第7話「薬を、もらい損ねた」
夕方の引き継ぎで、マティアスが世にも珍しいものを残していった。伝言である。あの寡黙な男が、口頭で、三語も。
「7号が、腹痛。医者を呼んだ」
腹痛。あの人が。
俺は疑いから入った。われながら性格が悪くなったと思うが、仕方がない。あの人の「腹が痛い」は、俺の中ではもう「屋根の鳩が足りない」と同じ棚に入っている。
日が落ちてから、バルテル先生が坂を上がってきた。麓の村医で、週に一度の定期の往診がある。60を越えて、膝が悪くて、それでもこの崖の坂を月に4回上がってくる律儀な人だ。
「呼ばれたのでな。急患だそうだ」
鞄を提げ直す手つきだけは、疑いのない医者のそれだった。
「……そうだと、いいんですが」
「含みのある言い方をするな、夜番どの」
先生を5層まで案内して、俺は診察のあいだ廊下で待った。格子の向こうから聞こえてくるのは脈がどうの舌を見せろだの、いつもの診察の音だ。やがて先生が「湿布を取ってくる。鞄を下に置いてきた」と房を出て、階段を降りていった。
それきり、しばらく誰も出てこなかった。
23時30分の見回りの時間になったので、俺は格子の中を確かめた。寝台に人が横になっている。毛布を頭までかぶって、深く眠っているようだ。よかった、今夜は房にいる。そう思いかけて、俺は毛布の裾から出ている靴に気づいた。
診察を受ける人間は、靴を履いて寝ない。しかもあれは、坂道用の泥よけのついた、年季の入った革靴だ。
「……先生?」
毛布がもぞりと動いて、バルテル先生が顔を出した。
「おお、夜番どの。もうそんな時刻か」
「なぜ先生が患者の寝台に」
「横になっておれと頼まれたのでな。診察の続きだと思って従ったんだが、続きが来ん」
来るわけがない。診察するはずの患者は、たぶんもう塔にいない。
俺は階段を駆け降りた。番所の壁の釘に、見慣れない外套が掛かっている。先生の外套と帽子と鞄が、ない。日勤の申し送り板に、マティアスの字で一行。
——21時50分、バルテル医師、帰宅。門まで見送り。
見送られたのは誰だ。あの几帳面な字が、今夜ばかりは端から嘘をついている。
答えは分かりきっていたが、俺は一応、日誌に書いた。21時50分、医師の外套が塔を出た。中身は不明。見当は、ついている。
房へ戻ると、先生は寝台に起き上がって、呑気に窯菓子を齧っていた。枕元の布に見覚えがある。あの塩焼き菓子だ。買い置きまでして人を待たせる算段だったらしい。
「先生。止めなかったんですか」
「患者に頼まれたのでな。外套を貸してくれ、代わりに横になっていてくれ、と。患者の言うことを聞くのが長生きのコツだ」
「ここは牢なんですが」
「わしの目の前におるのは患者でな。場所は問わんことにしとる」
この人はこの人で、だいぶ図太い。60年の年季は伊達ではなかった。
先生は菓子の最後の欠片を口に入れ、指の塩を払った。それから思い出したように往診鞄——のあった場所を見て、鼻を鳴らした。診察道具ごと持っていかれた医者の顔ではない。貸した道具の戻りを疑っていない顔だ。
「そもそも、腹痛というのは」
「噓だな」
あっさり言った。
「脈は落ち着いておったし、舌もきれいなものだ。だいたいあの方はな、夜番どの。わしが往診を始めて3年、風邪ひとつ引いておらん。囚人があんなに健康なのは、職業柄どうかと思う」
3年間、ずっと健康。仮病も見抜かれている。それでも先生は外套を貸して、寝台で待って、菓子を齧っている。
「では、今夜呼ばれたのは」
「薬を持ってこさせるためだろうな。ほれ」
先生は鞄——は持っていかれたので、上着の内側から小さな包みを出した。油紙に几帳面に畳まれた、粉薬の包みが7つ。
「胃薬だ。頼まれておった。あんたのだよ、夜番どの」
「……俺の?」
「先週の往診でな、あの方が言うんだ。うちの夜番は月末になると胃を押さえて歩いとる、処方しておけ、と。わしは囚人に処方を指図される医者だ。長生きはするもんだな、いろんな目に遭える」
俺は薬の包みを受け取って、しばらく声が出なかった。3年のあいだ自分のためには薬ひとつ頼まなかった人の、最初の処方の指図が、他人の胃薬だった。
しかも当の本人は、その薬を受け取る前に、医者の外套で夜へ出ていった。何をしに行ったのかは知らないが、段取りのどこかが確実に間違っている。
0時26分、正門が、こつこつと2回鳴った。
開けると、バルテル先生がもう一人立っていた。外套と帽子と鞄。ただし中身は29歳の囚人で、坂を上がってきたのに息も切れていない。膝の悪い60代を装う気は、帰り道には残っていなかったらしい。
「戻ってこられた理由を、伺っても」
「薬を、もらい損ねた」
夜気の中で、医者の帽子がゆっくり傾いた。大真面目である。この人の大真面目は、だいたい俺の日誌の敵だ。
「……胃薬なら、ここにありますが」
俺が包みを持ち上げてみせると、閣下は帽子の下でまばたきをした。
膝の悪い医者の帽子と、崖を降りる男の目。組み合わせの悪さに俺が慣れてきているのが、われながら末期だと思う。閣下は心底残念そうに言った。
「先に渡したのか。あの爺は段取りを飛ばす」
「段取り」
「俺が受け取って、俺が渡すはずだった」
知るか。
待て、知るかで流すな。整理しよう。この人は俺に胃薬を渡すために医者を呼んで、医者が来たら外套を借りて出かけて、薬を受け取り損ねたから戻ってきた。行程のすべてが無駄だ。最初から先生が俺に渡せば済む。のだが、それを指摘する気力は、夜番にはもう残っていない。
「閣下。これ、日誌に書けないんですが」
「今夜のどこがだ」
「全部です。囚人が医師に化けて外出し、医師は房で菓子を食べ、看守は胃薬をもらいました。どこから書いても、報告書ではなく笑い話になります」
「事実は変えられん」
「事実のほうに反省してほしいんです」
言い争いの途中で階段から先生が降りてきた。俺たちを交互に見て、「仲がいいのは結構だが、外套を返してもらえんかね。夜が冷える」。言い争いはそこで打ち切りになった。
外套一式は先生に返された。先生は「では今度こそ帰宅する」と言い、俺は門まで見送った。同じ夜に同じ外套が二度帰宅する。日誌の時刻の欄が、今夜は行きも帰りも二重になった。
去り際、先生は思い出したように振り返った。
「夜番どの。診療の記録には、今夜のことを何と書けばいいかね」
「……事実を、とお答えしたいところですが」
「往診1件、処方1件、患者は健康。これでどうだ」
「先生、それは」
「嘘は書いておらん。書かないこともあるだけだ」
にやりと笑って、先生は坂を降りていった。書かないこともあるだけ。あの塔長と同じことを、医者は医者で60年やってきたらしい。書く人間はどこの持ち場でも、同じ崖っぷちを歩いている。
房の錠を下ろした。閣下はとうに寝台へ引き上げていて、毛布の中から、俺の持つ薬の包みを顎で指す。
「飲んでおけ。月末だろう」
「……いただきます。処方の経緯は書きませんが」
「書いておけ。医者の指図より効く」
どういう薬理だ。
1包み目は、番所の白湯で流し込んだ。粉は苦くて、少し塩の味がした。効くかどうかは分からないが、胃のあたりが温かいのは白湯のせいだけではない気がして、それは日誌のどの欄にも書かなかった。




