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牢番になったら、囚人の閣下が毎晩脱獄しては戻ってきます 〜本日も、日誌に「異状なし」と書けません〜  作者: 夜凪 蒼


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第10話「明日、あんたが当直だからだ」

馬車は夜に来た。


 黒塗りの護送馬車が2頭立てで坂を上がってきて、正門の前に停まった。降りてきたのは5名。剣を提げた護送人が4人と、革手袋の男がひとり。


 「王室監察官、ヴィクトル・セーレン」


 男は名乗って、ケラー殿の鼻先に書面を突きつけた。囚人アルヴィス・ダルグレンの移送命令。行き先は王都、執行は即時。夜間の移送は前例がないというケラー殿の抗弁は、「前例は今夜できる」の一言で終わった。


 俺は番所から呼ばれて、移送の記録を取らされた。書けと言われれば書くのが俺の仕事だ。書きながら、俺の目は勝手に書面の粗を拾っていた。


 移送命令の判は監察部の印だけで、王室の副署がない。日付の字は他の字と墨の色が違う。急いで書き足された日付、副署のない命令、そして夜。この書面は、明るい場所を通れない書式でできている。


 閣下は抵抗しなかった。


 外套を着て房を出て、階段を降りて俺の前を通るときも、何も言わない。番所の机の日誌へ通りすがりに一度だけ目をやって、それきりだった。


 馬車の扉が閉まり、車輪が坂を下って、消えた。


 ——1時22分。囚人アルヴィス・ダルグレン、監察官の命により移送。行先、王都。


 書いた。書くしかない。羽根ペンの先が紙を破りそうになるのを、抑えるのに苦労した。この2か月、書いてきた帰還の行の下に、帰還のない行が並ぶ。


 ケラー殿は塔長室に籠もって出てこない。イルサさんは帰った後で、オットは寝ている。番所には俺と、日誌と、書きかけの移送記録だけが残った。


 麓の高札場の、氏名欄の空いた布告を思い出していた。


 書式は揃って、判まで押してあった、あの紙。あとは名前だけ。そして今夜、名前の持ち主が、夜の街道を王都へ向かって運ばれていく。着くかどうかは、誰も保証していない。


 俺は立ち上がって、座って、また立ち上がった。追う手段はない。書く以外の武器を、俺は持っていない。持っていないから、書いた。移送命令の判の不備、墨の色、副署の欠落。気づいたことを全部、時刻をつけて。誰かがいつか読むかもしれない紙に、読める形で。


 4時13分。搬出口の閂が、外から2回叩かれた。


 開けると、埃と藁にまみれた閣下が立っていた。外套の肩が破れ、髪に枯れ草を刺したまま、懐から出した布の包みを俺に押しつけてくる。


 温かい。塩焼き菓子が、2つ。


 「……こんな夜にまで、買ってくるんですか」


 「あの婆さんは夜通し起きている。街道からの戻りに、ちょうど店の前を通った」


 第1夜と同じ包みが、俺の両手の中で湯気を立てていた。両手で持ったものは、返す形にならない。この人はそれを、最初の晩から知っていたんじゃないかと思う。


 「馬車の底板は、留め具が4つでな。あれは移送用ではなく資材運びの古い車だ。俺の設計した型より2代前の。留め具の場所は目をつぶっても分かる」


 「走っている車から、降りたんですか」


 「減速する坂を選んだ。無茶はしていない」


 無茶の定義を、あとで辞書から引き直してほしい。


 閣下は番所の椅子に腰を下ろした。囚人が看守の椅子に座って、看守が囚人に菓子を持たされて立っている。2か月前なら書式が乱れると騒いだ配置だが、今夜の俺は、それどころではなかった。


 「閣下。俺は今夜、移送の記録を書きました。あの書面は偽です。判が足りない、墨が違う、夜を選んでいる。あれは移送ではなくて——」


 言葉を選ぶ余地を、俺はもう残していなかった。


 「連れ出して、街道のどこかで終わらせて、逃走中に処断した、と書くための夜だ。麓の布告の氏名欄に、あなたの名前を入れるための」


 閣下は否定も肯定もしなかった。かわりに破れた外套の内側から油紙の包みを出して、机に置く。中身は薄い綴りだ。古い、手書きの写し。表紙に「ヴェルグ塔規程」とある。


 「48冊目だ」


 「……48?」


 「床下に47冊ある。お前が覗いて、降りなかった穴の底に」


 息を吸って、吐いた。それから、この2か月の全部が、頭の中で音を立てて並び替わった。


 毎晩の外出。麓の茶屋に御者に水利組合に医師——灰粉町の側の人たち。蝋引きの布に包まれた、図面1枚には厚すぎた包み。あの人は毎晩、麓へ届いた写しを受け取りに降りていた。王都の文書庫から監察部から記録院から、恩のある手から手へ、1冊ずつ。


 そして気づく。菓子も無花果も、茱萸も胃薬も。あの持ち帰り物の主たちは全員、閣下がその夜に外へ出て、朝には帰ったことを知っている。日付つきの証人が、麓に毎晩一人ずつ増えていたのだ。


 「規程の写しを、集めていたんですね。3年前から――いや」


 違う。始まりは俺が来た夜だ。古い日誌に逃走の記載はなかった。


 「……俺が来てからだ。あなたは、俺に書かせるために」


 「そうだ」


 閣下は写しの表紙を開いた。条文が並ぶ頁の、ひとつの箇所を指で示す。第11条。逃走中の囚人は、捕らえずして処断してよい。


 「この条文は、俺が入って2か月後に増えた。この写しは追記の前のものだ。第11条がない。47冊、全部な」


 「……あとから書き足された偽物だと、示すために」


 「証明には紙が要る。それも、向こうの紙よりたくさん」


 「……あちらは何を、そんなに恐れているんですか」


 「ケルン堰の補修費が、5年ぶん、監察部を通って消えていた。俺はそれを知っていた側で、あの男は消した側だ。言えば、堰を任されていた技師が6人、先に絞られる。だから言わずに沈めた。あの男が怖いのは俺の口じゃない。閘門の夜、現場で何ひとつ決められなかった自分を、決めた人間が覚えていることだ」


 免罪の話ではなかった。沈めたのも、火をつけたのも、この人の判断のままだ。ならば、と俺は思う。この人が3年黙って背負っているものの目方は、罪状の紙に書いてある分より、だいぶ重い。


 この短い言い方の中に、3年ぶんの夜が畳まれていた。だが、まだ足りない。写しを集めるだけなら、脱獄はいらない。毎晩出て、毎晩帰る理由には、ならない。


 「閣下。写しは分かりました。でも、なぜ毎晩逃げて、毎晩帰るんですか。一度も出なければ、逃走中もない。房にいれば、あの条文は使えない」


 「使える」


 即答だった。


 「房の中で死んでも、逃走中に処断した、の一行が残ればそれで終わる。書式は先に刷ってある。お前も麓で見ただろう。名前の欄が空いた布告を」


 見た。糊の浮いた、風に端をめくられていた、あの紙。


 「偽の1回は、いくらでもでっち上げられる。それを嘘にできるのは、本物の48回だけだ。出て、帰った。出て、帰った。48回、お前の字で、日付と時刻つきで。あの帳面がある限り、偽の1回は、最後だけ帰らなかった不自然な結びになる」


 俺の日誌。俺の字。楽しい理由の列。あれは全部、この人の盾で——いや、違う。それだけじゃない。まだ1枚、足りない。


 紙のためなら、逃げ切ればいい。前例は、戻らなくても48回ぶん残っている。むしろ捕まらない場所まで逃げるほうが、命の勘定としては正しいはずだ。


 「……でも、それなら、半分です。なぜ毎晩、必ず、朝までに戻るんですか」


 閣下は椅子の背にもたれて、俺を見た。ずいぶん長く見てから、言った。


 「明日、あんたが当直だからだ」


 沈黙が、番所に降りた。


 規程第9条。囚人の逃走を許した当直の看守は、これを同罪とする——上申書の写しが48冊目の綴りの間から滑り出て、机の上にあった。閣下が馬車の中で、監察官の鞄から抜いてきたものだ。逃走ヲ企テタル囚人ハ、当直看守トトモニコレヲ処断スル。セーレンの署名。俺の職名。


 この人が帰らなかった夜、死ぬのは俺だった。


 だから帰ってきた。毎晩。風が冷たかった夜も、荷車が空だった夜も、鳩が足りない気がした夜も。俺の当直の夜には必ず、朝までに、どんな崖でも登って。


 マティアスの夜には、出ない。仮直の頁はいつも白い。あの白さの意味を、俺は今夜まで読めなかった。


 「……風が冷たかった、というのは」


 「本当だ」


 閣下は、いつもの顔で言った。


 「全部本当だ。俺は理由で嘘をついたことは一度もない。書ききれなかっただけだ。お前と同じだよ、看守」


 検証のため。自分の理由の欄の4文字を思い出して、俺は菓子の包みを握りしめた。布越しの熱がまだ残っている。この温かさも日誌には書いてこなかった。お互い、書ききれない側のほうがずっと多かった。


 「明日の朝、あの男は戻ってくる。移送の失敗を、今度は正式の審理に載せ替えてな。準備のいい男だ。書式だけは」


 「……閣下は、どうするんですか」


 「寝る」


 閣下は立ち上がって、自分の房へ向かって歩き出した。階段の途中で一度だけ振り返る。


 「お前は書け。今夜のことを、全部。省くな」


 ——4時13分。7号房、囚人アルヴィス・ダルグレン、房内に在り。移送より帰還。理由——


 俺は羽根ペンを握り直した。今夜は、書く欄が足りないくらいだった。

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