第26話:摩天楼の迷子、窓の向こうの琥珀
合同タスクフォース本部の高層階にある査問室は、外の曇天をそのまま切り取ったかのように、冷たく、灰色に沈んでいた。 中央に置かれたスチール製のテーブルを挟み、冷徹な目をした三人の査問官が、桐生カレンを無言で見下ろしている。
そのテーブルの中央からは、昨夜ハドソン川のコンテナ埠頭を立体スキャンした三次元ホログラフが、不気味な青い光となって空中に浮かび上がっていた。だが、そこに映し出されているのは、微塵の物証も残されていない、ただのガランとしたコンテナヤードの冷たい立体映像だけだった。
「……以上が、昨夜の状況です。現場にいたのは、明らかにマフィアの人間でした。あの未登録の自律型ドローンは、ネオ社が彼らの非合法取引を警備するために提供したものと考えられます。それらを現行犯で――」
「証拠は?」
中央に座る年配の査問官が、カレンの言葉を鋭く遮った。 彼の声には、憐れみすら混じっていない。
「マフィアも、取引相手の男も、そして君がネオ社の技術だと言い張るドローンとやらも、すべてボートで逃走した。現場に残されていたのは、乾いたコンクリートだけだ。ネオ社の関与を示す物証は、何一つとして存在しない」
「ですが、私はこの目で確かに見ました! あの駆動音、装甲のステルス素材は、かつて日本で――」
「桐生カレン刑事」
査問官はさらに冷たく、カレンの声を圧殺した。
「我々が問題にしているのは、君の主観ではない。客観的な事実だ。君は、バディであるシオンの『応援要請、並ビニ、支援待機』という極めて合理的なシステム警告を明確に拒絶し、独断で現行犯逮捕を試みた。その結果、タスクフォースの貴重な戦力を大破させ、容疑者をみすみす逃走させ、初期捜査計画を完全に崩壊させた。これは明らかな、スタンドアロン(独断専行)での暴走行為だ」
カレンは唇を噛み締め、拳を握りしめた。 反論の余地はなかった。シオンの警告を無視し、焦燥に駆られて突入したのは、紛れもない自分自身の傲慢さだったからだ。
「査問委員会の決定を告げる。ロボットユニット・シオンの修復が完了するまで、君に現地捜査への参加を一時的に禁止する。前線離脱――謹慎処分だ」
査問官は冷徹に言い放ち、テーブルを指先で叩いた。
「アメリカ国内での君の身分を証明するバッジと、タスクフォースのIDカードを、ここに置きなさい」
カレンは震える手で、自らの胸元から真新しい警察バッジを取り外した。 まだ手に入れたばかりの、摩天楼の光を鈍く反射するその金属の塊を、静かにスチールテーブルの上へと滑らせる。
バッジとIDを失った現在のカレンは、アメリカ国内においてただの「民間人」に過ぎない。短期間とは言え捜査が出来ないということは片桐署長がタスクフォースメンバーの決定に無理やりねじ込んでくれた恩に報いることが出来ない。
バッジを奪われたカレンは、文字通り、警察官としてのすべての手足を縛られたも同然だった。
「……失礼します」
カレンは小さく、掠れた声でそれだけを告げると、重い査問室の扉を引いて背を向けた。
***
タスクフォース本部を一歩外に出た瞬間、冷たい秋の雨が、容赦なくカレンの全身を叩いた。
マンハッタンの空は厚い雨雲に覆われ、天を衝くような超高層ビルの群れが、霧の向こうに冷たい巨人のようにそびえ立っている。 カレンは重厚な紺色のロングコートを羽織っていたが、傘をさす気力すら湧かなかった。
ただ、あてもなく、雨のマンハッタンの街へと歩みを進める。
早足で行き交う、色とりどりの傘をさした他国籍の群衆。 耳をかすめるのは、聞き慣れない英語や様々な言語の雑音ばかりで、ここが日本でないということを改めて思い知らされる。 ネオンの冷たい光が不気味に反射する濡れたアスファルトを、カレンはただ、歩き続けた。
時差ボケによる慢性的な偏頭痛が、こめかみの奥をキリキリと締め付ける。 さらに、過度の緊張と自己嫌悪による激しい胃の痛みが、カレンの肉体を雑巾のようにきつく絞り上げていた。
冷たい雨水が、カレンの濡れた前髪を伝って頬を濡らす。それが雨なのか、自分の涙なのか、もう判別すらつかなかった。
(……静かすぎる)
カレンはふと、足を止めた。
歩いても、歩いても、いつも真横からぴったりと寄り添っていた、あの規則正しい足音が聞こえない。 100キロの強固なチタンフレームがアスファルトを正確に踏みしめる、あの聞き慣れた金属の響き――。 「ガシャッ、ガシャッ」という、重厚で、何よりも安心させてくれたあの足音が、今のカレンの真横には、存在しなかった。
いつも自分を守り、盾となってくれたシオンは、左肩を大破されたまま、ラボの暗闇で沈黙している。
「私は……何をやっているの……」
雨の中にぽつりと落とした呟きは、車の走行音にかき消された。
日本でいつも彼女を信じ、窮地から救ってくれた片桐署長は、数千マイルも離れた海の向こうにいる。心配をかけたくなくて、弱音の通信を入れることなどできるはずもない。 シオンの設計者である天童湊もまた、日本にいる。自分の独断専行のせいで、彼が丹精込めて組み上げたシオンの強固な身体を、初戦でボロボロに壊してしまった。その激しい申し訳なさと自己嫌悪から、カレンは天童に対しても通信を開く勇気すら持てなかった。
頼るべき人は、この広いアメリカのどこにもいない。
カレンは、自分がこのガラスと鉄筋でできた巨大な迷路の中で、完全に一人きりの「迷子」になってしまったのだと、冷たい雨の中で深く自覚した。 凍える指先を見つめても、誰もその手を握ってはくれない。 呼吸が浅くなり、過呼吸気味の息苦しさが胸を圧迫する。
――私は何も変わっていない。 日本にいた時と、何一つ変わっていない。 結局、大切な相棒を盾にして、傷つけて、一人では何一つ守ることもできない。
寒さと孤独に全身を激しく震わせながら、カレンは重い足を一歩、また一歩と引きずるようにして、マンハッタンのコンクリートジャングルを彷徨い続けた。
***
その頃。 アーク・システムズのニューヨークオフィスにある、暗い先端技術研究ラボ。
メンテナンスラックに固定されたシオンの冷たいチタンボディは、天童の部下であるラボのメンバーが修理の為左腕と左肩の装甲を外していた。 修理中で身動きが取れないユウキの魂は、激しい焦燥の嵐に身を焦がしていた。
(クソ……っ! マンハッタンの超高層ビル群――コンクリートの巨大な谷間と厚い雨雲が、カレンの通信端末のGPS衛星電波を遮断している。カレン、どこを歩いてるんだ……!?)
シオンの電子脳に送られてくるカレンのバイタルデータ。 そこには、著しい体温の低下、心拍数の乱れ、そして過呼吸寸前の不安定な呼吸深度が、無機質な数値としてリアルタイムで警告され続け、ユウキの焦りを限界まで駆り立てる。
(カレン、ずぶ濡れになってるんじゃないか……。体温がこんなに下がってる。……何で俺は、ロボットなんだよ!)
ユウキは己の無力さに、胸の奥のプロセッサーを引きちぎりたいほどの歯がゆさを感じていた。 自分に温かな肉体があれば。 今すぐこのラックを飛び出し、冷たい雨の街に駆け出して、カレンに傘を差し出すことも、その冷え切った身体を温かな腕で強く抱きしめてやることもできたのに。 今の自分にできるのは、ただメンテナンスラックの中で、修理の完了を待ちながら、刻一刻と悪化していく相棒の数値をデジタルモニター越しに見つめることだけだった。
(お願いだ、カレン……。早く戻ってきてくれ……。一人で全部抱え込まないでくれ……!)
冷たいチタンの筐体の中で、ユウキの魂は、声にならない悲痛な叫びを上げ続けていた。
***
冷たい秋の雨は、夜になっても止む気配を見せず、マンハッタンのビル群を深い霧の中に閉じ込めようとしていた。
ずぶ濡れになり、体温をすっかり奪われ、青白い唇を震わせながら彷徨い続けたカレン。 行き場を失い、完全に思考が麻痺しかけていた彼女の足が、無意識のうちに辿り着いたのは、唯一のセーフティゾーンであるアーク社の前だった。
ビルの前に立ち尽くし、カレンはゆっくりと、力なく顔を上げた。
冷たい雨脚の向こう。 周囲のオフィスが夜の闇に沈むなか、ビルの上層階――先端技術研究ラボのある窓からだけ、ぽつんと、琥珀色の暖かな光が、静かに、優しく漏れていた。
冷え切った雨の世界で、唯一、体温を感じさせるその小さな光。
カレンは言葉もなく、ただ、その窓からこぼれる暖かな光を、濡れた瞳で見つめ続けた。 あそこに、私の帰る場所がある――。
激しい胃の痛みを抱えながらも、カレンはほんの少しだけ、強張った唇を震わせ、その光に向かって一歩、ゆっくりと歩みを踏み出した。




