの無力感に、ユウキは激しく胸を掻きむしられていた。 シオンの電子脳には、カレンのバイタルデータ――極度の低体温、自律神経の悲鳴、すると限界寸前の心拍不整がリアルタイムで警告され続けている。だが、今のユウキにできるのは、ただその最悪な数値を見つめ、無言で祈ることだけだった。
「……ハルカちゃん、私は平気よ。少し、ここでシオンの側についているわ」
カレンは青ざめた唇で、無理に笑みを作ろうとした。 だが、ハルカは彼女の冷え切った両手をぎゅっと掴んだ。 明るく、元気で、いつもおしゃべりなハルカの瞳が、今はとても真剣で、どこか強烈な温かさを宿してカレンを真っ直ぐに見据えている。
ハルカは直感していた。 カレンに何があったかはわからない。捜査がどうなったのか、何に傷ついているのかも、留学中のアルバイトに過ぎない自分には知る由もない。 けれど――今、この人を絶対に一人にしてはいけない。今夜、一人でこの暗いラボに置いたら、この綺麗な目は完全に凍りついてしまう。
「ダメです! カレンさん、今日はお仕事は終了! ここにいても風邪を引くだけです。私の家、ここから歩いてすぐのところにあるんです。……今夜は、私の家に泊まってください。決定事項です!」
「え……でも、ハルカちゃん、私は――」
「冷え切ったカレンさんには栄養補給が必要です。私いつも自炊なんです。カレンさんに栄養たっぷりのごはんを作りますので食べにきてください。さあ、行きましょう!」
ハルカはカレンの荷物を手際よくまとめると、躊躇するカレンの手を引っ張った。 カレンは、自分がエリート刑事であり、ハルカより年上であるというプライドから、最初は他人の家に甘えることなどできないと拒もうとした。だが、ハルカの太陽のような明るい笑顔と、その小さな手のひらから伝わってくる確かな人間の温もりに、凍りついていたカレンの頑なな心が、かすかにみしりと音を立てて綻んでいく。
「……じゃあ、お言葉に甘えようかしら」
「はい、大正解です! そうと決まれば、早く帰りましょう!」
ハルカは嬉しそうに声を弾ませ、カレンに寄り添うようにしてラボの自動ドアへと向かった。 カレンは最後に一度だけ、メンテナンスラックの中で沈黙する鋼鉄の相棒を振り返り、それからハルカと共に、窓の向こうの冷たい雨の中へと消えていった。
(カレン、よかった……。ハルカちゃん、ありがとう。……お願いだ、今夜は全部忘れて、ゆっくり休んでくれ……)
静まり返ったラボの中で、ユウキはただ一人、心からの祈りを雨の夜空へと捧げていた。
***
ハルカが暮らすマンハッタンのアパートは、レンガ造りの古びたビルの三階にあった。 重い木製のドアを開けて一歩中に入った瞬間、カレンは驚きに小さく目を見張った。
「狭いアパートですけど、どうぞ! あ、靴はそこで脱いでくださいね」
ハルカがパタパタと電気のスイッチを入れる。 そこに広がっていたのは、アメリカの一般的な住居にありがちな、薄暗い間接照明の部屋ではなかった。暖色系照明の温かなライティングが部屋全体を隅々まで明るく照らし出している。 床には柔らかく温かみのあるベージュのカーペットが敷き詰められており、その中央には、小さくてかわいらしい木製のちゃぶ台と、ふかふかのクッションがちょこんと置かれていた。
――まるで、日本のアパートの一室のような、懐かしくて落ち着いた雰囲気。
「アメリカにちゃぶ台……」
「そのちゃぶ台こっちで買えないので日本で使っていたものを持ってきたんです!」
マンハッタンのど真ん中にいることを一瞬で忘れさせるその優しい空間に、カレンの張り詰めていた肩の力が、かすかに抜けていく。
「カレンさん、まずはシャワーを浴びて身体を温めてください! その間にご飯を作っちゃいますから。パジャマは脱衣所に置いておきますね」
そう言ってハルカに促され、カレンは脱衣所へと入った。 棚の上には、綺麗にたたまれた薄いピンク色のコットンパジャマが置かれている。胸元には小さなクマの刺繍があしらわれていた。
「これ、実は私の『勝負パジャマ』なんですけど、特別にカレンさんに貸しちゃいます! あ、ちなみに勝負する予定は、今のところ地球上のどこにも存在しませんけどね!」
脱衣所のドア越しに、ハルカがいたずらっぽく声を張り上げる。自虐的な冗談を飛ばすその勢いと、廊下から聞こえるコミカルな足音に、カレンは「ふふっ……」と思わず小さく吹きこぼれるように笑ってしまった。
「ありがとう。……でも、勝負パジャマを借りてしまっていいの?」
「いいんです! カレンさんの健康を取り戻すことこそが、今の私にとっての最大の聖戦ですから! さ、シャワーへゴーです!」
カレンは首元に身につけていた携帯用のバイタルセンサーを外し、脱衣所の棚の上に静かに置いた。 さすがに、完全にセンサーを外したカレンの様子は、シオンのシステムをもってしてもモニタリングすることはできない。だが、それが今のカレンにとって、本当に「捜査」という重荷から一時的に解放された瞬間でもあった。
カレンは浴室へと入り、シャワーの蛇口を回した。 勢いよく溢れ出た熱い湯を、冷え切った身体に浴びせる。最初は冷えた肌が驚いたように小さく粟立ったが、熱線のような心地よい湯が全身を包み込むにつれて、じわじわと芯から熱を帯びていくのを感じた。マンハッタンの冷たい雨、そして心の中に張り詰めていた強張りが、白い湯気と共にゆっくりと溶けて流れ落ちていくようだった。
シャワーを終え、しっかりと身体を拭いて脱衣所へと戻る。カレンは棚の上に置かれたパジャマを手に取った。
「……ピンク、か」
鏡に映る自分を見つめ、カレンは少しだけ頬を赤くした。 普段の彼女なら絶対に選ばない、少女のような可愛らしいデザインだ。少し恥ずかしい、と躊躇しながらも、ふんわりとした柔らかい生地に腕を通してみる。 その瞬間、優しいコットンの肌触りが温まった身体をそっと包み込み、不思議と、強張っていたカレンの心全体が、じわじわと凪いでいくのを感じた。
髪をタオルで乾かしながらカレンが脱衣所から出てくると、台所から信じられないほど愛おしい音が聞こえてきた。 トントン、トントン、と、小気味よくまな板の上で包丁が弾む音。そして、ふわりと鼻腔をくすぐる、出汁の優しく香ばしい香り。
「きゃー! カレンさん、可愛すぎます! ピンク、めちゃくちゃ似合ってますよ! まるで日本のティーン向け雑誌のモデルさんです! 私、今すぐファンクラブ設立して会長に就任しますね!」
お玉を持ったまま振り返ったハルカが、目を輝かせて大はしゃぎする。
「もう……からかわないで。ちょっと恥ずかしいわ」
「からかってないですよ、本気の本気です! あ、そうだ、ご飯運びますね!」
ハルカは嬉しそうに頷くと、両手でお盆を持ってちゃぶ台へと小走りに向かった。 だが、その瞬間。
「おっととと……っ!?」
アパートのカーペットの端に少しだけ足を取られ、ハルカの身体がぐらりと大きく揺れた。お盆の上の肉じゃがの小鉢がカタカタと音を立てる。
「危ない……!」
カレンが思わず腰を浮かせたが、ハルカは超人的なバランス感覚で片足をピンと後ろに跳ね上げ、お盆を水平に保ったままピタリと静止した。
「セーーーーフ! ハルカ選手、見事な着地です!」
ハルカがおどけた調子で胸をなで下ろす。そのあまりにコミカルで、けれど愛らしいおっちょこちょいぶりに、カレンは張り詰めていた心の緊張を完全に忘れて、今度は声を出してくすくすと笑った。
「本当に、驚かせないで。でも……無事でよかったわ」
「えへへ、お騒がせしました! お疲れの時、美味しい和食は一番の処方箋なんですから! さあ、ハルカ特製、和食セットです!」
ハルカが嬉しそうにちゃぶ台の上に並べたのは、炊きたてのつややかな白いご飯と、湯気を立てるお味噌汁、そしてふっくらと出汁の染みた温かい肉じゃがだった。
「さ、温かいうちに食べてください!」
「……いただきます」
カレンは箸を取り、まずはお味噌汁の椀を手に取って、そっと口をつけた。 じんわりと、合わせ味噌の程よい塩気と豊かな出汁の旨味が、冷え切っていた胃腑に染み渡っていく。その途端、凍りついていたカレンの心の防壁が、音を立てて崩れ去った。
「美味しい……。すごく、温かいわ……」
「えへへ、よかったです! 実はこのお味噌汁、隠し味に私の「愛情」をたっぷりと……あ、隠し味を自分でバラしたら隠し味になりませんね! ただの「自己主張の激しい愛情」になっちゃいました!」
一人でノリツッコミをするハルカ。その様子がおかしくて、カレンはまたふっと肩を震わせて笑った。
「そうね、でも、その温かい愛情が、冷え切った身体に一番効いているわ。ありがとう、ハルカちゃん」
「実家が定食屋なので、味付けと元気を分けることに関しては、そこら辺のプロより自信があるんですよ!」
「アメリカで炊きたてのご飯を食べられるとは思わなかったわ。でもどうやって炊いてるの? 炊飯器はなさそうだけど」
「お鍋で炊いてるんです。実家の定食屋はお釜で炊いてたので炊飯器なしでも問題なしです!」
ハルカはちゃぶ台を挟んで、本当によくしゃべった。 ニューヨークに来たばかりの頃の失敗談、留学生としての面白い日常、バイト先のアーク社での天童湊の奇想天外な研究エピソード。 ハルカは、カレンの仕事や事件のことには、ただの一言も触れなかった。
その明るいマシンガントークを聞いているうちに、カレンの顔から自然と強張りが消えていく。
「これ、日本の実家から送ってきた梅酒なんです。少しだけ、飲みます?」
「……ええ、少しだけ、いただくわ」
ハルカが小さなグラスに注いでくれた、琥珀色の自家製梅酒。 それを一口含むと、甘酸っぱさと、心地よいアルコールの微熱が身体を優しく巡った。 張り詰めていた神経がすっかりほどけたカレンは、いつの間にか自分でも驚くほど饒舌になっていた。
「実は私、時差ボケでずっと頭が痛くて……アメリカの食べ物も、少し重すぎたのよ」
「わかります! 私も最初の頃、ピザとハンバーガーばかりで胃が壊れそうになりました!」
「ふふ、やっぱり? 支給された装備も、なんだかサイズが合わなくて、ずっと身体が凝っていたの。……このパジャマ、本当に着心地がいいわね」
「でしょう! それ、日本の地元のショッピングモールで買ったやつなんです。気に入ったなら、カレンさんにあげますよ!」
「さすがにそれは悪いわ……ふふ、あははは!」
気がつけば、カレンの口から、軽やかで自然な笑い声が溢れていた。 何日も、いや、ネオ・ロボティクスの事件を追い始めてから数ヶ月間、こんな風に心から笑ったことなど、一度もなかった。
その夜、カレンはハルカの勧めで、彼女の小さなベッドで一緒に眠ることになった。
「狭くて申し訳ないですけど、私、寝相は良い方ですから!」
「ううん、私のほうこそ、お邪魔してごめんなさい」
部屋の明かりを消し、静かな暗闇の中で、ふかふかの羽毛布団に潜り込む。 子供のころ、両親が生きていたあの温かな家で眠って以来だろうか。これほど温かく、そして、すぐ真横に「他人のぬくもり」を感じながら眠るのは。
いつも一人で、張り詰めた暗闇のベッドで、銃を枕元に置いて眠っていた日々。 けれど今、この部屋には凍りつくような冷たさも、息苦しいプレッシャーも存在しない。 ハルカの規則正しい穏やかな呼吸音と、布団の中の温かなぬくもりが、カレンの傷ついた心に、深い、深い充足感を満たしていく。
カレンは、数年ぶりに、一度も悪夢を見ることなく、深く優しい眠りに落ちていった。
***
窓から差し込む、雨上がりの澄み切った光を浴びて、カレンは目を覚ました。 頭をキリキリと苛んでいた偏頭痛も、雑巾のように絞られていた胃の痛みも、嘘のように綺麗さっぱり消え去っている。身体が驚くほど軽い。
ハルカから貸してもらったピンクのパジャマを脱ぎ、いつもの服に袖を通す。カレンは鏡の前で、昨晩取り外した携帯用のバイタルセンサーを身につけた。すっかり体温を取り戻した白い肌に、センサーの冷たい金属の感触が引き締まるように馴染んでいく。
そのころ、ラボのシオンにカレンのバイタルセンサーのデータが届く。
(カレン、すっかり元気になったみたい。良かった。ハルカちゃん本当にありがとう)
「ハルカちゃん、本当にお世話になりました。……ありがとう」
「いえいえ! またいつでも美味しい和食作りますから、いつでも遊びに来てくださいね!」
ハルカの元気な笑顔に見送られ、カレンはアパートを出ると、そのまま地元の公立図書館へと向かった。 その足取りには、昨日までの不自然な硬さは、何一つ残っていなかった。
図書館へと向かう道中、カレンのスマート端末に通信が入った。画面に表示された名前に、カレンは思わず小さく息を呑む。海の向こうの、日本にいる片桐署長からだった。今回の、ニューヨークでのカレンの独断専行とシオンの大破、および言い渡された謹慎処分の件が、すでにインターポールや日本の警察庁を経由して署長の耳に届いたのだろう。
カレンは覚悟を決めて、通信を開いた。
「……片桐署長。申し訳ありません。シオンを壊して、捜査からも一時、外されることになりました。私の――」
「声のトーンは思ったより悪くないな、カレン」
通信の向こうから聞こえてきたのは、叱責ではなく、いつもと変わらない穏やかで低い署長の声だった。カレンが言葉を詰まらせると、受話器の向こうで署長が小さく笑う気配がした。
「そちらでの処分と状況はすべて聞いている。だが、お前のその声を聞く限り、心配は要らなそうだな」
「……はい。ご心配をおかけして、本当に申し訳ありません。ですが、私は諦めていません。私の焦りや不甲斐なさのせいでシオンを傷つけてしまいましたが……今は自分の心身を万全に保ち、次にシオンと完璧にシンクロして戦うための準備をしています。謹慎中の今だからこそ、私にできる地道な調査を、これから図書館で進めるつもりです」
「そうか。お前がそのつもりなら、私から言うことは何もない。天童のところのシオンも、アーク社のラボの優秀な連中が全力で直している。牙を研いでおけ、カレン。日本からお前の活躍を信じているぞ」
「……はい! ありがとうございます、署長!」
通信を切ったカレンは、スマート端末をポケットに収め、空を見上げた。 雨の上がったニューヨークの青空は、どこまでも澄み渡り、彼女のこれからの行く道を明るく照らし出しているようだった。 カレンは迷いのない力強い一歩を踏み出し、マンハッタンの図書館へと向かって歩き出した。




