第2話「鳩が1羽、足りない気がして」
朝の塔に、左官が来た。
来たといっても麓から職人を呼んだわけではない。ところが、である。バケツに漆喰を練ったのはケラー殿本人で、7号房の窓の下にしゃがんで、自分の手で枠石の隙間を埋めている。日勤のマティアスが横で膝をつき、コテを差し出す係をやらされていた。
「塔長。読まなかったことにされたのでは」
「読んでいない。読んでいないが、窓の石が緩んでいたら塞ぐ。それは日誌と関係のない、建物の管理だ」
なるほど。報告は受け取らないが、報告の中身には対応する。この理屈の器用さはちょっと真似できない。
閣下は寝台に腰かけて、自分の脱獄路が埋まっていくのを見物していた。文句を言うどころか、途中から「そこはコテを寝かせたほうが均される」と口を出し、ケラー殿が無言でそのとおりにした。水路を引いた男の指導は、塔長の意地より強い。
これでこの塔から出る道は、ひとつ塞がった。俺は日誌の余白にそう書きかけて、やめた。残りの道の数を書く欄はない。ない欄のことは書かない。
その晩の当直は豆のスープ以外に何ごともなく明けて、翌日が俺の非番だった。
夜番は俺一人だが、7日に一晩だけ休みが入って、その晩は日勤のマティアスが仮直に立つ。着任のとき、ケラー殿は「休め。倒れられるほうが困る」と言った。俺が倒れる心配というより、倒れたときに増える書類の心配だと思うが、まあありがたく休む。
仮眠室で泥のように眠って、明けの朝、日誌を開いた。
マティアスの頁は、一行だった。
——異状なし。
俺が半月かけて書けなかった4文字が、そこに何の苦もなく座っている。字は几帳面で、インクの染みひとつない。前の晩の俺のぶんと見比べた。往復の記録、樽の数、干し無花果。埋まり方がまるで違う。
妙な気分だった。羨ましいのか悔しいのか、それとも——この一行は、本当なのか。
マティアスに聞くと、彼は薪割りの手を止めずに答えた。
「何もなかった」
「見回りは」
「4回。全部房にいた」
斧がまた振り下ろされて、会話は終わった。寡黙な男の「いた」は、俺の書く3行より重いのかもしれない。少なくとも塔長の好みは、間違いなくあっちだ。
いたのか。本当に、一晩じゅう。
疑っている自分に気づいて、俺は日誌を閉じた。仮直の頁を疑い始めたら、俺の頁も疑われる側になる。書いたものはお互いさまだ。
そして当直を4つ数えて——通し番号で言えば第11夜。
23時30分の見回りで、7号房は空だった。
窓は埋まっている。扉の錠は下りている。厨房の搬出口も閂ごと無事。それで俺は番所に戻って時刻を書き、それから耳を澄ませた。走り回るのは前にやった。書く男は学習する。
頭の上で、こつ、と音がした。
屋根だ。
塔の最上部には鳩小屋がある。麓との連絡用に伝書鳩を36羽飼っていて、世話は下働きのオットの仕事だ。俺は階段を上がり、屋根への揚げ戸を押し開けた。
崖の風がまともに顔へ来る。夜の屋根は思っていたより広くて、空がやけに近い。星明かりの下、鳩小屋の前に、囚人がしゃがんでいた。
しゃがんで、鳩に何か話しかけている。声は風に千切れて聞こえないが、口調だけならどう見ても餌をやる係の顔だ。
「静かにしろ。鳩が起きる」
起こしているのはどっちだ。
だが待て。窓は今朝、塔長が自分の手で埋めたばかりで、扉の錠も無事。ならこの人はどこから屋根に出た。……いや、その問いはあとだ。まず降ろす。
閣下は鳩小屋の網に指をかけて、中を覗き込んでいる。俺は揚げ戸から首だけ出した格好で、風に負けない程度の声を出した。
「そこで何をしておられます」
「数えている」
「……鳩をですか」
「1羽、足りない気がしてな。夕方、オットの声が途中で止まった」
夕方。閣下は房にいたはずだ。下働きの数え声が5層まで届いたのか。届いたとして、だ。なぜ囚人が鳩の帳尻を気にする。疑問が3つ束になって出てきたが、風が強いので全部後回しにした。
「降りてください。鳥の勘定は朝でいいでしょう」
「もう済んだ。36羽いる。合っていた」
「合っていたんですか」
「合っていた」
じゃあこの外出は何だったんだ。
閣下は立ち上がり、腰の後ろから小さな包みを出した。開くと、赤い実がひと掴み。茱萸だ。麓の畑の際に生る、子どもが囓って顔をしかめるあれである。
「食え。屋根で食う茱萸はうまい」
「遠慮します」
「するな。下へ持って降りると塔長に見つかる」
見つかって困るものを俺に食わせるな。
だが断る理屈を探しているあいだに、閣下は揚げ戸の縁に腰を下ろしてしまった。囚人と看守が屋根に並んで座って、崖の風に吹かれながら茱萸を囓っている。誰かに見られたら、日誌より先に俺の正気を疑われる。
鳩小屋からは羽と藁のあたたかい匂いがして、ときどき、寝ぼけた鳩がくぐもった声を出す。眼下には麓の村の灯りが3つ4つ。あの灯りのどれかが、夜通し窯を焚く例の茶屋なんだろう。
茱萸は酸っぱくて、渋くて、たしかに少しうまかった。悔しい。
「閣下。これ、日誌に書けないんですが」
「今日は何が問題だ」
「囚人が屋根で鳩を数えた。理由の欄にそう書いたら、どう読まれると思いますか」
「作り話だろうな。俺が読んでもそう思う」
ご本人が作り話だと思うものを、俺は明日、公文書に書くのか。
閣下は茱萸の種を指で弾いて崖の下へ飛ばした。それから、思い出したように言った。
「ついでに数えておいてやった。囚人5、職員4、下働き1」
「……何の数です」
「この塔の人間だ」
囚人5。職員4——塔長にマティアス、もう一人の日勤にイルサさん。下働き1がオット。指を折って確かめて、俺は途中で気づいた。
10人。夜番が入っていない。
「閣下。俺が入っていません」
「ん?」
閣下は俺を見た。それから、本当に今気づいたという顔で、少し首を傾げた。
「そうか。お前を数えていなかったな」
なぜか謝られない。訂正もされない。閣下は種の最後の1つを弾いて、揚げ戸から塔の中へ降りていった。数え直しはしないらしい。
鳩は数え直したのに。
降り道は雨樋だった。北面の雨樋を伝って4層の張り出しへ、そこから水切りの段を踏んで房の窓——ではなく、廊下側のくぼみへ。つまり登りも同じ道順で、埋めた窓は最初から関係なかったわけだ。塔長の漆喰は、初日から空振りしている。
房まで送って錠を下ろすと、閣下は寝台の上で茱萸の残りを枕元に並べていた。等間隔である。几帳面なのか子どもなのか、いまだに判定がつかない。
「看守」
「はい」
「鳩は36羽で合っていた。そう書いておけ」
「囚人の申し立てとして書きます」
「小僧にも言っておけ。あいつは19羽まで数えると必ず咳をして、どこまで数えたか忘れる」
なんでそんなことまで知っているんだ。
番所へ戻って、俺は日誌に今夜のぶんを書いた。時刻、経路は屋根、申し立ては鳩の数え直し、鳩36羽、異状なし——鳩には。
書き終えてから、マティアスの一行を思い出した。異状なし。あの4文字と俺のこの3行は、書いてあることだけ比べれば実は同じなのかもしれない。囚人は房にいて、鳩は36羽で、塔は今夜も無事だった。
違うのは、廊下と屋根のあいだの32分だけだ。
その32分のあいだ、この塔の人数は10人だった。囚人5、職員4、下働き1。それから、勘定に入れてもらえなかった夜番が一人、屋根で茱萸を囓っていた。
あの人の勘定の中で、俺はどこに入っているんだろう。
日誌を閉じる前に、俺は理由の欄の隅へ小さく線を1本引いた。残りの道の数。書く欄はないが、数えるのをやめられそうにない。




