第3話「鍵を、返しに来た」
オットが怒られている。
朝の番所の前で、ケラー殿が珍しく声を大きくしていた。議題は鍵である。塔の鍵は3本。2層の大扉、各房の共通錠、それから倉。夜は俺の腰に、昼は塔長室の壁の釘に掛かる。その受け渡し簿の昨日の欄に、オットの字で「うけとり」とだけ書いてあって、時刻がない。
「時刻のない受け取りは、受け取っていないのと同じだ」
ケラー殿がそれを言うのか、と思ったが黙っていた。日誌を読まなかったことにする人の言葉とは思えない正論だ。オットは首をすくめて「6時半です」と言い、簿面に時刻が足された。14歳は立ち直りも早く、昼には口笛を吹いて薪を運んでいた。
俺はといえば、受け渡し簿の綴じ目を無意味に眺めていた。父の仕事場の癖だ。紙が糸で綴じてあると、つい穴の数を確かめてしまう。この簿は2つ穴で、綴じ直しの跡はない。だから何だという話ではある。
第17夜。23時30分の見回りで、7号房は空だった。
窓の漆喰は無事。雨樋の下にも人影はない。俺は今回、番所を動かなかった。時刻を書いて椅子に座って、戻りを待つ。樽も数えず屋根も見ない。三度目ともなると捜索という工程が省略される。省略していいのかは考えないことにする。
0時7分、階段の下から足音がした。堂々と、2層の大扉のほうから。
「開いていたぞ、あの扉」
「開くわけがありません。鍵は俺の腰に——」
言いながら腰の輪を探って、俺は指を止めた。3本ある。3本あるが、そのうちの1本——大扉の鍵の頭が、妙に白い。
蝋だ。
「よくできているだろう」
閣下は上機嫌で、掌の上に本物を載せて差し出してきた。鉄の、ずしりと重い、見慣れた大扉の鍵である。つまり俺の腰で夜のあいだ留守番をしていたのは、蝋で写した偽物のほうだ。
「返しに来た」
「返しに、って」
声が裏返った。囚人が、看守に、鍵を返す。いや、この文章はどこから直せばいいんだ。主語からか。全部か。
「いつ摺り替えました」
「夕方だ。スープの盆が下がるとき、お前は受け渡し簿の写しを取っていた。腰の輪は柱の釘に掛かっていた」
思い出した。夕方、俺は受け渡し簿に写しを取っていて、腰の輪を一度外して釘に掛けた。ほんの、書き物のあいだだけ。
「待ってください。閣下はそのとき房の中に」
「いたな」
「いたなら、誰が摺り替えたんです」
「さて」
さて、じゃない。だがそれ以上は何度聞いても「さて」だった。共犯がいるのか、それとも房にいながら届く何かの手品なのか。日誌の欄がまたひとつ埋まらない。
閣下は答えないまま、机の蝋燭の位置を指1本ぶんだけ直した。俺の視線の高さに合わせた、ように見えた。
「型はいつ」
「先週。スープの脂を掬って固めて、蝋と混ぜると型持ちがよくなる。鍵はいつも盆の横を通るからな、押しつけるのは一瞬だ」
得意げに語るその工程を、俺は途中から頭の中で書き取っていた。職業病だ。日誌の理由の欄が、今夜もまた前例のない文章になる予感しかない。
「閣下。これ、日誌に書けないんですが」
「今日は何が引っかかった」
「囚人が合鍵を自作して、正規の鍵と交換で返却した。……返却の欄が、この塔の書式のどこにもありません」
「作れ」
「先週も作りました。往復の欄を」
「なら早い。隣に足せ」
俺の日誌はいつから複式簿記になったんだ。
閣下は寝台に腰を下ろすと、腹のあたりから細長いものを出して机に置いた。蝋燭である。手作りの、いびつな、芯の飛び出た蝋燭。
「型の余りで作った。使え」
「証拠品では」
「灯りだ。夜番の獣脂は煙いだろう」
たしかに煙い。だがこれに火をつけたら合鍵の証拠が溶けてなくなるんですが。証拠を灯りとして使い切らせる算段だとしたら大したものだし、単なる工作好きだとしたら、もっと質が悪い。
俺は蝋燭を受け取らず、かわりに日誌を開いた。書く前に、ひとつ確かめたいことがある。
「閣下。大扉から出たなら、崖は降りていませんね」
「ああ。今夜は坂を歩いた。月がよかった」
「では帰りも大扉から」
「開けて、入って、閉めて、鍵をかけた。外から見れば何も起きていない」
何も起きていない。その言葉の使い方が、この人はいちいち正確で困る。錠は一度も破られていないし、扉は一度も開けっ放しにされていない。塔の防備は今夜も完璧だった。中身が32分——今夜は37分、外を歩いていただけで。
俺は書いた。時刻、経路は大扉、施錠履歴に不審なし、鍵1本の一時的な差異、返却済み。書きながら、自分の字がだんだん役所の字になっていくのが分かる。とんでもない内容を、とんでもなくない字で書く。それしか道具がない。
書き終えた頁を、閣下が格子越しに覗き込んでいた。
「見せてみろ」
「囚人の閲覧は規程外です」
言いながら、俺の手はもう頁を閉じそこねていた。格子のあいだから伸びた指が、紙の端をそっと押さえている。引けば破れる。破れたら、破れた理由を書く欄がまた要る。
「固いことを言うな。……ほう。お前、7を書くとき横棒を入れるのか」
「数字の癖です。1と間違えないように」
「それから、時刻のあとに必ず読点。品目のあとは中黒。行の頭は半字下げ」
すらすらと言われて、俺は日誌を胸に引き寄せた。読まれている。字面ではなく、書き方の骨組みを。
しかも当たっている。全部だ。7の横棒は父の仕込みで、中黒は書記課の癖で、半字下げは俺が自分で決めた。誰にも言ったことのない内訳を、この人は格子の内側から言い当ててくる。
「明日から俺が書いてやろうか。そっくりに書けるぞ」
「絶対にやめてください」
冗談の顔をしていなかったのが一番怖い。この人が俺の書式を覚えているのは、俺が閣下の脱獄の手口を覚えているのと、たぶん同じ種類のことだ。そう思い当たった自分に、俺は狼狽した。毎晩読まれていたのは、房の錠でも塔の図面でもなく、俺の日誌のほうだったのかもしれない。
「閣下は、塔の規程はお読みにならないんですか。書式がお好きなら」
「塔の規程か」
閣下は蝋燭の芯を指先で立てた。それから、なんでもない声で言った。
「読んだ。昔な。面白いものではなかった」
それきりその話は終わった。終わらせ方が、いつもより半拍早かった。
明けの朝、俺は受け渡し簿の件のついでにケラー殿へ聞いてみた。番所にある規程の写しは古くて条文の途中が抜けている気がするのだが、正本はどこにあるのか——。
ケラー殿は湯呑みを持ち上げて、飲まずに戻した。
「なぜ規程を」
「夜番の職務範囲を確かめたくて。番所の写しは古くて、頭の定義の条と、後ろ半分が虫に食われて読めないんです。それで正本を」
「第9条は」
ケラー殿はそこで一度言葉を切って、窓の外の麓の空を見た。
「……まあ、昔の条文だ。夜番には関係がない」
関係がない、と言うときにこちらを見なかったのは、俺の気のせいだろうか。
結局、蝋燭は受け取ってしまった。番所で火をつけると、炎は獣脂より白くて、たしかに煙が少ない。証拠がゆっくり溶けていく明かりの下で、日誌の隅に線を引く。残りの道の勘定は、今夜でまた1本減った。
鍵はもう使えない。窓も塞がった。樽は検分が入るようになった。それでもあの人は、明日もどこかから出て、どこかから帰ってくるんだろう。
理由の欄の埋まらない夜が、まだ続く。正直に言うと、少しだけ、続けばいいと思い始めている。この1行こそ、どの欄にも書けないんですが。




