第1話「荷車が、帰りも空だったので」
塔長の抽斗は、いちばん下の段が閉まりきらない。
書類が詰まっているからで、詰まっているのは捨てていないからで、捨てていないのは捨てた記録を残したくないからだろう。着任して半月の俺に分かるのは、まあ、そこまでだ。
塔長室は煙草の脂の匂いがして、窓枠に砂が溜まっていた。断崖の風は塔の中を吹き上がるのに、この部屋には外から砂が入ってくる。
「フィンチ君」
塔長のブルーノ・ケラー殿は、俺の日誌を表紙の端でつまんで持っていた。親指と人差し指。中身に触れないための持ち方だ。
書類へ手を伸ばすとき、腕がわずかに浮く。袖口を紙に触れさせないための癖だ。
昨夜、同じ日誌を別の男が扱うのを見ている。机の縁に指を置き、俺の書いた行の上を端から端までなぞった手だ。
あちらは行があることを確かめていた。こちらは行に触れないようにしている。同じ紙を相手にして、ここまで正反対の触り方ができるものなんだな、と思う。
開口一番、ケラー殿は読みました、と言った。読んだ、と。
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはありません。読んだ、と申し上げただけです」
ケラー殿は麓の空のほうを向いたまま喋る。今朝は雲が出ているかどうかがよほど重要らしい。
俺は入口から数歩のところに立たされていて、座れとは言われていない。机には湯呑みが1つある。1つしかない。
「23時40分、囚人不在。ここです。……この語が強い」
ケラー殿は湯呑みへ手を伸ばし、持ち上げて、飲まずに戻した。戻すとき、底が机に当たる音がしない。
この人はたぶん、音の出るものを机に置いたことがない。
「紙の上に置かれると、語は強くなる。同じ意味でも、置き方で温度が変わる」
温度。俺の頭の中でその言葉は音のまま転がって、なかなか意味にならない。書いたものに温度があるっていうなら、俺は半月ぶん、気づかずに火を焚いてきたことになるんだが。
「所在不明、としなさい」
「どこにおられたかは分かっています。窓の外です」
「見たのか」
「見ていません」
「なら不明だ」
ケラー殿の親指が、表紙の端で一度すべった。日誌は落ちなかった。落ちる前に持ち直す速さのほうが、年季を語っている。
机の隅には印箱が置いてあった。蓋が閉まっている。朝からずっと閉まっていて、昨日も一昨日も閉まっていたはずだ。
「フィンチ君。短く、平らで、しかも嘘ではない。その3つを同時に満たす一行を書きなさい。それを工夫という」
いや、工夫って何だ。俺の職務規定のどこにも、そんな言葉は載ってない。
俺は羽根ペンを構えて、そのまま動かなかった。
短くすれば起きたことが落ちるし、起きたことを残せば嘘ではなくなる代わりに長くなるし、長くなればもう平らではない。
つまり2つを立てると必ず残りの1つが倒れるわけで、この3つはそもそも同じ紙の上に並ぶようにできていない。
窓の外で鳥が鳴いた。ケラー殿は動かない。俺の羽根ペンの先からインクが1滴、紙に落ちて広がった。
「書けません」
「なぜ」
「起きたことが、短くないので」
ケラー殿が窓から目を離して、こちらを向いた。灰色の混じった眉の下で、目だけが妙に若い。
「君は、前の夜番を知っているか」
「いえ」
「ひと冬で辞めた。辞めた理由は……」
そこで言葉が切れた。窓の外へ視線が戻るのに、ちょうど一呼吸ぶんかかる。
「……知らん」
知らんの一言が、聞かないでおいた、と聞こえた。
「夜番は、長く続けるものじゃない」
「はい」
「返事が早いな」
「事実の確認ではありませんでしたので、考えずに答えました」
ケラー殿は少し口を開けて、それから閉じた。塔長が何か言いかけてやめるところを、俺は書けない。日誌は夜の記録であって、朝の塔長室は範囲の外にある。
俺は日誌の裏表紙の内側にある受領の欄を思い出した。塔長が読んだ日に印を1つ押す欄で、着任のときに教わったきり、押されたところを見ていない。
「塔長。受領の印を頂けますか」
ケラー殿は日誌を持ち上げ、裏返し、その欄を見た。だが印箱の蓋には手も掛けず、日誌はそのまま元の位置へ戻ってくる。
「押さない」
「印がないと、届いていないことになります」
「そのほうがいい」
言い終わるより先に、ケラー殿はいちばん下の抽斗を引いていた。書類が詰まって半分しか開かない。
中が見えない角度に体を入れてから、その隙間へ日誌を斜めに差し入れる。押し込めば楽に入るのに、そうしない。
折れると跡が残るからだ。紙についた癖は、いつか誰かの目に触れる。
「では、こうしよう。君の日誌はそのままでいい」
「よろしいのですか」
「私は読まなかったことにする」
「読まなかったことにする、と日誌に書きますか」
「書くな」
塔長室を出て階段を下りながら、俺は昨夜の房を思い出していた。読んで、抽斗にしまう。もっとも、あの囚人が知っているのは俺の上司の抽斗の中身だけではないような気がする。
その夜から3晩、俺は同じ形の一行を書いた。不在の時刻、帰還の時刻、本人の申し立て。4夜ぶんが並ぶと、もう書式が出来上がっている。誰にも許可されていない書式が。
5夜目の23時30分。7号房は空だった。手が驚かなくなっているのが、自分でいちばん怖い。
今夜は走らない。まず窓へ寄って枠石を押してみた。ところが石は嵌ったままで、あの晩たしかにあった指の掛かりが、内側から漆喰の欠片で埋めて潰してある。どうやら同じ道は二度使わないらしい。
厨房へ降りると、灰と魚の骨の匂いが階段の下から上がってきた。搬出口の閂が外れている。
壁際に6つ並ぶはずの廃棄物の樽が、5つしかない。
外の地面に轍が2本、坂のほうへ伸びていた。麓へ下ろす荷車は夜半に出ることになっている。俺は番所へ戻って、時刻と樽の数を書いた。書いてから、その欄も本来は存在しないことに気づいた。
0時50分、車輪の音が坂を上がってきた。
窓から見ると、空の荷車の荷台に人が座っている。膝を抱えるでもなく背筋を伸ばし、麻袋を1つ横に置いて。それでいて御者は前を向いたまま、何も見ていないことにしている。
「見ろ。今日は乗り物付きだ」
搬出口で降りてきた閣下は、上着を着ていた。着ると言ったから着たらしい。
近づくと酸っぱい匂いがする。上等な布に酢と魚を染み込ませてまで出かけていったわけで、この件で得をした人間はいまのところ一人もいない。
「樽は臭かった。酢と魚だ。二度と使わん」
「……樽に入られたんですか」
「蓋の裏に手を掛けて、体を吊る。底には触れない。触れると音がする」
得意げに肩を回してみせるので、俺は聞いてしまった。腕は痛くないんですか、と。
聞くまでもなかった。坂を下りきるまで、荷車は蓋の上で跳ね続けるんだから。
「戻ってこられた理由を、伺っても」
「荷車が、帰りも空だったので、乗ってきた」
乗ってきた、って。歩いて帰るという選択肢が、この人の中には最初からない。
閣下は麻袋の口を開け、俺の胸元へ突き出した。干し無花果だ。魚と灰の匂いのする厨房で、そこだけ甘い。袋は思ったより重かった。
「食え。賽で勝った」
「囚人が御者と賭博をしたと、日誌に書くんですか」
「勝ったと書け」
「賭博は罪状が増えます」
「増やせ。俺はもう終身刑だ」
突き返そうとしたのに、気がつくと袋を受け取ったまま押し戻していた。両手で持っている。両手で持ったものは、返す形にならない。
閣下は搬出口の柱に背を預け、俺が袋をどうするか眺めている。その顔が、今夜いちばん楽しそうだ。
「閣下。これ、日誌に書けないんですが」
「今日はどこが引っかかった」
「囚人が荷車で外へ出て、荷車で帰ってきた。並べて読むと、どちらも移動としか読めません」
「通っている。往復だ」
「往復という欄がありません」
「作れと言ったはずだ」
「作りました。使う日が来ないと思っていました」
閣下は喉の奥で短く笑うと、搬出口の閂を自分で下ろし、その位置を掌でひとつ確かめた。囚人が戸締まりを点検している。どっちが牢番だ。
「明日は木の日か。豆のスープだな」
「……なぜご存じなんですか」
「柱に貼ってある」
俺は搬出口の柱を見た。貼ってあるのは麓へ下ろす荷の一覧で、献立じゃない。この人は俺の明日の食事を知っている。俺は自分が明日何を食うのか、考えたこともない。なんで負けた気分になるんだ。
7号房まで送って錠を下ろすと、閣下は寝台に腰かけ、干し無花果を1つ口へ放り込んだ。上着はもう脱いでいる。
「フィンチ君と呼ばれていたな。塔長に」
「聞こえていたんですか」
「あの部屋は窓が開いている」
開いていたのは麓の空を見るためだ、と俺は思っていた。
番所へ戻って、俺は日誌に罫を1本引いた。新しい欄を作り、見出しを書く。
——往復の記録
書いてから、自分の手が何をしたのか分かって、羽根ペンを置いた。
欄を作れと言われて、作った。これ、工夫って言うのか? 塔長にこの罫を見せたところで、抽斗の隙間がひとつぶん狭くなって、それで終わりな気がする。
明日は木の日。豆のスープ。そして、俺の当直だ。




