第6話「図面が1本、間違っていたので」
非番の明けの朝は、日誌をめくるのがちょっとした習慣になった。
マティアスの頁は今回も一行だった。異状なし。その前の非番も一行、そのまた前も一行。俺の頁は往復だの預かり物だの鳩の羽数だので毎晩埋まるのに、7日ごとに挟まる仮直の頁だけ、拍子抜けするほど白い。
几帳面な男だから、書くことがなければ書かないのだろう。書くことがなければ、だ。白い頁を親指で押さえたまま、俺はしばらくめくる手を止めていた。何かが引っかかっているのに、引っかかりの正体に手が届かない。
マティアスの夜は、静かだ。塔がいちばん牢らしくある夜が、看守の休みの夜だというのは、勘定としてどこか間違っている気がする。
まあ、いい。俺の夜がうるさすぎるだけかもしれない。
第34夜は、水の音で始まった。
23時30分の見回りで7号房が空だったのはいつも通りとして、階段を降りる途中で妙な音を聞いた。塔の腹の奥から、こぽ、と。井戸である。1層の隅にある古い井戸で、飲み水は雨水槽から取るから、いまは縄も桶も外されて蓋が載っているだけの穴だ。
蓋が、ずれていた。
覗くと、暗い水面のずっと下で、灯りが揺れていた。井戸の壁の途中に横穴が開いていて、灯りはその奥へ、ゆっくり遠ざかっていく。呼びかけようとして、やめた。井戸に向かって閣下と呼ぶ夜番を、誰かに見られるほうが困る。
旧水路だ。塔が建つ前からこの崖にあったという導水路の話は、着任のとき聞かされていた。涸れて久しく、入口は埋めたはずだ、と。その穴の奥で、いま、誰かの灯りが泳いでいる。誰か、というのは礼儀で言っている。この塔でああいうことをする人間は一人しかいない。
俺は井戸の縁に肘をついて、しばらく考えた。追うか。……どうやって。縄はない。桶もない。夜番が井戸に落ちて、明朝発見される。日誌の最後の記入者が俺で、死因の欄まで俺の字というのは、記録として様にならない。
井戸の縁には、あの人の外套が畳んで置いてあった。今夜は着てきて、脱いで、置いて降りたらしい。学習している。学習の方向が全面的に間違っている。
番所で待つあいだ、湯を沸かした。11月の井戸から出てくる人間に何が要るか、考えるより先に手が薪をくべている。看守の職務のどこにも湯沸かしはないが、凍死人の検分書を書くよりは安い。
1時4分、井戸の水音がまた立って、濡れた手が縁にかかった。
引き上げるときは、濡れた袖を掴んで引いた。引きながら、俺はもう驚いていない自分に気づいていた。囚人が井戸から生えてくる。この光景に驚かなくなるまで、着任からふた月かかっていない。
濡れた髪のまま、悪びれるという発想ごと持ち合わせていない顔が、そこにあった。
「冷えるな」
「冷えるでしょうね。11月の、真夜中の井戸ですから」
湯を差し出すと、閣下は椀を両手で包んで、まず湯気を顔に当てた。飲むより先に温度を顔で受ける。こういう水との付き合い方は、治水をやっていた人の癖なのか、ただ寒いだけなのか。
髪から水を滴らせて、それでも濡れた紙包みだけは胸に抱え込んでいた。蝋引きの布で二重にくるんである。用意のいい濡れ方だった。
「戻ってこられた理由を、伺っても」
「図面が1本、間違っていたので。直してきた」
これまでの理由と、手触りが違った。
風が冷たかった。荷車が空で、鳩が足りない気がして、名簿の据わりが悪かった——あれらは全部理由の顔をした何かだ。だが今夜のは、理由だ。仕事の匂いがする。
「図面、というのは」
「旧水路の敷設図だ。3年前、崖の湧きを測り直したとき、俺の指示で1本引き直させた。それが間違っていた。分岐の角度が、実際の岩盤と合っていない」
「……それだと、何かまずいことが」
「大雨の年に、水が塔の基礎へ回る」
こともなげに言われたが、それはつまり、この塔の下が濡れるという話だ。終身刑の塔の基礎が。囚人が。自分の牢屋の地盤のために。真夜中に。井戸を潜って。
どこから突っ込めばいいのか分からないときは、順番に全部聞くしかない。書記課で覚えた唯一の交渉術である。
「それで、直せたんですか」
「線だけな。掘り直しは俺の手には余る。写しを麓の水利組合に置いてきた。あとは春を待てばいい」
閣下は紙包みの端から、折り畳んだ切れ端を1枚抜いて、俺に寄越した。古い図面の隅を切ったものらしい。涸れ水路の分岐が細く引かれ、その1本に、真新しいインクで訂正が重なっている。
「持っていろ。改修が入ったら、それが古いほうの証拠だ」
「また預かり物ですか」
「記録係だろう」
記録係だ。反論の余地がなくて、俺は切れ端を受け取った。訂正の線は定規も使わずに引いたはずなのに、まっすぐだった。この人の手は、暗い水の中でもまっすぐ線を引く。
「閣下。これ、日誌に書けないんですが」
「今夜は何がだ」
「囚人が公共の水利を直した、と書くと、囚人の意味が分からなくなります。罪を償う場所で土木の善行を積まないでください。帳尻が合いません」
「帳尻なら3年前から合っていない。1本ぐらい増えても変わらん」
冗談の形をしていたが、冗談の速さではなかった。俺は聞かなかった顔で、切れ端を畳んだ。
井戸の水は、鉄と苔の匂いがした。引き上げた腕にもその匂いが移って、袖口で冷たく乾いていく。
房へ送る階段で、濡れた靴が石を踏むたび、みしみしと鳴った。着替えを渡し、毛布を2枚にして、俺は格子の外から一応の説教をした。11月の水は人を殺す。今夜のは、いくらなんでも。
「心配するな」
閣下は毛布の中から、寝る前の世間話みたいに言った。
「逃げようと思えば、何度でも逃げられる。逃げないだけだ」
「……それは、存じてますが」
「知っているなら、溺れる心配だけしていろ。逃げる心配は要らない」
言われて気づいた。俺はいま、囚人の逃走ではなく溺死の心配をしていた。看守の心配の配分としては、たぶん、順番があべこべだ。なのに、直す気になれない。
妙な理屈で丸め込まれた、と思いながら日誌を開いた。時刻、経路は井戸から旧水路、申し立ては図面の訂正。預かり物の欄に、図面の切れ端1枚。
書き終えて、ふと、手が止まった。
紙包み。
閣下が濡れながら胸に抱えていた、蝋引きの布の包み。あれは図面の写しで、麓の水利組合に置いてきた——そう言っていた。だが引き上げたとき、包みはまだ胸にあった。置いてきたなら、なぜ持って帰る。予備の写しか。別の紙か。
考えて、やめた。濡れた紙の数を数える欄はない。それに、あの包みは図面1枚にしては厚かった気もするけれど、暗かったし、俺は測っていない。測っていないものは書かない。
書かないが、覚えてはいる。
次の非番の明け、マティアスの頁はまた一行だった。異状なし。
白い頁の隣に、俺の昨晩の頁がある。井戸に旧水路に図面の切れ端。埋まった頁と白い頁が、綴じ目を挟んで向かい合っている。
7日に一晩だけ、この塔は本当に静かになるらしい。井戸も鳴らず屋根も鳴らず、正門を叩く音もない。囚人は房で眠って、仮直は一行書いて、それで夜が明ける。
なんだ、その夜は。
俺は日誌を閉じて、考えるのをやめた。やめたが、覚えてはいる。最近こればかりだ。書けないものと測っていないものが、日誌の外側にどんどん積もっていく。
積もった先に何が待っているのか、まだ知らない。




