第12話 夜襲 その6
「いやぁ、朝の空気は気持ちがいいものだねぇ」
地平線から僅かに太陽が顔を覗かせ大地を照らし始めた頃、黒華と共に未だ肌寒く感じる街を歩んでいた。
時刻は6時前といった頃合いだろうか。
朝露の湿り気を孕んだ、どこか心地の良い風が頬を優しく撫でてくる。
軽く辺りを見回してみれば、ビル街の中にできた空き地からは炊き出しの煙が立ち上っていた。
「良かったのか?何も言わずに出てきて」
「私とて生きているんだ。適度に休息を挟まなければ死んでしまう」
「それに関していえば黒華はもっと休むべきだ。宵崎が申し訳ないと愚痴ってたぞ」
「彼女には気にするなと言ったんだがねぇ。ままならないものだよ」
軽く肩をすくめる黒華の表情には疲労のひとつも見受けられなかった。
彼女もまた、只人とはかけ離れた能力を持っている。その事を誰よりも理解しているからこそ、自身と同じだけの仕事量を部下に任せるような愚行を犯さない。
それでも尚自ら望んで追従する者が後を絶たないのは、偏にそのカリスマ性故であろう。
「まぁ、体調は崩すなよ。お前が居なくなると立ち行かなくなるからな」
「おや、心配してくれるのかい?君にしては珍しい」
「ここからが正念場なんだ。協力してくれると言った以上、使い潰すつもりで手伝って貰うからな?」
「はははッ、なんとも君らしいことだ。そこまで言われてしまったら私も善処するとも」
ここで休むと断言しないあたり、本当の意味での適度な休息を取るつもりは更々無いようだ。
まぁ、分かりきっていたことだ。
黒華の脅迫観念じみた仕事狂いは、軍に居たあの頃からのものなのだから。
楽園症の薬に関して、ポラリスと正式に協力関係を結ぶ運びとなった。
黒華の手腕は見事なもので、あの一連の会話の後から藤原は特に抵抗することもなくこちらに協力をしてくれた。
取引の正式な日時、情報の入手経路やその確証性。知っている限り、全ての情報を吐かせた。
相手組織の詳細は近畿地方の小規模なモノという話だが、恐らく末端の捨て駒かフェイクといったところだろう。
不確かな所も多い。だが、そこら辺の与太話とは一線を画す内容。僅かな希望と呼ぶにはソレはあまりにも大きなものであった。
藤原についてだが、現在彼は精神的療養と集中監視を兼ねてポラリス所属の適応者の監視の下、別室にて軟禁状態にある。
拷問、ましてや口封じなどは行わないそうだが、未だに隠している情報があるかもしれない以上、警戒しておくに越したことは無い。
細かい調整はポラリスが追加で調査を完了させた後に改めて行うこととして、今日のところはお開きとなったのだ。
何はともあれ、舞台はこれ以上ないほどに整った。
数年間にわたる最大の目標、陽菜を楽園症から解放するという夢への最後にして最大の1歩だ。
平和的な交渉で終われるのならばそれで良い。
そうならなかった時のために俺が居る。
必ず手に入れなければならない。例えこの身がどうなろうとも、誰を殺そうとも……
慢心は無い。
「随分といい目をしているじゃないか、柊」
「……そう言われても、俺からは何も分からないからな」
「黒曜石のような、澄んだ力強い『黒色』だ。この前までの君とは大違いだよ」
「前までは死体の方がまだ生き生きとしていたかもな」、などと軽く巫山戯た調子で言ってくる。
しかし、長い付き合い故かその裏に隠された憂いを含んだその感情を鋭敏なまでに認識してしまった。
「やっぱり嬉しいか?薬が見つかるかもしれないと分かって」
「……当たり前だ」
自分でも意外ほどに強く語気に出てしまっていた。
突然の事に、黒華も少し驚いていた様子であったが、その表情は次第に安堵を孕んだものに変化していった。
そうして、一言……
「そうか……それは…何よりだ」
慈母の如き優しさの様な、それでいて苦行から解放された聖者の様な面持ちで、彼女は確かにそう言った。
今まで黒華のそんな表情は見たことが無かった。
心配されていたのだろうか。
しかし、それだけでは説明のつかない感情がそこにはあった。
驚きと困惑のあまり、言葉の真意を計りかねてしまう。
その事を知ってか知らずか、黒華はまた先程までのおどけた雰囲気に戻ってしまう。
気づけば目の前にはずらりと並ぶ鉄柵と関所代わりのゲートが立ち塞がるように存在していた。
非情にも、言葉の意味を尋ねるより先に別れの時が来てしまったのだ。
「そうだ、君にこれを渡しておかなければ。2人はウチで治療中だよ」
そう言って半ば投げるように受け渡されたのは、学校に忍び込んだ二人組の片割れに渡したはずの身分証であった。
結局、助けることにしたのか……
あの時邂逅した2人を脳裏に思い出し、感心とも意外とも思える感情が浮かぶ。
仲間思いなのか、それとも別の何かがあったのか。まぁ、何であろうとも俺が考える必要のない事だ。
「後のことはこちらに任せてくれ。全て終わったら君の彼女さんを連れてくるといい、歓迎しよう」
こちらの返答を待つこともなく、こちらに背を向け立ち去ってしまった。
彼女が何を思っていたのかは分からない。
憂いか、嘆きか、後悔か、それともまた別の……
だが、それを尋ねるのは今ではない。
陽菜が家で待っている。
今この瞬間は、そんな『当たり前』がどうしようもなく嬉しかった。
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「ただいま……」
ゆっくりとできるだけ物音を立てないように玄関の扉を開けた。
半日ぶりに戻ってきたわが家はどこかひんやりとしており窓の外から入り込む光は少なく、薄暗い。
陽菜は……まだ起きていないようだ。
リビングで耳を澄ませてみれば、僅かに開いた扉の隙間から小さく寝息が聞こえてくる。
その事が、陽菜がそこに居るのをこれ以上ない程に示していた。
「待っててくれ……」
ようやく見つけた。
どれだけこの時を待ち望んでいたことか。
1人、誰よりも大切な1人を救える。
切り捨てて切り捨てて切り捨てて切り捨てて……
自分でも分かってしまう程に摩耗して。
それでも歩み続けて来た。
そんな、果てしなく長い旅路であった。
これで……終わる。
目覚めた君が何を思うのかは分からない。
それでも俺は、この歩みを止めることはない。これが正しいと信じるしかないのだから。
半ば崩れ落ちるかのようにリビングのソファーに腰掛け、そのまま静かに目を瞑った。
思っていたよりも疲労が溜まっていたのか、一気に眠気が襲いかかってくる。
今はただ、陽菜が起きるまでの僅かな時間を休息に費やすことにしよう。
思考を閉ざし、張っていた緊張を解く。
幾年にも渡って瞼の裏に映り続けていた地獄は、どこまでも続く無間の暗闇に戻っている。
今日は静かに眠れるような気がした。
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