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牢番になったら、囚人の閣下が毎晩脱獄しては戻ってきます 〜本日も、日誌に「異状なし」と書けません〜  作者: 夜凪 蒼


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第9話「遅い、と閣下が言った」

言い訳から書いておく。あれは職務の一環だった。


 俺の日誌には2か月ぶん、45回分の脱獄の手口が書いてある。窓の枠石。廃棄物の樽。雨樋と鳩小屋。蝋の合鍵に正門の名簿。シーツの縄に井戸の旧水路。医師の外套。床下の階段。全部、囚人の申し立てと俺の検分をもとに書いた。


 だが俺は、その記述が本当に可能かどうか、一度も自分で確かめていない。


 記録者として、これはよくない。書いたことは変えない——それが俺の芯なら、書いたことが本当かどうかは俺が保証しなければならない。裏の取れない記述を45回重ねた帳面は、厚いだけの紙の束だ。


 ……というのが、表向きの理屈である。


 理屈を3日かけて組み立てた、という時点で、俺は自分に嘘をついている。だがその中身をうまく言葉にできないので、日誌には理屈のほうを書いた。検証のため、と。


 第46夜。23時30分の見回りを済ませ、囚人が房にいることを確認した。今夜は出ない夜らしい。房の前を通るとき、閣下は寝台で本を読む姿勢のまま、顔を上げなかった。


 好都合だ。今夜は、俺が出る。


 経路は第11夜の記録から選んだ。雨樋と鳩小屋の屋根。錠が増えた鳩小屋は通れないが、記録によれば雨樋そのものは北面を4層の張り出しまで通っている。降りられるかどうか。記述の検証には、ちょうどいい。


 結論から書くと、降りられた。


 ならびに、記録に書いていないことが3つあった。雨樋の継ぎ目は夜露で滑る。張り出しの水切りは見た目より狭い。そして高さというものは、上から見ると下から見た倍ある。俺は水切りの上で都合3回、自分の職業選択について考え直した。


 夜の塔の外壁というのは、へばりついてみると分かるが、風の通り道である。崖下からの吹き上がりが袖口から入って背中へ抜けるたび、体温と一緒に決心も少しずつ抜けていく。あの人はこれを45回。しかも大半は、鼻歌でも歌いそうな顔で。


 地面に足がついたとき、膝が少し笑っていた。あの人はこれを、最初の晩は上着も着ずにやったのか。しかも登りもだ。どうかしている。


 坂を降りた。麓の村は寝静まって、夜通し窯を焚く茶屋の煙だけが、月の下で細くのぼっていた。


 村外れの高札場に、その紙はあった。


 新しい布告である。貼られたばかりらしく、糊がまだ浮いている。「逃亡囚人処分ノ布告」と刷り題があり、処分の様式に執行の権限、それから日付の空欄。そして氏名の欄——


 空欄だった。


 名前のない処分布告が、名前のない誰かを待って、高札場に貼られている。書式は揃っている。判も押してある。あとは名前を書き入れるだけの紙が、風に端をめくられて、乾くのを待っている。


 俺は書式の人間だ。書式の完成度は見れば分かる。これを作った人間は、書き入れる名前をもう決めている。それでも空欄で刷って先に貼るのは、日付を選ぶ側の都合だ。


 名簿に名前があれば、いたことになる。布告に名前が入れば——。


 「おい。そこで何をしている」


 声に、心臓が跳ねた。


 提灯を持った男が立っていた。村の夜回りだ。棒を持って、俺を上から下まで見る。夜中に高札を見上げる見知らぬ男は、どこの村でも不審者である。


 「見ない顔だな。どこの者だ」


 「塔の……夜番です」


 「上の? 番人がなんでこんな時刻に麓におる」


 まったくもって正論だった。正論すぎて、職務です、の先が続かない。検証のため、が通じる相手ではないし、そもそも俺自身がもう自分の理屈を信じていない。


 思い出したのは、抽斗の紙だった。


 俺は懐から、あの随員名簿の写しを出した。持っていろ、と言われて以来、外套の内側に入れたままだったやつだ。11行目に俺の名前がある。


 「監察の随員名簿です。……末尾に、名が」


 夜回りは提灯を寄せて、紙と俺の顔を見比べた。監察という言葉は、麓の村では効く。名簿の判は本物だし、俺の名は筆致はどうあれ、たしかにそこに載っている。


 「……早く帰んなさい。物騒なんだ、最近」


 物騒。その言葉の出どころを、彼は高札のほうへ顎で示した。俺は頭を下げて、坂へ戻った。


 登りは、降りの倍かかった。塔に入ったのは2時前だ。雨樋を登り切って揚げ戸から滑り込み、膝の埃を払って、階段を降りて——


 7号房の前で、足が止まった。


 格子の向こうで、閣下が起きていた。寝台の縁に腰かけて、本を閉じて、まっすぐこちらを見ていた。


 「遅い」


 その一言だけだった。


 どこへ行っていた、でもなく。何をしていた、でもなく。無事か、でもなく。遅い。まるで俺が出たこともどの経路を使ったことも、いつ戻るはずだったのかも、全部知っていたような。


 「……気づいて、おられましたか」


 「23時50分に雨樋が鳴った。あれはお前の重さの音だ」


 重さで分かるのか。分かるのか、そうか。


 「2時間か」閣下は窓の外の空を見た。「俺なら1時間で戻る。降りに手間取ったな。継ぎ目で止まっただろう」


 「……夜露で滑るとは、記録にありませんでしたので」


 「今夜書いておけ」


 「書きます。それと、これは検証であって、脱走では」


 「知っている」


 早かった。言い訳の全文を用意していたのに、2文字で終わってしまった。


 「なぜ戻った、とは聞かないんですね」


 「聞いてほしいのか」


 「いえ」


 聞かれても、答えは持っていない。検証のため、では、もう自分すら騙せない。


 言いかけて、気づいた。閣下の髪が、湿っている。寝台の脇には、見慣れた蝋引きの包みがひとつ。


 「……閣下。今夜も、出られたんですか」


 「今夜のぶんは先に済ませてある。0時前に戻った。書いておけ。出て、帰った、と」


 俺が雨樋とにらみ合っているあいだに、この人は出て済ませて帰って、それから俺を待っていたのか。遅い、はそういう遅いか。


 それきり、閣下は本を開き直した。説教も詮索もなし。ひとつだけ、頁をめくる指がいつもより速い。あれは——ずっとこうして、めくりながら待っていた指だ。


 番所の椅子は冷えきっていた。日誌を開いて、それから生まれて一番長く、書き出しで止まった。


 ——23時48分。看守セオ・フィンチ、塔外に在り。


 まず、これを書くのに勇気が要った。看守の欄に看守の不在を書く。書いた瞬間、この日誌はもう、囚人だけの記録ではなくなった。


 経路、北面の雨樋。時刻、帰還2時前。検分の結果、記述はおおむね正確。夜露の滑りは追記のこと。その上の行には、囚人のぶんも書いた。第46夜、出て、帰った。時刻は本人の申告どおり。46回目も、こうして紙になった。そして、俺の理由の欄。


 検証のため。


 と、書いた。書いてから、読み返して、羽根ペンを持ったまま動けなくなった。


 嘘ではない。検証はした。記述の裏も取った。だが、この4文字がこの夜の全部かと言われたら、違う。高札の空欄も夜回りの提灯も、遅いの一言も頁をめくる速すぎる指も、この4文字のどこにも入っていない。


 嘘を書かずに、全部を書かないことは、できる。


 あの人が2か月、毎晩やってきたのは、これか。


 理由の欄に収まりのいい言葉を置いて、収まらないものを胸の側に残す。冷たい風。空の荷車。足りない鳩。あの楽しい理由の列の後ろに、書かれなかった夜が45回ぶん積んであるのだとしたら——俺はその白い側を、まだ1行も読めていない。


 日誌を閉じて、灯りを消した。


 閣下の言うとおりだった。今夜の俺は、遅い。何もかもが、たぶん、だいぶ遅い。

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