第0話「異状なし、とは書けません」
着任して最初の当直で、俺は自分の書いた一行を疑うことになった。
——23時40分。7号房、囚人不在。
不在。留守。空室。どう言い換えたところで格子の中の人数は0のまま。寝台と毛布と水差しと椅子が1脚——揃っているのはそこまでで、肝心のものがない。
ヴェルグ塔の夜番は、この秋から俺一人になった。塔に泊まるのは下働きのオットと俺の二人。つまり今この瞬間、断崖の上のこの建物で目を開けているのは俺と、どこにもいないはずの囚人だけ。……いや、いないんだから起きてもいないのか。
7号房の名はアルヴィス・ダルグレン。3年前まで王国の治水公と呼ばれていた男だ。あの年の春、上流のケルン堰が切れかかった夜に王命を待たず第3閘門を開け、貴族街の銀環区を水に沈めている。312戸。死者こそ出ていないが、家も家財も残らず流れた。しかも避難の時間を稼ぐために本人が空き家へ火をつけて回ったというのだから、王都でいまだに子どもを黙らせるのに名前が使われるのも無理はない。
その男が、いない。
俺は日誌にもう一行足した。
——23時41分。看守セオ・フィンチ、房前を離れ、塔内の捜索を開始。
書いてから走った。順序がおかしいのは自分でもよく分かっている。だが記録というのは起きた順に書かないと意味がないし、あとでまとめて書いた日誌なんてものは、書いた本人以外の誰も信用しない。王城でそう教わって、そのせいでここへ飛ばされた。財務府の官吏が持ち場を空けた夜に「不在」と書いたら、翌月には辞令が来ていた。理由の欄には「筆跡明瞭につき」とだけある。
字が上手いせいで断崖へ飛ばされた息子のことを、父にどう書き送ったものか、いまだに手紙が1通も出せずにいる。父は王都で製本をしている。
塔は上から下まで見た。6号房の老人は眠っていて、3号房の男は格子に額をつけて「うるさい」と言った。2層の扉には内側から錠が下りている。塔の出入り口はここしかなく、鍵は俺の腰にある。
誰も出ていない。なのに一人いない。
7号房へ戻って中に入る。寝台の下を覗き、毛布をめくり、水差しの中まで見た。最後のはさすがにどうかと思う。水差しに人は入らない。
窓に近づいて、はじめて気づいた。鉄格子の下の枠石が1つ、指1本ぶんずれている。押すと抵抗なく奥へ動いて、引くと、そのまま抜けた。跡に手を入れて格子を揺すると、下端が浮いて横へ滑る。錆びついて動かないように見えて、留めていたのは石1つだったわけだ。
窓から首を出すと、下から吹き上がる風に顔を殴られた。崖下の波の音が遠い。人の降りられる道があるとは思えない。だが石は抜けている。
俺は囚人の椅子に座って、机に日誌を広げた。
——23時58分。7号房の窓枠石に緩みを確認。逃走経路の可能性あり。
塔長を起こすべきだ。だが叩き起こして何と言う。囚人が窓から崖を降りましたと申し上げて、証拠に石を1つ差し出すのか。どう聞いても夜番の寝言だ。
考えているうちに、窓の外で音がした。石を擦る音。それから、格子が横へ滑る音。
——0時12分。
書いた瞬間に、窓枠へ手が掛かった。
肩が入り、頭が入る。男が一人、房の中へ降りてきた。銀の混じった黒髪が風で滅茶苦茶になっていて、上着は着ていない。袖は肘までまくられ、腕に細い擦り傷。真冬でなくてよかったな、じゃなくて。
降りたんだから登れる。理屈はそうだ。もっとも、その理屈で目の前のこれを片づけられるなら苦労はしない。
男は床に降り立つと、まず格子を元へ戻した。枠石を穴に押し込み、掌で叩いて均す。それから振り返って俺を見て、笑った。
「見ていたか。石を1つだぞ」
「……セオ・フィンチと申します」
「知っている。新しい夜番が来たと聞いていた」男は寝台の端に腰を下ろした。「座っていいか」
「もう座っておられます」
「ここは俺の部屋だ」
返す言葉が出てこなかった。だって正しい。
「あの石は根気で緩めた。冬の湿気で膨らんだところを、夏に押し戻す。それを何度か繰り返すと抜ける」男は指を立てて、1本ずつ折ってみせた。「3年だ。何か言え」
「……ご苦労さまでした」
言ってしまった。脱獄路の造成工事を、看守が労ってしまった。
「堅いのか柔らかいのか分からん男だな」
俺は羽根ペンを持ち直した。掌が汗で滑って、軸に指の跡が残っている。
この塔に来て10日。7号房の囚人とは一度も口をきいていなかった。食事はイルサさんが運び、扉の開け閉めは日勤の仕事で、夜番は格子の前を通るだけでいいと引き継ぎで教わった。寝台に腰かけて指を折って自慢してくる囚人については、誰も何も教えてくれなかったんだが。
「閣下。1つ伺ってよろしいですか」
「どうぞ」
「たった今、外においででしたね」
「いた」
「何をしておられました」
「散歩だ。崖沿いに南へ下ると麓の道に出る。慣れれば片道10分もかからん」
散歩。断崖を。真夜中に。上着なしで。
羽根ペンの先を紙から離しておいてよかった。つけたままだったら、日誌の真ん中に見事な染みが1つ増えていたはずだ。
「戻ってこられた理由を、伺っても」
「風が冷たくてな。上着を着ずに出た俺が悪い。次は着る」
次。いま、次って言ったか。当然の顔で話が進んでいる。俺は聞かなかったことにして、日誌の日付を書き直した。もとの字で合っていた。
閣下はシャツの腹のあたりへ手を突っ込むと、布に包んだものを出して机の上へ置いた。塩をふった堅焼きの菓子が2つ。まだ温かい。
「食え。2つ買ってきた」
「……いや、待ってください。いま、なんとおっしゃいました」
敬語が半分どこかへ行った。
「麓の茶屋だ。夜通し窯を焚いている」
「囚人に付けで売る店があるんですか」
「あの村の水路を引いたのは俺だ。婆さんは覚えている」
俺は菓子を見た。塩の粒が、獣脂ランプの明かりを弾いている。囚人に夜食を恵まれる看守って、この国に何人いるんだ。
気がつくと、俺は端を齧っていた。
うまい。うまいと思ってしまった時点で、俺はもう何かに負けている。
「閣下。これ、日誌に書けないんですが」
「そうか。難しいところだな」
完全に他人事の顔だ。難しいところだな、も何も、この件の当事者はこの房に一人しかいないんですが。
「書き方の話です。逃走とお書きすれば、明け方には麓から兵が上がってきます。書かなければ、俺が嘘をついたことになります」
「では正確に書け。俺は逃げていない。出て、帰った」
「その区別をつける欄が、この書式にはありません」
「作れ」
閣下は菓子の欠片を指で払って、身を乗り出した。上着を着ていない肩から、崖の潮の匂いがする。
「ついでに靴も書いておけ。泥がついている。南の道は雨のあとぬかるむからな。あと左の袖が裂けた。岩に引っかけた」
「そこまでは書きません」
「なぜだ。事実だぞ」
「明け方までに書き終わらないからです」
「なら朝まで書けばいい。俺は起きている」
この人は俺の日誌を、何だと思っているんだ。
俺は菓子の残りを布へ戻して、日誌に向き直った。ここから先は書く仕事だ。
——0時12分。7号房、囚人アルヴィス・ダルグレン、房内に在り。
書いてから、上の行を見た。23時40分、不在。0時12分、在り。こうして並べてしまうと、人が一人この世から消えて、32分後にしれっと現れたようにしか読めない。
「それは、毎晩つけるのか」
「はい。夜番の日誌ですので」
「誰が読む」
「塔長と、年に二度上がってくる監察です」
「残るのか」
「規程では10年、麓の記録所に保管されます」
閣下はすぐに答えなかった。毛布を肩へ引き上げて立ってくると、机の縁に指を置いて、俺の書いた行の上を端から端までなぞる。爪の際に泥が残っている。
なぞる指が、字を追っていない。読んでいるんじゃなくて、そこに行があることのほうを確かめている。
「明け方に、塔長へ報告するのか」
「はい」
「なんと言う」
「日誌をお見せします」
「それで通ると思うか」
「通らなければ、通らないと書きます」
閣下が声を上げて笑った。石の壁に反響して、塔の下まで転がっていく。3号房の男がまた「うるさい」と言う。
声が収まると、閣下は机の上の日誌へ目を戻した。毛布の端が床についているのを、本人は気にしていない。
「塔長は読むぞ。読んで、抽斗にしまう」
「……それきりですか」
「上へ回せば自分の塔の落ち度になる。年金まであと2年の男だ」閣下は毛布の端を踏んだまま、机へ一歩寄った。「そのかわり、書いたものは記録所へ行く。10年だったな」
「はい」
「なら、書け。フィンチ」
俺は日誌の余白へ羽根ペンを下ろして、それから、自分でも意味の分からない一言を口から出した。
「……明日は、何時ごろ出られますか」
言い終わってから、羽根ペンを取り落とした。
いま俺は何を聞いた。看守が、囚人に、明日の脱獄の予定を。
閣下は落ちた羽根ペンを拾い、軸のほうを俺へ向けて差し出してくる。楽しくて仕方がないという顔をしていた。
「23時40分だ。今夜と同じにしてやる。そのほうが書きやすいだろう」
日誌を顎で示された。
「明日のぶんも、先に控えておけ」
「まだ起きていないことは、記録できません」
「控えるさ。お前はそういう男だ」
俺は日誌を閉じ、椅子を机の下へ戻して房を出た。錠を下ろす音が、塔の吹き上がりに攫われていく。
格子越しに一度だけ振り返ると、閣下は枠石についた泥を袖で拭いているところだった。捨てる手つきではない。明日も使う道具の扱いだ。
階段を下りながら、俺は指を折った。塔の出入り口が1つ。房の窓。屋根の鳩小屋。厨房の搬出口。井戸。それから、俺が知らない場所。この塔から出る道は、まだいくつも残っている。指が足りなくなったところで数えるのはやめた。
番所へ戻って、日誌の最後の欄に羽根ペンを置く。この欄には毎晩、決まった4文字を書くことになっている。前任者の綴りをめくると、ひと冬ぶんが全部その4文字で埋まっていた。
——異状な
そこで手が止まった。嘘は書けない。だが「なし」と書き切れるほど、俺は何も分かっていない。だいたい、口の中がまだ塩辛い。
結局、書いた3文字に線を引いて、その下へ一行だけ足した。
——本夜、囚人1名、逃走のち帰還。看守、これを確認。塩焼き菓子2つ、証拠として押収せず、看守がこれを食した。
明け方にこれを塔長へ見せるのだと思うと、いまから胃が痛い。もっとも本当に厄介なのは、23時40分のほうだ。




