第5話「シーツが1枚足りないと、あの人が弁償させられる」
イルサさんは、7号房の膳だけ音を立てて置く。
ほかの房の膳は流れるように滑らせるのに、7号房の前でだけ、盆の底が石の床を打つ。わざとだ。しかも毎回で、それを閣下はそのつど礼を言って受け取る。俺は夕方の引き継ぎでその光景を何度も見てきたが、日誌に書いたことはない。膳の音を書く欄はない。
その日の夕方は、音がいつもより大きかった。
理由は洗濯場に貼り出された紙だった。月末の員数改めでシーツが1枚足りず、洗濯番の給金から差し引く、と書いてある。署名はケラー殿。あの人の字にしては珍しく、線の細い字だった。書きたくない字は細くなる。
「聞いたかい、夜番の」
イルサさんは俺を捕まえて、洗濯場の紙を顎で指した。
「あたしが盗ったとでも言うのかね。シーツなんぞ盗ってどうする」
「員数の記録を見ましょうか。搬出の荷と突き合わせれば、どこで消えたか——」
「けっこう」
ぴしゃりと言われた。差し出しかけた帳面案は、開く前に卓の下へ戻すしかない。
イルサさんは前掛けで手を拭いて、それからまっすぐ俺を見た。
「書き物で助けてもらう筋合いはないよ。あんたのその日誌も、あたしは好かない」
好かない、と面と向かって言われて、しかし不思議と嫌な感じはしなかった。この人の悪意は膳の音と同じで、全部表に出ている。裏がないぶん、あの塔長の抽斗より扱いやすい——なんて思っていられたのは、そこまでだった。
「夜番の。あんた、7号のあれと親しいんだってね」
「職務上の接触です」
「オットから聞いたよ。屋根で並んで茱萸を食ってたって」
オット。あの口の軽さは給金に響かせるべきだと思う。
イルサさんは腕を組んで、俺を上から下まで見た。夕方の廊下は膳の匂いと石鹸の匂いが混ざって、彼女の袖はいつも少し湿っている。
「悪いことは言わない。あれと口をきくのはおやめ。あれはね、人の家を流した男だよ」
「……銀環区の」
「姉さん夫婦の家があった。312のうちの1つさ」
声の温度は変わらなかった。膳の音で怒る人が、この話だけは平らな声でする。平らな声のほうがよほど怖いということを、俺はこの夕方に知った。
「水が来たのは夜でね。寝間着のまま逃げたんだ。家財も、婚礼の道具も、親父の位牌も、全部置いてさ。いまは灰粉町で間借りして、床の水染みを見るたびに泣いてる。……何がおかしいって、灰粉町はあの夜、濡れてもいないんだ」
俺は何も言えなかった。事実として知っていた。312戸、死者なし。日誌ならそう書く。だがイルサさんの姉さんの位牌は、死者なしの行には載らない。書式に載らないものを、書式の外から突きつけられて、俺は返す行を持っていなかった。
「まあ、あんたに言っても仕方ないがね」
イルサさんは踵を返しかけて、思い出したように付け足した。
「前の夜番も、あんたみたいに真面目な顔で帳面をつけてたよ。ひと冬で辞めたけどね」
「……理由を、ご存じですか」
「さあね。辞める前の晩、青い顔で言ってたよ。書いたら死ぬと言われた、って」
誰に、と聞く前に、イルサさんは膳を抱えて行ってしまった。廊下に石鹸の匂いだけが残って、俺はしばらくそこから動けなかった。
書いたら死ぬ。
俺は毎晩書いている。
第28夜。23時30分、7号房、囚人不在。窓、無傷。大扉、施錠。搬出口、閂。
0時2分、寝台の上のシーツがないことに、遅れて気づいた。毛布はある。シーツだけない。
0時19分、搬出口の外で衣擦れの音。開けると、閣下が肩に白いものを担いで立っていた。畳んだシーツである。新品の、まだ糊の匂いのする。
「戻ってこられた理由を——いえ、その前に。それはうちのシーツですか」
「違う。麓で買った。うちのは崖の中腹だ」
「崖」
「裂いて縄にして降りた。引き上げる途中で岩に引っかかってな。あれはもう布として使いものにならん」
悪びれもせず言って、閣下は新品のシーツを俺に押しつけた。糊の匂いの向こうに、ほんの少し、夜通し焚く窯の匂いがする。またあの茶屋で銭を借りたな。
「洗濯場に置いておけ。員数が合えば、あの貼り紙は剥がれる」
「立て替えます、と言いたいところですが」
「やめておけ。お前の月給は銀貨14枚だ。シーツに銅貨を割くと、月末の胃薬が買えなくなる」
なんで俺の給金の額を知っているんだ。俺の胃の予算まで。
「……ご存じだったんですか。弁償の件」
「膳の音が違った。あれは怒っているときの音じゃない。困っているときの音だ」
膳の音で人の機嫌を聞き分ける囚人。俺はそれを日誌のどの欄に書けばいいのか、考えて、諦めた。
担がされたシーツを抱え直す。糊の効いた布は角が立って、抱えると顎の下がちくちくした。
「閣下。これ、日誌に書けないんですが」
「今日はどこだ」
「囚人がシーツを裂いて脱獄し、代わりのシーツを買って帰った。差し引きすると、この塔は今夜、シーツが1枚増えています。牢の備品が脱獄のたびに増えるのは、書式として、何かがおかしい」
「得をしたなら書かなくていい」
「損得の欄はありません」
「作るな。あれは際限がなくなる」
妙なところで書式に詳しい。
翌朝、俺は洗濯場の棚に新品を1枚足しておいた。員数改めは通って貼り紙は剥がされ、差し引きの件はそれで消える。ここまでは、よかった。
よくなかったのはその後だ。イルサさんが番所に来て、机に銅貨の包みを置いた。
「シーツの代金。あれに渡しな」
「……気づいて、おられましたか」
「洗濯番を20年やってるんだ。棚の布が1枚増えて気づかないもんかね」
ぐうの音も出ない。そもそも員数を数える側の人に、員数で細工をしようというのが浅かった。
「渡せば、閣下もきっと」
「言っただろう。あれの施しは受けない」
銅貨の包みは、きっちりシーツ1枚ぶんだった。麓の店の値まで調べたのだ。この人は借りを作らないためだけに、憎い相手の善意を金に換算して突き返す。それが20年ぶんの筋の通し方だった。
「イルサさん。ひとつだけ」
俺は包みを受け取りながら、言わなくていいことを言った。分かっていたのに、口が先に動いた。
「閣下は、灰粉町を——」
「言うんじゃないよ」
遮り方は、静かだった。
「灰粉町が助かった話をされたら、あたしは姉さんの位牌をどこへ持っていけばいい。……あんた、書く人なんだろう。なら分かるはずだ。帳尻が合うことと、済むことは、別なんだよ」
俺は包みを持ったまま、頭を下げることしかできなかった。仲裁のつもりの一言は、形になる前に終わった。完敗である。
夜、銅貨の包みを格子の間から差し入れると、閣下は中を検めもせずに机の隅へ置いた。
「あの人は昔からああだ」
「昔から?」
「……いや。ああいう人は、どこにでもいる、という意味だ」
言い直しが半拍遅い。だが俺はそれを追わなかった。追う代わりに、日誌の預かり物の欄に一行足す。銅貨1包み、差出人の意向により返却済み。
書きながら考えていたのは、イルサさんの言葉だ。帳尻が合うことと、済むことは別。だとしたら俺の日誌は、毎晩帳尻を合わせているだけで、何ひとつ済ませていないのかもしれない。
その晩の理由の欄は、いつになく短くなった。
——シーツが1枚足りないと、洗濯番が弁償させられるため。
済んでいない話を書式に収める夜は、インクがいつもより重い。




