第4話「名簿に俺の名がないのが、落ち着かない」
監察が来る朝の塔は、俺の知っている塔ではなかった。
階段は水拭きされ、獣脂ランプの煤は削ぎ落とされ、番所の机の上には何もない。何もないのが一番おかしい。俺の机には常に書きかけの何かがあるのに、今朝は日誌が1冊、定規で測ったみたいに真ん中へ置いてあるだけだ。置いたのはケラー殿である。
「フィンチ君。監察の質問には、聞かれたことだけ答えなさい」
「はい。事実を」
「……そうじゃない。いや、そうなんだが」
ケラー殿は言い直しを2回試みて、2回とも途中で諦めた。「事実を」の部分をどう削らせるか、削らせろと言った事実をどう残さないか。念の押し方ひとつにも保身の年季が要るらしい。俺にはまだ書けない芸当だ。
監察は年に二度、王都から上がってくる。一行は9名。正使の監察官に書記が2名、あとは随員たち。ケラー殿は正門の前に日勤と並んで立ち、俺は夜番なので本来寝ている時間だが、全員整列と言われて末尾に立たされた。
通り過ぎる一行の、最後尾の男だけが歩調が違った。
ほかの8人は塔を見上げたり書類をめくったりしながら歩くのに、その男は正面だけを見て、革手袋を外さないまま、両手を身体の脇に垂らして歩く。塔に入るとき、男は一度だけ立ち止まった。見たのは塔でも俺たちでもなく、5層の——7号房の窓のあたりだった。
名は知らない。ただそのとき、手袋の指がゆっくり折り畳まれて拳になり、また開いた。それきりの、意味の取れない所作ひとつを、なぜか俺は夕方まで覚えていた。
監察は昼で終わった。日誌も検められた。書記が頁をめくる速さは1頁につき2呼吸で、あれは読む速さではない。数えている速さだ。頁の数が揃っているか、破り取られた跡がないか。中身は、王都に持ち帰った写しで誰かが読む。
誰が読むんだろうな、とは思った。考えるのはやめた。
俺の「往復の記録」の欄も、預かり物の欄も、書記は素通りした。塔の書式にない欄は、ないのと同じ扱いになるらしい。半月かけて増築した俺の日誌は、王都の目には映らない。安心のような、腑に落ちないような、両方の味がした。
一行は夕方の坂を下りて麓に宿を取る。明朝もう半日残っていて、うちの塔の廏に泊まる随員もいる。つまり今夜の塔は、いつもより人が多い。
人が多い夜に限って、である。
23時30分、7号房、囚人不在。
俺は日誌に時刻を書き、窓と扉と搬出口を確かめ、それから番所の椅子で戻りを待った。四度目の夜は、待つ姿勢まで様になってくる。よくない習熟だと自分でも思う。
0時31分。靴音が、坂の下から正門へ、堂々と上がってきた。
窓から覗くと、月明かりの坂道を、囚人が歩いて登ってくる。隠れもせず急ぎもせず、散歩の帰りの顔で。それから正門の前に立ち、外から開くはずのない閂を、こつこつと2回叩いた。
開けてやった。それから、俺は自分の行動に疑問を持った。看守が囚人のために門を開ける。今夜も日誌が難しい。
考えてみれば、廏には随員が二人泊まっている。あの靴音と閂の音で起きたらどうするつもりだったのか。起きなかったのは、たまたまか、それとも眠りの深さまで調べがついていたのか。聞いても「さて」と言われる気がしたので、聞かなかった。
「ただいま」
「おかえりなさ——ではなく。どこへ行っておられました」
あぶない。いま俺は完全に出迎える側の返事をしかけた。囚人の帰りを門で出迎えて挨拶まで返したら、この塔の何が牢で誰が番なのか、書式で説明できなくなる。
「麓だ。監察の宿に用があった」
宿。監察の。血の気が引く音というのは、実際にする。いま、した。
「何を、しに」
「名簿を直しに」
閣下は懐から紙を1枚出して、番所の机に広げた。随員名簿の写しである。9名の名と到着の刻限が並び、その下に、見覚えのある筆致がもう1行。
——アルヴィス・ダルグレン。
「宿の帳場は9人で聞いていたのに、夜のあいだ厠の前で10人目とすれ違ったらしくてな。主人が朝から数え直しては青くなっていた。気の毒だろう。だから昨日から10人だったことにしておいた」
すれ違ったの、あなたでしょう。宿の主人の胃を痛めておいて、気の毒がる側に回らないでほしい。
「していい訳がないでしょう」
「なぜだ。10人いた。実際に」
「その10人目は囚人です」
「名簿はそこまで聞いてこない」
絶句する俺の前で、閣下は満足そうに写しの皺を伸ばしている。この理屈のたちの悪さは、正しさと同じ形をしていることだ。名簿という書式は名を数える。身分の欄がなければ、身分は存在しない。書式の穴を、この人は錠前の穴と同じ目で見ている。
「閣下。これ、日誌に書けないんですが」
「名簿には書けたぞ」
書けた書けないの問題じゃない。いや、書けた書けないの問題ではあるんだが、そうじゃない。
「戻ってこられた理由を、伺っても」
「名簿に俺の名がないのが、どうにも落ち着かなくてな」
「書き足しに、麓まで」
「ああ。据わりが悪いのは直すに限る」
据わり。名簿の据わりのために囚人が夜の崖を降りる国は、たぶんここだけだ。
閣下は写しを指で滑らせて、俺のほうへ向けた。
「よく見ろ」
見た。9名と、書き足された10人目。その、さらに下だ。
11行目に、同じ筆致で、もう1つ名前がある。ランプの明かりの下で、その3文字と2文字は、たしかに俺の名の形をしていた。
——セオ・フィンチ。
「……なんで俺の名まであるんですか」
「ついでだ」
「ついでで公文書に人を増やさないでください。俺は塔にいました。ここに。一晩じゅう」
「知っている。だから書いた」
意味が分からない。分からないのに、閣下は写しを畳んで、俺の胸元へ押しつけてきた。
「持っていろ」
「押収品ならまだしも、囚人からの預かり品という筋があ——」
「写しだ。本物は宿にある」
そういう問題ではない。ないのだが、両手で受け取ってしまってからでは、もうどうにもならないのは干し無花果で学習済みだ。俺の抽斗は囚人からの預かり物ばかり増えていく。
房へ送る階段で、閣下がふと、前を向いたまま言った。
「名簿に名前がない人間は、いなかったことになる」
「……はい」
「逆も言える。名簿に名前があれば、いたことになる。いてもいなくてもだ」
紙のほうが人より強い、という話を、この人は笑い話の顔で言う。だが声の底が笑っていないのは、階段の暗がりでも分かった。名簿に書かれなかった人間の話なのか、書かれてしまった人間の話なのか、それだけが分からない。
錠を下ろすとき、俺は一つだけ聞いてみた。
「閣下。監察の中に、手袋を外さない方がいました」
閉まりかけた格子の向こうで、毛布を引き寄せる手が、半拍だけ遅れた。
「……そうか。もう来たか」
誰が、とは教えてもらえなかった。
日誌はその夜のうちに書いた。時刻、経路は正門、申し立ては名簿の訂正。それから預かり物の欄——先週作った——に、写し1通と書き足す。
書き終えて、抽斗に写しをしまいかけて、手が止まった。
11行目の俺の名前と、隣に添えられた到着の刻限、17時。筆致は閣下のものなのに、7の字にだけ横棒が入っている。
俺の癖だ。先週、格子越しに読み上げられた、俺の書式の癖。名を借りるなら字も借りる、ということなのか。それとも——俺の名前を書く練習を、どこかでしていたのか。
どちらにしても、日誌には書けない。書けない行がまた1つ増えて、抽斗の中では、囚人からの預かり物だけが育っていく。




