第8話「(理由の欄は、空欄のまま)」
昼過ぎ、寝ているところをオットに叩き起こされた。
「セオさん、起きて。すごいの見つけた」
14歳の「すごいの」はたいてい鳥の巣か大きな蜘蛛と相場が決まっているので、俺は半分寝たまま欠伸を噛みつつ番所へ降りた。机の上に載っていたのは蜘蛛ではなく、埃をかぶった綴りの束だった。
「倉の奥の棚。薪の請求書を探してたら、下から出てきた」
古い日誌である。表紙の年号は8年前から3年前まで、5冊。俺が引き継いだ棚には直近の2冊しかなかったから、それより前の分は麓の記録所に行ったとばかり思っていた。行っていなかったらしい。倉の棚の下で、薪の請求書に埋もれて。
俺は埃を払って、いちばん新しい1冊を開いた。3年前——閣下が投獄された年の日誌だ。紙は湿気で波打っていたが、字は読める。当時の夜番の、几帳面で、少し右上がりの字。
頁をめくる。異状なし。異状なし。異状なし。囚人収監、7号房。異状なし。異状なし。
めくる手が、だんだん速くなった。
閣下が来てからの日誌に、逃走の記載が、1件もない。
異状なしの列が延々続くだけだ。前の前の夜番も、前の夜番も、俺が毎晩書いているようなことを何ひとつ書いていない。書き忘れたのではない。3年ぶん、1件もないのだ。
つまり——あの人の毎晩は、俺が来てから始まった。
いや、待て。記録がないだけで、脱獄はあったのかもしれない。書かなかっただけかも。ひと冬で辞めた前任は「書いたら死ぬ」と言われていた。書けなかった可能性のほうが高いじゃないか。
俺は綴りを窓の明かりにかざして、綴じ目を確かめた。父の仕事場で覚えた見方だ。糸を替えれば穴が増える。頁を抜けば糸目が飛ぶ。差し替えられた綴りは、背のかたちに必ず嘘が残る。
5冊とも、穴は2つ。糸は通しで、飛びがない。頁の番号も連続している。
差し替えなしの、本物だ。
本物の「異状なし」が3年続いて、俺が来た夜から「逃走のち帰還」が始まった。記録の上では、そうとしか読めない。記録の上では。
オットが横から覗き込んで、埃で鼻の頭を黒くしたまま、不思議そうに言った。
「これ、まずいものだった?」
「いや。……手柄だ。倉の整理代に取っておけ」
銅貨を1枚渡すと、オットは天井へ放って受け止めて、袖でこすってまた放った。稼ぎを磨く14歳である。それから急に声を落とした。
「セオさんさ。規則の10の3。発見物は塔長に届け出ること」
「届け出るよ」
「いつ?」
「……検分が済んだら」
「ふうん。おいら規則は全部覚えてるけど、それが何日かかるかって規則は、ないんだよね」
14歳はにやりと笑って薪割りに戻っていった。末恐ろしい。あの丸暗記はいつか塔を回すようになる。
俺は5冊を番所の棚のいちばん奥へ並べて、いちばん新しい1冊だけ、机の上に残した。検分は、そうだな、当分かかる。
第44夜。夕方から風が強くて、塔じゅうの継ぎ目が低く鳴いていた。こういう晩は物音の当てにならない。
23時30分、7号房、囚人不在。
窓は埋まり、鍵は替わって、樽には検分が入った。名簿は照合されるようになったしシーツは員数を改められ、井戸には格子が嵌まった。この2か月で塔の穴は俺の日誌の分だけ塞がれて、残りの道は、俺の勘定ではもう1本しかない。
その1本がどこなのか、俺は知らない。番所で戻りを待った。
1時13分、階段の下——それも、あり得ない方向から足音がした。3層の、空き房の側からだ。
降りていくと、1号房の奥の床板が1枚、開いていた。床下から灯りがのぼってきて、埃だらけの閣下が穴から現れた。肩に蜘蛛の巣、髪に白い粉。埋め殺しの階段、と言った。塔が建ったときの資材搬入路で、図面からも消えている、と。
最後の1本は、塔の腹の中にあった。
穴の縁から下を覗くと、狭い石段が闇へ折れて消えていた。石段の縁だけ、埃の積もりが薄い。誰かが長く通った跡だ。灯りを向けても底は見えない。底のほうに何かある気配だけが、埃と黴の匂いに混ざって薄く上がってくる。降りて確かめるべきなのだろうが、俺の膝は縁のところで止まって動かなかった。見なかったものは書けない。今夜はそれでいいような気が、なぜかした。
埃を吸って、乾いた咳がひとつ出た。それから俺は、いつものやつを聞いた。
「戻ってこられた理由を、伺っても」
いつもの問いを、いつもの調子で聞いた。冷たい風に空の荷車、足りない鳩に返された鍵、名簿にシーツに図面に薬。今夜はどんな理由が来るのか——正直なところ、俺の羽根ペンは少し楽しみにさえしていた。
閣下は、答えなかった。
埃を払う手が止まって、それから、俺を見た。いつもの、楽しくて仕方がないという顔ではなかった。怒っているのでも、隠しているのでもない。ただ——答えを探して、見つからなかった顔だった。
「……閣下?」
「今夜は」
そこで言葉が終わった。今夜は。その先が、来ない。
沈黙が長引いて、埃が灯りの中をゆっくり落ちた。俺は待った。待つのは得意だ。この2か月、毎晩待っていた。だが今夜の待ち時間は、これまでのどの夜とも重さが違う。急かす言葉も埋める軽口も、この場のどこにも置き場がない。
やがて閣下は、床板を元に戻し、掌で叩いて均した。枠石のときと同じ手つきで。埃で白くなった髪も払わないまま、それから房へ向かって歩き出した。
1号房の格子の影が、灯りに引き伸ばされて床板の上を横切っていた。空き房というのは、人の房より暗い。
俺は後ろをついて歩いた。階段を4層ぶん、どちらも何も言わずに。錠を下ろすときになって、閣下は格子の向こうから、いつものように俺の手元を見た。
「今日は何と書く」
いつもの問いだった。なのに、今夜は続きがあった。
「書く欄が、ないだろう」
……ない。
時刻はある。経路もある。埋め殺しの階段、と書ける。だが理由の欄に入れるものを、今夜の俺は何も受け取っていない。しょうもない理由も仕事の匂いのする理由も、何ひとつ。
「白紙で出すのか。それとも、何か作るのか」
試すような聞き方だった。作る。俺が。理由を。それらしい一行なら書ける。体調の散歩とか、眠れなかったのでとか。埋まった欄は誰の目にも収まりがいい。
「……作りません」
「そうか」
「作ったら、俺の日誌ではなくなるので」
閣下は何も言わずに毛布を引き寄せて、壁のほうを向いた。その背中に向かって錠を下ろす音が、いつもより大きく響く。
番所に戻って、俺は日誌を開いた。
——1時13分。7号房、囚人アルヴィス・ダルグレン、房内に在り。経路、1号房床下の旧階段。理由、
理由、まで書いて、羽根ペンを置いた。
空欄は、白い。マティアスの頁の白とは違う白だ。あっちは何もなかった白で、こっちは、何かがあったのに書けない白だ。同じ白でも、俺にはもう見分けがつく。つくようになってしまった。
機嫌のいい脱獄と、そうでない脱獄があるなら、今夜のは後者だった。2か月分の理由の欄を、俺は最初の頁からめくり返した。冷たい風、空の荷車、36羽の鳩。並べて読むと、ふと、嫌な考えが浮かんだ。
この楽しい理由の列は、誰のために書かれてきたんだろう。
俺は日誌を閉じた。理由の欄は、空欄のまま。空欄のまま綴じるという選択を、俺は今夜、この日誌に覚えさせてしまった。番所の灯りを消す手が、妙に重かった。




